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この恋は、海に溶ける

作者: サバ寿司

第一話「海音と燈」


 私がこの町に引っ越してきたのは、本格的な夏がやってくる前。流れてくる風には、海の香りが混ざっていて、まるで別の世界にいるような気がした。


「夜は星が綺麗だし、とても魚が美味しいのよ」


 なんて両親は言っていたけれど、私は正直なところ、不安で頭がいっぱいだった。


 二学期の夏休み前という中途半端な時期に転校するのは、どう考えてもハンデが大きい。クラスにはすでに仲のいいグループができているだろうし、その中に飛び込む勇気なんて……私にはない。


 転校初日、ホームルームで先生に名前を呼ばれ、クラスの前に立った。


「えっと……白石海音みおんです。東京から来ました……。よろしくお願いします」


 静まりかえった教室に、ぱらぱらと小さく拍手が鳴る。教室の空気がよそよそしくて、私だけ透明人間みたいだ。


 けっきょく数日が過ぎても、ぎこちない日々が続いて、想像以上に疲れた。休み時間に一人で机に座っていると、どうしても前の学校の楽しかった頃ばかりを思い出す。


 家に帰っても、ぜんぜん気分は晴れない。父は仕事に追われていて、部屋にこもって出てこない。ときどき顔を合わせると、「学校はどうだ?」と聞いてくるけど、何を言っても同じ返事しか来ないから、私には興味がないと思う。母はいつもリビングでノートパソコンを打ちながら、「今日は早く仕上げなきゃ」と忙しそうだ。


 私も気を使うから、いつもは部屋で過ごすようにしている。制服を脱いでベッドに転がり、スマホを手にする。SNSを開けば、前の学校のグループラインから、楽しそうな写真が次々に流れてくる。


 プールへ行った投稿、遊園地での集合写真、旅行先の風景。みんな生き生きとした笑顔をしていて、私だけが時間が止まってしまったようだ。


「私なんて、いなくなっても、誰も気にしないんだろうな……」


 連絡を取りたい気持ちはあるのに、いざ画面を見ると指が動かない。


 夜になると、なおさら孤独を感じてしまうから嫌だ。暗い部屋でベッドに横になり、青白く光ったスマホを一生眺めている気分。


「私、どうしたらいいんだろう……」


 ある晩、じっとしていられなくなって、思わず外へ出た。こんな遅い時間に家を出るなんて初めてで、ちょっと罪悪感があった。だけどそれ以上に、胸のモヤモヤを振り払いたかった。街灯がポツポツと続く道を歩いていくと、遠くから波の音が聞こえてくる。塩の香りが風に乗って漂ってくる。


 不思議だけど、なにか懐かしいような気持ちになった。


 砂浜につくと、誰もいなくて安心した。耳を澄ませば、ざざあっという波音が響いてくる。静かだけど、静かじゃない。だけど、うるさいわけでもない。私はサンダルを脱いで、そっと砂に足を埋めてみた。じんわりと冷たさが伝わってくる。


 視線を上げると、月の光が海面に細く伸びていた。さざ波が光を揺らしていて、まるで銀色の道が、海のはるか彼方へと続いているみたい。


 スマホのカメラで撮ってみるけど、うまく写らない。この目で直接見る景色が、いちばん美しいと思った。


 海から吹く風が髪を揺らし、目に入るから耳にかける。誰もいない夜の海辺は、不思議なほど安心感があって、ずっとここで海の音を聞いていたいと感じた。


 そのとき波の上に、ぼんやりした光が浮かんだ。最初は月の反射かと思ったけれど、少し違う。あれは……何だろう。


 波に透けるような青い光。どうしても気になったから、近づこうと歩いて行く。まるで何かに導かれているような感覚。なぜか胸がドキドキしていた。


 その光は、まるで生き物のように揺らめいて、次第にこちらへ近づいてくる。私は足を止め、息を飲んだ。


 すると波打ちぎわで、大きな水しぶきが上がった。その泡の中から、すっと何かが姿を現す。月明かりに照らされて、青みがかった髪が、ほんの少し揺れている。私を見ると、静かな声でこう言った。


「こんな夜に一人でここにいるなんて……。きみ、変わった子だね」


 私は一瞬、言葉を無くしてしまった。人間と違う姿をした、誰かがいた。上半身は人のように見えるけれど、腰から下は水色の鱗で覆われていて、長い尾びれのようなものが波の中でゆらゆらと動いている。


 普通なら悲鳴を上げるかもしれない。でも、その透き通る瞳に見つめられると、なぜか心が落ち着いてくる。深いブルーとグリーンが混ざったような、海の底を思わせる神秘的な色。


