第13話 依存症という檻
戎橋の下は、雑踏のざわめきと喧騒とビートが混ざり合っていた。
アヤメの体が音楽に合わせて動き出すと、その周囲には自然と人だかりができる。
彼女の隣では瞳も身体を揺らし始めた。
二人の踊りには不思議な調和がある。そして、その動きには激しさと切なさが同居している。体が語る言葉は、声よりも正直だ。瞳はそれに呼応するように、時に遠慮がちに、時に挑むように踊る。二人の間で交わされる無言の対話のようだ。
周囲の若者たちはスマホを向け、時折声援を送る。アヤメにとって、それは確かな居場所の証だ。「ここで私は認められている」という一時の安心感。瞳にとっても、アヤメと踊る時間は、新潟での過去から解放される瞬間だ。
「AYAME16、今日もヤバい!」
「隣の子も上手くない?」
「もう一回見たい!」
声援が飛ぶ。
曲が終わり、二人が息を整えると、群衆はすぐに次の娯楽を求めて散っていく。
残されたのは…汗ばんだ二人と冷たい川風だけだった。
「今日は人多かったね」瞳が息を切らしながら言った。
「うん…」アヤメの声は妙に虚ろだった。
群衆が去った後の空虚感は、毎回やってくる。
「辛い…誰も私の事なんか!」
それは薬の効果が切れ始める様子と重なっていた。
アヤメの手が小刻みに震え始める。瞳はそれに気づいて、アヤメのパーカーのポケットを探った。
「もう無いよ!」アヤメが言った。「さっき最後の10錠を飲んだよ!」
「アパートに帰ろう。まだ少し残ってるはず」
二人は橋の下を後にし、暗い路地を通ってアパートへと向かった。夜の大阪は眠らない。しかし、彼女たちの足取りは夢遊病者のように重い。
アパートに着くと、いつもの汚れたドアを開け、中の薄暗い空間に入った。部屋には誰もいない。瞳はマットレスの下から小さな袋を取り出した。
「ほら、まだあったよ!」アヤメの手が伸びる。
しかし、瞳は一瞬躊躇った。
「この前、私がどうなったか覚えてる?」瞳の声に、珍しく迷いがあった。
アヤメは黙って瞳を見つめた。あの日の光景が二人の脳裏に蘇った。床に倒れて震える瞳。冷たくなった唇。慶一の必死の声。
アヤメは少し考えるように黙り込み、やがて小さな声で言った。
「最初は逃げるためだった。しんどい現実から。でも今は...やめられない」
「やめられない...」瞳も呟いた。
「この場所は抜け出せても、この薬からは抜け出せない。皮肉だよね」
アヤメは虚ろな笑みを浮かべた。
自由を求めて逃げてきたのに、今は別の檻に閉じ込められてる…自由と依存、逃避と現実。すべてが複雑に絡み合っていた。
「仕方ない、これがないと…私、生きていけない」アヤメの声が震えた。
「アヤメ、私たち、こんなままじゃ…」瞳の言葉は完結しないまま宙に浮いた。
何かを変えなければならないと分かっていても、そのための力が二人にはなかった。
「ちょっとだけでいい」アヤメが手を差し出す。「少しだけ…」
瞳はアヤメの手に小さな錠剤を二つ落とした。本当はもっと必要なはずなのに。アヤメはそれを見て苦笑した。
「ケチだね」
「瞳、これで最後にしようよ!明日からは…」
「明日から何?」瞳が急に声を荒げた。
「明日から急に普通の生活が始まるの?学校に行って、友達と笑って、夜はちゃんと寝て?そんな生活、私たちには無理だよ!」
アヤメは黙り込んだ。瞳の言うことは正しい。アパートという檻から出たところで、彼女たちに行き場はない。新潟に帰れば親からの虐待が、滋賀に帰れば冷たい父親が待っている。
「でも、このままじゃ死ぬよ」アヤメが小さく言った。
瞳は何も答えず、錠剤を一気に飲み込んだ。アヤメも、自分の分を取り出して口に入れた。二人はマットレスに横たわり、天井のシミを眺めた。
「慶ちゃんに言わないでね」アヤメが囁いた。
「うん…」瞳の声はすでに遠かった。
部屋の中で時間がゆっくりと流れ始める。窓の外から漏れだしたネオンの光が、二人の無表情な顔を照らしていた。
アヤメは気づくと震えていた。全身を冷や汗が覆い、歯が小刻みに鳴る。
「レナ…」声を出そうとしても、喉から絞り出せるのは弱々しい呼びかけだけ。
瞳は隣で眠っていた。彼女の呼吸は規則正しく、平和な顔をしている。アヤメは起き上がろうとしたが、身体が言うことを聞かない。手足に力が入らず、部屋全体が揺れているように感じる。
「レナ…起きて…」
ようやく瞳が目を開ける。一瞬ぼんやりとした表情だったが、アヤメの様子を見て飛び起きた。
「アヤメ!どうしたの?」
「わからない…体が…動かない…」アヤメの声は途切れ途切れだった。
瞳は急いでアヤメの額に手を当てた。熱くはないが、冷や汗で濡れている。手首を握ると、脈は速く不規則だった。
「これが、この前の私?」
アヤメは答える代わりに、マットレスの下を指差した。瞳はすぐに理解して、残りの薬を探した。しかし、昨日使い切ってしまったのだ。
「ない…もうないよ」
アヤメの目に恐怖の色が浮かぶ。彼女の震えはさらに強くなり、呼吸が荒くなった。
「慶一くん…呼ぶ…」瞳はアヤメのスマホを手に取った。
スマホの画面には、慶一との最後のメッセージが表示されていた。「明日また来るよ」。しかし、今は明日を待てない。
瞳は急いで慶一に電話をかけた。呼び出し音が三回鳴った後、慶一の声が聞こえてきた。
「アヤメ?」
「慶一くん、私、レナ。アヤメが…アヤメが大変なの」瞳の声が震えた。
「どうした?」慶一の声がすぐに真剣になる。
「体が震えて、冷や汗かいて…目も…」
慶一の声は冷静だった。「すぐ行く!それまでアヤメから離れるな。水を少しずつ飲ませて。話しかけ続けろ!」
電話が切れた後、瞳はアヤメの隣に座り、彼女の頭を膝に乗せた。アヤメの瞳孔は異常に開いていて、時折目が宙を彷徨う。
「大丈夫だよ。慶一くんがすぐ来てくれるって」
瞳はアヤメの汗ばんだ髪を優しく撫でながら、小さな声で歌い始めた。それは二人が一緒に踊る時によく使う曲だった。