第2話 居場所
カワサキのゼファー400ccは第二京阪道路を南へと吸い込まれていく。
日が落ちた後のハイウェイは、ただの光の流れだ。慶一は40分ほどアクセルを開け続け、大阪ミナミに辿り着いた。
あまり考えずに来たわけではない。考えすぎて来たわけでもない。ただ、エンジンが目的地を選んだようなものだった。
御堂筋を肺が空気を吸い込むように通り抜け、道頓堀に差し掛かったところで、ゼファーを路肩に停めた。この場所に来るのは初めてではなかった。以前にも何度か来たことがある。でも、毎回少しずつ異なる感覚がした。夜の街は、日によって色を変える。それはたぶん、自分の内側の何かが投影されているからだろう。
メットとタンクバックを小脇に抱え、慶一は道頓堀川へと足を向けた。
時計は20時を指していたが、戎橋の上は人であふれていた。
週末でもないのに、彼らは何をしているのだろう。自分と同じように、逃げてきたのだろうか?…それとも、何かを探しに来たのだろうか?
振り返ると、あの有名なグリコの看板が夜空に浮かんでいる。笑顔で両手を上げた巨大なランナーが、ネオンの光を放っている。あれは笑っているのか?叫んでいるのか?明るく鮮やかだが、どこか虚ろに見える。
慶一は川下の方に視線を移した。そこには、橋の下に集まる若者たちの群れが見えた。ああ、あそこだ、と彼は思った。
これが、戎橋…
脇の階段を降りていく。一段、また一段と降りるごとに、川面の高さに近づく。そして同時に、彼らの世界に近づいていく。タバコの煙と安酒の匂い、そして微かな下水のにおいが混ざり合った空気が鼻をつく。それでいて、そのにおいは妙に懐かしかった。
川岸の路地に足を踏み入れると、Fly Projectの「Toca Toca」が低音を響かせている。誰かのスマホから流れているらしい。六人の若者たちがリズムに合わせて体を揺らしている。それを取り囲むように十数人が半円を作り、声を上げたり、スマホを向けたりしている。
慶一はその横を通り過ぎる。厚底の靴を履いた女子のグループ。金色や赤、青に染め上げた髪の男女。黒いメイドっぽい衣装で立ち話している女子たち。コンクリートの壁に背を預け、低い声で何かを語り合う少年たち。無言でスマホを見つめている一人の少女。彼らは皆、奇妙な同意のもとに互いの距離を保っているように見えた。誰も干渉せず、誰も排除せず、かといって誰も本当には触れ合っていない。それぞれが自分だけの孤独を抱えながら。
彼らの間を抜け、道頓堀川沿いをさらに進む。
地面には、チューハイの空き缶、コンビニ弁当の容器、ポテトチップスの袋、中身の見えないレジ袋、タバコの吸い殻などが散乱している。誰かの痕跡。誰かがここを通り、何かを消費し、何かを残していった証拠。慶一はそれらを踏まないように注意しながら歩いた。
戎橋から二十メートルほど離れた場所に、ようやく座れるスペースを見つけた。誰かが捨てていった折りたたみ椅子のような物が川沿いに置かれていた。慶一はそこに腰を下ろした。メットを膝の上に置き、タンクバックから京都の山科で買っておいた弁当を取り出す。
蓋を開け、割り箸を取り出し、ご飯をかき込む。弁当の中身は、冷めた鮭と卵焼き、小さなおかず二つ。290円の安い弁当だ。だが、それでもこの場所で食べると、なぜか特別な味がした。
道頓堀の水面に映るグリコのネオンサインが、細波に揺れて砕け散っている。赤と青と緑の光が、水面で踊り、小さな星になり、また消えていく。その光景を眺めながら、慶一はふと思った。
「ここは、あの時の場所に似ている」
どの時だろう、と自問する。いや、それは自分でもわからない。過去のどこか、記憶の奥底にある場所。あるいは夢の中で見た場所。あるいは小説の中で読んだ場所。あるいは、これから訪れる場所。
慶一は弁当を食べ続けた。噛む音と、川の水が岸壁を打つ音だけが、彼の耳に届いていた。
ときどき誰かが通り過ぎる。
誰も彼に声をかけない。
慶一も誰にも声をかけない。
それが、この場所のルールのようだった。互いの孤独を侵さない。互いの存在を認めつつ、干渉しない。そんな暗黙の了解が、この橋の下の世界には流れていた。
ここは誰のものでもない場所だ。だからこそ、彼の居場所になりうる。一時的で、不確かで、本当は何の保証もない場所。でも、その不確かさが、なぜか心地よかった。
山科のあの場所よりはマシだ。母親ののり子と外村がいる「スナック二条」よりは、ずっとマシだ。