第6話 迷子たち
六条山に沈みかける夕日が、彼の影を道路に長く伸ばしていた。
慶一は、エンジンの振動が身体の中心に伝わるのを感じていた。
カワサキ・ゼファー400ccを駆り、京都市縦断道路から第二京阪道路へ、そして南へと向かう。
40分ほどで大阪ミナミに辿り着いた。
御堂筋を抜けると、道頓堀の人混みが彼を出迎えた。バイクを道脇に停め、慶一はメットとタンクバックを小脇に抱えて歩き出した。
もう20時だというのに、戎橋の上には人が溢れていた。皆、どこへ行くのだろう。何を求めているのだろう。慶一にはわからなかった。ただ、彼らが何かを見つけたかのように生き生きとしているように見えた。
橋の上から振り返ると、巨大なグリコの看板が夜空に浮かび上がっていた。直立したランナーの姿、その後ろで動く電光の波。煌々と光る人工的な笑顔は、明るく賑やかだが、どこか空虚な印象を与えた。笑っているのに、何も感じていないような。
彼の視線が川下へと移る。川岸の路地には若者たちの群れが見えた。音楽、笑い声、そして時折聞こえる歓声。慶一は不思議と、そこへ行きたいと思った。戎橋の脇にある階段を降りていく。一段、また一段と降りるごとに、上の世界との距離が開いていくような気がした。
階段を下りきると、異なる世界に足を踏み入れたような感覚があった。タバコの煙、安酒の匂い、そして川の微かな腐敗臭が混ざり合い、独特の空気を作り出していた。その空気を吸い込みながら、彼はFly Projectの「TocaToca」のビートに導かれるように進んでいった。
川岸の路地にはダンスに興じる六人の若者たちがいた。彼らの周りには見物人が輪を作り、スマホを向けたり、声をかけたりしている。慶一はその輪の外側を通り過ぎた。
厚底靴を履いた女子グループ、金色や赤、青に染め上げた髪の少年少女たち、メイドキャラの黒いコスプレ姿で立ち話をする女の子たち、壁に凭れて無駄口を叩く少年たち、一人黙々とスマホを眺める少女。彼らはそれぞれの領域を持ち、互いに干渉することなく、共存しているように見えた。
酔っているのか、何の理由もなく騒ぎ立てている女性がいる。彼女の周りには、同調を求めるような視線を投げかけながら笑う数人の若者がいた。別の場所では、TikTokの動画撮影に興じる集団がいる。彼らはスマホを中心にして、まるで儀式のように身体を動かしていた。
子供のような無邪気さと、大人のような世慣れた表情を同時に持つコスプレの女子たちもいた。彼女たちの過剰に装飾された姿は、現実逃避の象徴のようにも見えた。
慶一は座るスペースを求めて、さらに路地を進んだ。地面にはチューハイの空き缶、コンビニ弁当の空き箱、お菓子袋、レジ袋、タバコの吸い殻が散乱していた。戎橋から20メートルほど離れたところに、ようやく座れそうなスペースを見つけ、慶一は腰を下ろした。
メットを椅子代わりにし、タンクバックから山科で買った弁当を取り出した。いつもの290円の海苔弁当。外のビニールをはがし、割り箸を手に取る。その動作だけは、14歳の頃から変わらない。ご飯を口に入れても、特に味はしなかった。
ガラガラガラガラガラガガガーッ!
