第4話 14歳の彷徨い 2
誰かの手が肩に触れた。
振り返ると、そこには紺色の制服を着た警察官が立っていた。警官の顔には、困惑と疲労、そして微かな同情が混ざり合っていた。
「まだ子供じゃない。もう0時だよ!この時間は帰らなくちゃダメだよ!家はどこ?」
その質問は単純なものだった。誰にでも答えられるはずの質問。しかし慶一の中で、それは途方もなく複雑なものに感じられた。家はどこか?…
彼は真剣に考えた。スナック二条?あの赤黒い扉の向こう?午後、彼が聞いてしまった喘ぎ声のする場所?彼の胸の中で小さな何かが震えた。もはやあそこは彼の家ではないような気がした。いや、元々彼の家だったのだろうか。かといって、他に行く場所もなかった。
慶一はゲーム機のレバーから手を離した。画面の中のキャラクターが無防備なまま攻撃され、倒れていく。「GAME OVER」の文字が赤く点滅した。
「家は...」
彼は言いかけて止まった。周囲のゲーム音が突然、遠くに感じられた。「家はない」とは言えなかった。あまりにも現実離れしていると思われるだろうし、何より、それを口にするのが怖かった。その言葉が現実になってしまうような気がした。
警官は首を傾げ、もう一度尋ねた。
「どこから来たの?親御さんは知ってる?こんな時間に一人でゲームセンターにいるなんて」
慶一は黙ったまま、床を見つめた。ゲームセンターの床には、様々な足跡が残っていた。大きな足跡、小さな足跡。急いでいるものもあれば、ゆっくりと歩いたものもある。彼の足跡はどうなるのだろう。
「名前くらいは教えてくれるかな?」警官の声が柔らかくなった。
「慶一。二条慶一です」
「何歳?」
「十四です」
警官はメモを取った。周りのゲーム音が再び彼の意識に戻ってきた。パチパチという発射音、デジタルの悲鳴、コインの落ちる音。
「二条くん、このまま一人にはしておけないよ。警察署まで来てもらえるかな?そこで話を聞かせてほしい」
慶一は小さく頷いた。抵抗する気力もなかった。
彼はパトカーの後部座席に乗せられた。窓ガラスに映る自分の顔が、妙に他人のように見えた。車が動き出すと、山科の夜景が流れていく。ネオンサイン。コンビニ。マンション。どれも彼にとって見慣れた風景なのに、まるで別の惑星のように遠く感じられた。
警察署は思ったより小さく、静かだった。慶一は応接室のような場所に案内された。壁には防犯ポスターが貼られ、古びたソファが置かれていた。年季の入った扇風機が、ゆっくりと首を振っていた。
別の警官が彼の前に座った。「お父さんとお母さんの名前と連絡先を教えてくれる?」
慶一は机の上に置かれた時計を見つめた。針は0時30分を指していた。
「父はいません」
「お父さんはどうしたの?」
「死にました。四年前に」
警官の表情が少し和らいだ。「そうか。じゃあ、お母さんは?」
慶一は窓の外を見た。闇の中に光る街灯。「母は...よくわかりません」
「どういう意味?」
どういう意味なのだろう。慶一自身にもわからなかった。母は母なのか。あの声の主は母なのか。外村さんの腕の中にいる女性は母なのか。
「ただ...わからないんです」
警官は彼を見つめ、やがて諦めたように肩をすくめた。「じゃあ、住所と電話番号だけでも」
慶一はそれだけは答えた。スナック二条の住所と電話番号。それがどこかの建物の情報であるかのように、感情を込めずに淡々と。
警官は出て行き、別の若い女性警官が入ってきた。彼女は慶一に緑色のタオルケットを渡し、温かい缶コーヒーを差し出した。
「少し休んでいいよ。すぐに迎えが来るから」
慶一はタオルケットを膝の上に広げた。それは意外と柔らかく、温かだった。缶コーヒーからは湯気が立ち上っていた。彼はそれを両手で包み込んだ。熱さがじわりと手のひらに広がる。
彼は壁に掛けられた時計を見つめながら、コーヒーをすすった。甘い。甘すぎるくらいだ。誰かが自販機でミルクと砂糖入りのコーヒーを選んだのだろう。
時計の針は、ゆっくりと動いていた。慶一はソファに身を沈め、目を閉じた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。少し眠ったのかもしれない。彼が目を開けたとき、あの最初の警官が部屋に入ってきた。
「二条くん、連絡が取れたよ。お母さんが探してるって。すごく心配してたみたいだ」
慶一の中で、安堵と拒絶が奇妙に混ざり合った。母が探している。母が彼を必要としている。それなのに、彼はその場所に戻りたくなかった。
「今から送っていくよ。大丈夫かな?」
慶一は黙って頷いた。どうせ行くしかないのだ。居場所がないということは、選択肢がないということでもある。
再びパトカーの後部座席。再び流れていく山科の夜景。そして、スナック二条の赤黒い扉。警官が彼を連れて扉を叩いた時、彼の心臓は早鐘を打っていた。
扉が開き、のり子が現れた。彼女の目は赤く腫れ、化粧も崩れていた。慶一を見るなり、彼女の顔に安堵の色が広がった。
「慶ちゃん!」
彼女は警官にお辞儀をし、慶一を見つめた。
「どこに行ってたの?何があったの?ずっと探してたのよ!」
慶一は何も言えなかった。喉が乾いていた。あのタオルケットの温かさが恋しかった。
警官が状況を説明した。ゲームセンターでの発見。警察署での沈黙。そして今。のり子は何度も頭を下げ、警官に感謝した。そして、慶一に向き直った。
「心配したのよ...」
彼女の目に涙が浮かぶ。それを見て、慶一の心に何かが揺れた。警官が去った後、のり子は慶一を抱きしめた。「ごめんね、ごめんなさい」
母の香り。シャンプーの匂いと、かすかに残るウイスキーの香り。そして、もう一つ、彼には名前のつけられない匂い。
警官が去った後も、のり子は何度も彼に謝った。彼女は本当に心配していたのだろう。だが、慶一の心には大きな穴が開いていた。その穴を母の涙や言葉で埋めることはできなかった。
その夜、慶一は自分の部屋で、明かりも付けずにベッドに横たわっていた。窓から差し込む街灯の光が、天井に不思議な模様を作っている。
彼は目を閉じた。暗闇の中で、別の世界を想像した。父の不在。父がまだ生きている世界。母が笑っている世界。そして彼自身が、確かな居場所を持っている世界。
だが、その想像は長くは続かなかった。現実が、重い足音を立てて近づいてくる。明日も学校がある。明日も、彼は「スナック二条」に帰ってくる。そして、何も変わらないのだ。
慶一は目を開けた。天井の模様は、まるで彼を見下ろしているかのようだった。
「居場所…」
彼はその言葉を口にしてみた。それは空気の中に溶けて消えてしまった。
あの日から、見つからないまま年月だけが過ぎていった。