「もしかして……人魚、なの?」


 そう問いかけると、相手は首をかしげ、少し笑って答えた。


「ぼくは、ともり。きみは?」


「私は、海音みおん……です」


「海音っていう名前、いいね。海の音って書くの?」


「そう……だけど、あまり好きじゃないの。自分に合ってない気がして」


「でも、ぼくはその名前、すごく綺麗だと思うよ」


 燈は透明な声で、囁くように話す。それが心地よく、耳の奥にスッと入ってくる。


 気づけば私は、膝まで海水に浸かっていた。冷たいはずなのに、なぜか気にならない。燈は尾びれをゆっくり動かしながら、こちらを見つめている。波打ちぎわの境目にいる私は、どっちの世界にも入れない状態だ。


「あなたは……海の中に住んでるの?」


 燈は軽くうなずいて答えた。


「うん。ぼくは海底の街で暮らしてる。そこでいろんな本を読んだ。地上には雲とか太陽とか虹とか、人間の暮らしがあるんだって。ずっと憧れてたんだよ、海の向こうの世界に」


夢を見るように話す燈の目が、さらに透き通って見える。


「ねえ。海底の街って、どんなところなの?」


 気づけば、私は次々に質問を投げかけていた。物語の中でしか知らない世界に住んでいる人が、目の前にいる。燈はゆっくりと目を伏せて、波間を見つめながら静かに口を開いた。


「昔は人間との交流もあったらしい。でも、あるときから人魚の世界は深い海の底で閉ざされてしまった。夜しか海面に出られない。そして月の光がないと、人間と話すことができない」


 限られた時間にしか会えない、美しい人魚の少年。私は「もっと話したい」と思った。


 気がつくと、夜風が冷たくなっていて鳥肌が立った。こんな時間まで外にいるなんて、両親は何て言うだろう。だけど、ここから離れられない。燈も私を見つめたまま動かない。


 そうして、私がもう一歩海に入りかけたとき、燈が優しい声で言った。


「無理しないで。夜の海は冷えるから」


 私の心配をしてくれる人魚に、人間よりよほど暖さを感じた。


「また、来てもいい……かな?」


 恐る恐る私が言うと、燈の瞳が月明かりにかすかに輝いた。


「もちろん。ぼくもきみと話すのが楽しいから。……だけど、月が出ている夜しか会えないからね」


 そうして、私たちは不思議な「秘密の時間」を共有する。こんな夜がこれからも続くと思うだけで、新しい世界に踏み入れたようで楽しくなってくる。


――だけど私は、まだこのとき、燈の秘密を知らなかった。




第二話「海中散歩」


 それから私と燈は、夜の海岸で会うようになった。家族に見つからないように、こっそり外へ出かける。真っ暗な砂浜に着くまでの間は少し緊張するけれど、燈の青い髪が見えた瞬間、笑顔になる。


「今夜は少し、泳いでみる?」


「なにそれ?」


 冗談だと思って笑い返したら、燈は真剣な目で私を見つめる。


「夜の海は暗いけれど、ぼくがいれば大丈夫だよ」


「そんなの無理に決まってるよ」


 燈は私を見つめて、「信じてほしい」と言う。


 燈は足の鱗の一部を、そっと剥がした。淡い水色の鱗は、月明かりを受けてかすかに光っている。それを私の手のひらに乗せて囁いた。


「これを、握って」


 半信半疑のまま、私はそれを指先でぎゅっとつかむ。すると、不思議な感覚が頭の中を駆けめぐった。さざ波が耳元で聞こえて、澄んだ蒼い海が視界に広がるようなイメージが浮かぶ。


「こっちだよ」


 燈が手を差し伸べると、私はゆっくりその手を握り、海に入りこんだ。波が腰のあたりまできても、冷たさを感じないどころか、ほんのりと温かい。


「行くよ」


 燈に誘われるまま、私はまるで夢を見るように海に沈んだ。夜の海は真っ暗なはずなのに、薄く青い光が広がり、辺りが見渡せる。私と燈は手をつないだまま、ゆっくりと海中へと潜っていく。呼吸も平気で、新しい世界へと来た気分に高揚していた。


