第20話 抗えない流れ
外村は娘の愛菜が好きな回転寿司屋のカウンターに座っていた。
隣で愛菜は、流れてくる皿を真剣な顔で品定めしている。中学二年生になった彼女は、すっかり大人びた顔つきになりつつあった。しかし、好物の甘エビが流れてくるとすぐに手を伸ばす仕草は、まだどこか幼い。
「愛菜、学校はどう?」外村は軽い調子で尋ねた。
「普通」愛菜は曖昧に答えた。「あ、でも英語のテスト、92点だった」
「おお、すごいじゃないか」外村は心からの誇らしさを感じた。最近、こうして二人で食事をする機会を意識的に増やしていた。
「お父さん、次の土曜日、バレエの発表会あるんだけど...」愛菜は少し言いよどんだ。
「来れる?」
外村は一瞬考えた。土曜日は、重要な取引先との会合があった。しかし、彼は既に決断していた。「もちろん行くよ」
愛菜の顔が明るくなった。
外村はふと、その笑顔がどれほど自分にとって重要なものか、そしてそれをどれほど見逃してきたかを考えた。
回転寿司を出た後、二人は夕暮れの街を歩いた。
愛菜は学校での出来事を、思いがけない饒舌さで話し続けた。外村はただ聞いていた。特に意見を言うわけでもなく、ただそこに存在していた。それだけで十分だと思った。
その夜、外村は眠りにつく前に、のり子に短いメッセージを送った。
「明日は行けない。また明後日」
返事はすぐに来た。「わかった。愛菜ちゃんと楽しんで」
外村は携帯の画面を見つめながら考えた。のり子はいつも理解してくれる。時には必要以上に…
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流山アヤメが踊る姿を見ていると、まるで空気が彼女の周りだけ別の密度を持つように見える…
そう思いながら、ネリ(Neri)はスタジオの壁に背を預けていた。
「DANCE LIBERATION」の壁には大きな鏡が張られ、そこにはアヤメの姿がいくつも映り込んでいる。どの姿も同じように踊り、同じリズムで呼吸している。それでいて、それぞれが微妙に違う表情を見せている。不思議なものだ。
「アヤメ、肩の力を抜いて!」ネリが言った。「あなたの体は水と同じ。流れるままにね!」
アヤメは小さく頷き、もう一度動きを始めた。今度は確かに何かが違う。彼女の体の中の何かが解放され、より自由に動き始めたように見える。
ネリはそんなアヤメの成長を、ここ数ヶ月ずっと見守ってきた。彼女の才能は特別だ。時折現れる若さゆえの粗さはあるが、それを補って余りある情熱と感性がある。それは単なるテクニックではなく、何かを語りかけるような、心を揺さぶるものだ。
ネリは一度、アヤメに尋ねたことがある。「なぜダンスを踊るの?」と。
アヤメは少し考え、こう答えた。「言葉にできないものを伝えたいから」
その答えが気に入った。本物のダンサーがする答えだ。
レッスンが終わると、アヤメは汗を拭きながらネリに頭を下げた。
「先生、今日はありがとうございました!」
「OK!…アヤメ、来週のオーディション、受けるつもり?」
ネリは、DANCE LIBERATIONが主催する新人発掘オーディションについて聞いた。毎年開催されるこのオーディションは、大阪では小さからぬ名声を持ち、これまでに何人もの若手ダンサーをプロの世界に送り出してきた。
「はい。慶一も、応援に来てくれます」アヤメは少し照れたように言った。
「彼氏?」河野は少し意地悪そうに笑った。
アヤメは小さく頷いた。
「アヤメにはチャンスがある。でも、知っておいて。あのステージに立つと、すべてが変わるわ。あと戻りできなくなる場所もある…」
アヤメは黙って頷いた。
何もかもが変わっていく、抗えない流れに乗っている様に感じていた。
午後9時半、慶一は御津公園のベンチに一人で座っていた。
アヤメから「レッスン終わった。すぐ行くね」というLINEが来ていたが、既読になって45分も経過していた。未だアヤメからの連絡はない。
月が雲に隠れたり顔を出したりしていた。
慶一の横には、地べたに置いたバイクのヘルメットとゼファー。
苛立ちが波のように押しては返していた。
我慢が限界に達しようとした時、アヤメが向こうから現れた。