突然の音に、慶一は我に返った。心斎橋方面から一人の少女が走ってきた。厚底の靴を履き、ピンクのトランクケースを引きずっている。彼女の顔には必死の形相が浮かんでいた。視線が慶一と交わると、少女は何の躊躇もなく彼のいる場所に飛び込んできた。
「ねぇ!頼む!私の彼氏のフリして!お願い!」
慶一が何かを言う間もなく、少女は彼の隣に座り、腕を彼の腕に絡めた。その指先は震えていた。何が起きているのか理解する前に、警官が姿を現した。若い男性警官で、制服の襟が少し歪んでいた。
「キミ、新潟県から来ている村瀬瞳ちゃんだね。捜索願いがご両親から出ているんだ!もう1ヶ月以上になるんだから、一旦家に帰ろう!」
警官の声は穏やかだったが、少女は慶一の腕をさらに強く握りしめた。
「私はレナ!村瀬瞳じゃない!私、この人と暮らしてるんだから!ね?」
少女の目には、必死の懇願が浮かんでいた。彼女はまるで、沈みかける船から救命ボートに手を伸ばすような表情をしていた。
「じゃ、彼氏の名前は何て言うの?隣の君は彼氏?」
警官は慶一の方を見た。その視線には、少し疑わしげな色が混じっていた。
「ねぇ!あなた助けて!」
少女の声には、表面的な甘えた調子の下に、絶望的な恐怖が潜んでいた。慶一は一瞬、彼女を守ろうという衝動に駆られた。
「お、俺は…この子の彼…」
言葉を発しながらも、慶一は自分がしていることの意味を理解していた。それは単なる嘘ではなく、法律に関わる重大な問題だった。
「君!彼氏なんて言わない方が良いよ!この子は14歳だから、日本では君が匿うだけでも未成年誘拐罪にあたるんだよ!」
警官の言葉に、慶一の手のひらから急に汗が噴き出した。冷たい汗が背中を伝い落ちていく感覚。それは、小学校で初めて皆の前で発表した時の緊張に似ていた。
「はい…この子とは、今出会ったばかりです。」
慶一は真実を告げた。それは、彼女を守ることができないという意味だった。
「あほ!バカ!意気地なし!!」
少女は慶一の腕を振り払い、立ち上がった。彼女の目には怒りと絶望が混ざり合っていた。
「絶対帰るの嫌だ!私の自由で無くなるのよ!お巡りさん私、家帰ったら勉強するのに棒で叩かれたり、成績が悪かったら閉じ込められて!…それでも、それでも連れて帰られるの?あんな所家じゃない!帰らない!絶対嫌だ!死にたい!」
彼女は泣き崩れ、涙を拭う手首を上げた。そこには、無数のリストカットの跡が走っていた。線路のように、どこかに向かうでもなく、ただ並行して刻まれた痕跡。慶一はそれを見て、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
警官は困惑した表情で手を拱いていた。彼は少女をどう扱えばいいのか、分からないようだった。そこへ、同行していた別の人物が前に出てきた。それは警官より少し年上の、慣れた風情の担当者だった。
「瞳ちゃんなんだね?分かったよ。お父さんお母さんの事、今まで家であった事、お巡りさんと一緒に話を聞かせてもらえるかな?事情を聞かせてもらってからも、引き続き私たちは瞳ちゃんを守らせてもらうから!支援を続けさせてもらうよ。だから、落ち着いて。」
その人物の声には、不思議と安心感があった。それは単なる言葉の技術ではなく、長年の経験に裏打ちされた誠実さのようなものだった。
「本当?これからも助けてくれるの?」
少女の声には、かすかな希望が戻ってきていた。
「そうだよ。それが私たち、児童相談所の役目だからね。」
「本当に家に帰さない?…うん…助けてね。」
児相の職員は警官の方を向いた。
「あの、新潟の児相さんに虐待通報しようと思うのですが、大阪の児相さんからも連携してくださるんですね?」
「はい、明らかな児童虐待の事案ですし、保護案件として情報共有させていただきます。」
「よろしくお願いします!」
暫くして、少女は児相員、警官と共に戎橋の階段を上がっていった。彼女の後ろ姿は、最初に現れた時よりも少し軽くなったように見えた。ピンクのトランクケースは、まだ地面を引きずりながらも、少し浮き上がるような感覚があった。
慶一はその光景を黙って見送った。彼女と自分は、どこか似ているような気がした。彼女にとっての新潟は、彼にとっての山科のように思えた。彼女も自分も、居場所を求めて彷徨っているということでは同じだったのかもしれない。
川面に映るネオンは、何事もなかったかのように優しく煌めいていた。
光は水面で揺れ、砕け、また合わさる。入れ替わる人々の姿を映し出しながら、川はただ静かに流れ続けていた。もうすぐ22時を告げる鐘が鳴るだろう。