第3話 14歳の彷徨い 1
あの日、中学二年生の春の午後、慶一は定期考査を終えて早めに下校していた。
時計は午後一時少し前を指していた。テストは思ったより難しくなかった。あるいは、彼にとって難しいことと容易いことの区別が曖昧になっていた。未だ成績は良かったのだ。
彼は京都市営バスに乗って、山科の自宅へと向かった。
バスの窓から見える景色は、いつもと同じだった。六条山。高層マンション。スーパーマーケット。そして、古いマンションの1階、赤黒い扉の「スナック二条」。
慶一は鞄を肩にかけたまま、その重い扉を押し開けた。
「ただいま」
返事はなかった。
午後の店内は、夜の喧騒を忘れたように静まり返っていた。カウンターに並ぶ八脚の椅子は、誰も座らないままきちんと揃えられている。シンと静まり返った空間に、かすかにウイスキーとタバコの残り香が漂っていた。
「母さん、寝てるのかな」
彼はそう呟き、細長いカウンターを通り抜けて店の奥へと進んだ。午後の日差しが、窓から細く伸びて床を照らしていた。慶一の影がその光を横切り、また離れていく。彼は奥にある住居部分、つまり彼と母親ののり子が住む空間へと足を進めた。
そして居間の前に来たとき、彼は足を止めた。
そこには母親ののり子が履いている赤いハイヒールと、見覚えのある黒いビジネスシューズが並んでいた。
− 外村さんのだ。
慶一は息を呑んだ。彼の鼓動が少し早くなったのがわかった。外村さんといえば、亡くなった父の上司。東京セラミックの役員。時々、スナックの手伝いに来る人。彼は小さい頃から慶一に優しかった。父が死んだ後、葬儀の手配まで全て引き受けてくれた人。そして今、その靴がここにある。
少しは勉強しないといけない。そう思いながらも、居間に入るのをためらった。戸の隙間から、かすかに声が聞こえてくる。母の声と外村さんの声。
「あぁん、こんな所でダメよ!」
母の声。いつもは聞いたことのないような甘えた声。
「もう良いだろ?未だに、潤くんに義理立てないとダメなのかい?」
外村さんの声。低く、少し焦れているような。
慶一は戸の前に立ったまま、動けなくなった。足が地面に根を張ったかのように。耳は勝手に会話を拾い続ける。
「そんなことないけど、でも、未だ多感な時期なのよ」
母が言った。多感な時期…それは自分のことだ。
「慶一君は大事だ。しかし、潤くんと約束したんだ!のり子さんを守るから!って」
外村さんの声に力がこもった。約束。父との約束。父は死ぬ前に何を頼んだのか。慶一は知らなかった。
「ありがとう!外村さんのお陰でこの店も何とかやっていけてる。それには感謝しているわ!でも、外村さんには、奥さんが居るじゃない!」
奥さん。そうだ、外村さんには家族がある。妻と二人の子供。時々の会話で名前を聞いたことがある。でも、会ったことはない。
「妻は、妻は、俺の事なんか何にも分かっちゃいない!気にもかけない。居てもいなくても同じさ」
外村さんの声が低く沈んだ。その声には、慶一が聞いたことのない感情が含まれていた。これが大人の声なのか。それとも男の声なのか。慶一にはわからなかった。
「でも、別れられないんでしょ?」
母の声が少し冷たくなった。
「...今は子供達が居る。から、でも、俺にも居場所が必要なんだ!のりちゃん愛してる!」
愛してる。その二語が、慶一の頭の中で反響した。愛してる。この男は母を愛している。俺の母を。そして母は?