「ここまで来ると、陸からは私たちが見えないよね」


「うん、ぼくらだけの世界だ」


 燈は微笑んだ。彼の綺麗な表情もよく見える。声もはっきり聞こえて、私は思わず胸がドキドキする。


「この海のいちばん深いところに、ぼくの暮らす街があるんだ」


 海の底に街があるなんて、まるでファンタジーみたいだ。


「いつか海音に、見に来てほしい」


「うん。私も行ってみたい」


「もしよかったら、いつか一緒に暮らさない? きみとぼくで、海の街で過ごすんだ。永遠に楽しく」


 それを聞いた私は、心臓が一瞬止まるかと思った。その言葉に、ぞくりとするほど魅力的に感じてしまった。


「うそうそ、あんまり真に受けないで」


 燈はすぐに、はにかんで笑った。だけど私は、胸の高鳴りが止まらなかった。


 泳ぎ終わって海面に顔を出すと、夜空には目を細めた月が覗いている。


「こんな経験、私、初めてだった……」


 砂浜に戻ると、思わずつぶやく。夢のような、不思議なことの連続だった。髪も服も、濡れてもいなかった。


「ねえ、燈。いつか一緒に私の街を、遊びに行かない?」


 まだ興奮が冷めない私が言うと、波の上で佇んでいる燈は、寂しそうに目を伏せて言った。


「地上に出ると、人魚の体は、泡のように空気に溶けてしまうんだ」


「そんな……本当なの……?」


「ぼくの街には古い言い伝えがあって、人魚には海を離れられない呪いがかかっているんだ。かつて、人間を好きになってしまった人魚の姫がいたんだ。彼女を憎んだ海の王様が、その恋を断ち切るために、呪いをかけた」


 呪い……? まるでお伽話しだと思った。でもさっきの不思議な経験をした今の私には、燈の話が本当だと分かる。


「ぼくがここに来られるのも、もうちょっとだけなんだ……」


「嘘……。せっかく私、燈と友達になったのに……」


「ごめんね、海音。この夏が終わるころ、たぶんぼくは、地上へ上がる力を失ってしまう」


 燈は、笑っているのか悲しんでいるのか、分からない顔をしている。私は泣きそうになっていた。この街にきて、初めてできた友達。美しい人魚の男の子。その穏やかな表情も、静かな話し方も、私にとってはかけがえのないものになっていた。


「そんなの、嫌だよ……。私は、燈とずっと、一緒にいたい……」


 こらえようと思っても、涙が勝手に出てくる。


「ありがとう、海音。きみはとっても優しいんだね。一つだけ、人魚の呪いを解く方法があるんだ」


「なに……? 私にできることがあったら、教えてよ……燈」


 そのとき言った燈の言葉を、私はずっと忘れることができない。彼は、その透明な瞳で泣きじゃくる私を見つめたまま、言った。


「愛する人を連れて、海に戻ること」


 ふとスマホのアラームが鳴って、家に戻る時間を知らせてくる。燈の話した意味がまだ理解できなかったが、「ごめん……もう行かないと……」と言う。


 私は燈を振り返り、「また話そうね」とだけ伝えて走り去った。燈は波の上で、反射する淡い月の光に照らされて、蜃気楼のように揺れていた。




第三話「夏祭り」


 その日は、夏祭りだった。私は朝から憂鬱で、布団から出たくなかった。窓の外は晴れていて、もわっとした暑さを感じる。クラスのSNSグループを開くと、みんなが「今日は夕方に集合しよう」と盛り上がっている。


 私は誰にも誘われていないから、溜息をついて見ているだけだった。そのとき隣の席の子が、「白石さんも来るよね?」と書き込み、思わずスマホを何度も見返した。


「行く!」と短く返事を打って送信すると、「楽しみ!」とスタンプを返してくれた。屋台で何を食べようとか花火はどこで見るかとか、みんなが楽しそうに話している。私もその輪に混ざったのは初めてで、思わず泣きそうになってしまった。


 浴衣を着ようか迷ったけれど、せっかくのお祭りだからと母に頼んでみたら、最近はケンカをしてばかりの母が「いいわね」と笑顔で言ってくれたのが意外だった。


 夕方になり、母は仕事の手を止め、浴衣の着付けを手伝ってくれた。着慣れないから、帯をきゅっと結ばれると息苦しくなる。母は「お嬢さん、髪もまとめましょうか?」と楽しそうに提案してくれて、私は照れながらお願いした。


いつもは文句ばかり言ってしまう私だけど、こういうときは少し「ごめん」と思う。


「せっかくだから楽しんできなさい」


 母はにこりと笑って、背中を押してくれた。素直に「ありがとう」が言えなくて、私はぎこちないうなずき方しかできなかったけれど、とても嬉しかった。


 祭り会場は海沿いにある広い広場で、屋台のにぎわいと人ごみがすごい。赤提灯が揺れ、たこ焼きやトウモロコシの香ばしい匂いが漂っている。遠くでは太鼓の音がどんと鳴り、夏祭り特有の熱気が一気に広がっている。


