第10話 干渉しないルール
「村瀬…瞳?」
「あ、あの時の...」瞳は慶一を見てすぐに思い出したようだ。少し身体を強張らせる。
アヤメが二人を見比べる。「知り合い?」
「え?どうして知ってるの?」アヤメが割って入った。
「実は、橋の下で一度会ったことがあるんだ。彼女が警察に連れて行かれる直前に」
瞳は眉をひそめ、アヤメに向き直った。
「私を助けてくれなかった人!嫌だからね」
瞳はドアの前で立ち止まったまま、半ば警戒するような目で慶一を見ていた。
しかし、アヤメが「この人は大丈夫」と小さく頷くと、緊張が少し解けたように見えた。
「児相から逃げてきたの。あんなところ、居場所じゃなかった」
瞳は髪を耳にかけながら言った。その手首には、慶一が以前見たリストカットの痕が、まだ薄く残っていた。
慶一は壁際に寄りかかり、アヤメと瞳が床に座るのを見守った。
部屋を見回すと、そこにはアヤメ、瞳以外にも数人の若者たちが暮らしている形跡があった。壁には落書きのようなアートが描かれ、床には雑誌や洋服が散乱していた。冷蔵庫はなく、レンジと電気ケトルだけが唯一の調理器具。狭い部屋には彼らの他に誰もいなかった。
「この共同アパート、結構前からあるらしいよ」アヤメが説明する。
「似たような境遇の子が入れ替わり立ち替わり住んでるの。でも、正直言って生活はかなり...きついかな」
彼女の言葉を裏付けるように、部屋の隅には洗っていない食器が積み上げられ、床には服やゴミ袋がそこかしこに散らばっていた。マットレスの上にも雑誌や空の菓子袋が放り出されている。
「毎日、どうやって生活してるの?」慶一は気になって尋ねた。
「それぞれ、やりくりしてる」アヤメは曖昧に答えた。「私はアルバイトしてるし...ダンスでチップもらったり…」アヤメは言葉を濁した。その言い方に、話せない何かがあるようだった。
「レナ、ちゃんと手洗ってきなさいよ」
アヤメが瞳に声をかけると、少女は無言で立ち上がり、部屋の隅にある簡易的な洗面スペースへと歩いていった。
「レナ?」
「あの子、自分のこと『レナ』って呼んでほしいんだって。本名が嫌いみたいで」アヤメは肩をすくめた。「まあ、私も人のこと言えないけどね」
水の音が聞こえる間、アヤメは慶一に身を乗り出して、小声で話し始めた。
「あの子、まだ14なのに、すごく辛い目に遭ってきたみたい。親からの虐待とか...私よりずっとひどい」
慶一は思わず瞳の方を見た。小柄な後ろ姿が、急に儚く見えた。
「それで、ここに来たんだね」
「そう。自由を求めて」アヤメは言った。「私たちみんな、そうなんだよ。でも...」
彼女は言葉を切った。
その目が一瞬、どこか遠くを見ているように思えた。
瞳が戻ってくると、彼女はすぐに話題を変えた。
「ここでは、みんな自分のルールで生きてるの」アヤメが言った。「誰も命令しないし、命令されないの」
「ねえ、お腹すいた?何か食べようよ!」瞳が言った。
彼女はそう言うと、奥にあるマットレスの一つに向かい、布団にくるまった。その後ろ姿は幼く、14歳という年齢を思い出させた。
慶一とアヤメは語り合った。時々、アヤメは瞳が寝ているマットレスの方を気にしながら…
ゼファーのキーを右手で弄りながら、窓辺から夜の道頓堀の夜景を眺め続けていた。
ネオンの光が明滅して、部屋の中まで染め上げる。
どこか懐かしく、どこか遠い景色。こんな場所が、彼らの居場所になっているのだ。