「外村さん、私...」
その言葉の後に続いたのは、長い沈黙だった。慶一は戸の前に立ち尽くしたまま、次に何が起こるのか、次に何を聞くことになるのか、恐れていた。この戸を開けるべきか。あるいは、そのまま立ち去るべきか。
彼の頭の中で、様々な考えがぐるぐると回り始めた。父の思い出。母の笑顔。外村さんが父の葬儀で泣いていた姿。そして、スナックで見る母と外村さんの何気ない会話。それらの記憶が、まるで誰かに無理やり混ぜ合わされたかのように、彼の頭の中で渦を巻いた。
そして、その沈黙を破ったのは、母の声だった。
「あぁん...」
甘えるような、息を漏らすような声。慶一が今まで聞いたことのない、母の喘ぎ声。
その瞬間、彼の中で何かが壊れた。
慶一は背を向け、走り出した。足音を立てないように、しかし急いで。カウンターを通り過ぎ、赤黒い扉を開け、外へ。春の午後の日差しが彼の顔を照らしたが、彼はそれを感じなかった。ただ、遠くへ行きたかった。どこでもいい。ここから離れられればいい。
彼は走り続けた。山科の街を、目的もなく。そして気がついたとき、彼はマンションの前に立っていた。そう、友人の住むマンション。慶一はかろうじて足を止め、息を整えた。
八階。友人の岩田が住む部屋は八階にある。慶一は重い足取りでエレベーターに乗り込んだ。頭の中には、まだあの声が響いていた。
「あぁん...」
その声を消すように、慶一はエレベーターの壁を軽く叩いた。「八階、八階」と心の中で繰り返した。岩田は意外にも在宅していた。彼も定期考査の早退だったのだ。
「おう、慶一か。どうした?家に寄るなんて珍しいな」
岩田はそう言って、慶一を部屋に招き入れた。何も知らない顔。何も疑問に思わない顔。それが心地よかった。
「ちょっと勉強しようと思ってさ。一人だと集中できなくて」
慶一は取って付けたような理由を口にした。
「そうか。じゃあ一緒にやろうぜ。俺も数学がさっぱりでさ」
彼らは岩田の部屋でしばらく勉強した。数学の問題を解き、社会の年号を覚え、英語の単語を暗記した。窓から差し込む光が、徐々に傾いていく。
だが慶一の頭の中には、依然としてあの声が残っていた。
「あぁん...」
時計は午後五時を指していた。外が少しずつ暗くなってきている。
「そろそろ帰らないか?」岩田が言った。「母さんが帰ってくるんだ。夕飯の準備しないといけないって」
慶一は黙って頷いた。自分も帰らなければならない。だが、帰る場所が彼にはなかった。「スナック二条」は今や、彼の居場所ではなくなっていた。
「続きは家でするからさ。じゃあな!」
彼は岩田に元気に手を振って別れを告げた。しかし、出口のドアを開けた途端、その表情は曇った。帰る場所がない。この事実が、鉛のように彼の心に重くのしかかる。
彼は縦断道路沿いをあてもなく歩いた。黄昏時の空気が肌を撫でる。行きかう人々は、皆それぞれの場所へと向かっていく。だが、慶一にはそんな場所がない。
そして、彼の目に飛び込んできたのは、ネオンサインが煌めくゲームセンターだった。「ゲームパラダイス」。地域の不良たちの溜まり場だと噂される場所。それでも、彼はそこに足を踏み入れた。
中に入ると、光と音が一気に彼を包み込んだ。大音量の効果音。クレーンゲームに興じる女子高生たちの歓声。格闘ゲームの前で真剣な表情を浮かべる少年たち。そして、あちこちから聞こえる電子音楽。
この騒がしさが、むしろ慶一には心地よかった。あの声を消してくれる。頭の中の混乱を紛らわせてくれる。
彼は道中でコンビニで買った弁当を取り出し、ゲームの筐体の前で食べ始めた。290円の海苔弁当。母がいつも「安物買いの銭失い」と言っていた、あの弁当だ。だが、最高に美味しく感じられた。
彼は格闘ゲームに挑戦した。100円玉を入れ、レバーを握り、ボタンを連打した。画面の中のキャラクターが激しく動き、技を繰り出す。それは自分ではなかった。自分とは別の何か。それでも、心が少し軽くなるような気がした。
ゲームセンターには様々な人がいた。金髪の不良らしき高校生たちのグループ。真剣にダンスゲームに挑む女の子たち。一人黙々とガンシューティングをやる中年男性。誰も彼に話しかけてこない。これが居場所というものだろうか。少なくとも、彼はここで一時的な安らぎを見つけていた。
時間は流れた。一時間、二時間、三時間。外はすっかり暗くなっていた。ゲームセンターの熱気と騒音に囲まれていると、時間の感覚がおかしくなる。慶一は何度も100円玉を入れ、何度も敗北し、そして何度も再挑戦した。
そして時計は0時を回った。
「おい、君!」