「白石さーん! こっちこっち!」


 声が聞こえて振り向くと、誘ってくれたクラスメイトたちが手を大きく振っていた。10人ぐらい集まると、皆で祭りの話をする。こんな風にクラスメイトたちと話すのが新鮮で、ちょっとこそばゆい。だけど、私はつい考えてしまう。


――このまま祭りを楽しんでいいのかな、と。


 もし燈も地上に来られたら、この楽しい雰囲気を一緒に味わえたのに……。そんな思いが心に広がってしまう。


 私はクラスメイトたちと一緒に屋台をひと通り回る。みんなで「何食べる?」とか「くじ引きでもする?」なんて相談する。私は一緒に笑いながらも、心のどこかに「燈も連れてきたかった」と思う自分がいる。


 ふとスマホを見たら、時間がけっこう経っていて驚いた。空はさらに暗くなって、夕陽のオレンジが暗い藍色に溶けて沈んでいく。


 クラスメイトたちは、いつ花火が上がるんだろう話している。そのとき私は、燈の優しい微笑みを思い出した。一緒に祭りには行けないけど、もしかしたら花火なら見られるかもしれない。そう思うと私は、いてもたってもいられなくなった。


「……ごめん。ちょっと用事を思い出した!」


 突然そう言って、皆をびっくりさせた。


「え、どうしたの?」と言われたけど、私は言い訳を考える余裕もなく、「ごめんね!」とだけ言って人ごみを抜け出した。せっかく誘ってもらったのに失礼だと思う。それでも、どうしても行かなきゃいけない気がした。


 浴衣の裾を握りしめながら、海岸へ続く道を急ぐ。祭りから遠ざかるほど、夜は静寂を取り戻していく。私は息を切らしながら、「間に合って」と心の中で何度も願う。燈が祭りに来られないのは分かっている。だからせめてあの海で、花火を一緒に見たかった。


 砂浜にたどり着くと、そこは祭りの賑わいなんて一つも感じない。


「燈……いる?」


 走ってきたせいで、息切れをしている。すると、私の足もとに近づくように、何かが波しぶきをあげる。そのまま浜辺へあがってきた人影を見て、私は息が止まる。


 青い浴衣を着て、下半身が尾びれではなく、人間の足になっていた。


「海音……来てくれたんだね」


 燈は少し苦しそうな笑顔を浮かべていた。私は驚きのあまり、思わず口が開けっぱなしになってしまう。だって燈が人の足で立っているなんて、考えもしなかった。


「どうしたの……。その足……」


「きみのために、がんばってみたんだ」


 その瞬間、私の胸にいろんな感情があふれた。嬉しさと、どうしようもない不安。だけど今は何も言えなくて、とにかく彼がここにいることに、胸がいっぱいになってしまう。


「さあ、海音……。祭りを、見に行こう」


 私はぎこちなく手を伸ばし、燈と指先を重ねた。夏の夜の海風が吹く中で、浴衣を着た人魚と砂浜を歩く。私の心は、確かにときめいていた。


 私たちはゆっくりと祭りの方へ歩き始めた。燈は人の足で歩くのに慣れていないみたいで、時々よろめく。私が心配そうに見つめると、「大丈夫だよ」と無理に明るく笑う。


 祭り会場に近づくにつれ、人の波が増えてくる。燈は興味深そうに周りを見回している。


「人間の世界って、こんなにも明るくて、賑やかなんだね」


「このあたりは人も少ないし、お祭りのときだけだよ」


 燈と歩き、なんでもないような会話をすることが、とても新鮮で楽しかった。花火が上がるのにはまだ時間があるみたいだから、しばらく二人で歩いてみることにした。


 屋台が並ぶ通りに入ると、燈の目が輝いた。「あれは何?」「これは?」と次々に質問してくる。チョコバナナを見て「この黒くて曲がった棒みたいなものはなに?」と首をかしげたり、金魚すくいを見て「あんな小さな網で魚が取れるの?」と不思議そうにしたり。その様子があまりにも愛らしくて、私はたくさん笑った。


「何か食べてみる?」と聞くと、燈は少し考えてから「君が好きなものを」と答えた。


 私は綿菓子を選んで、一緒に食べることにする。燈には話していないけど、綿菓子を男の子と食べるのが憧れだった。彼はきょとんとした顔で綿菓子を眺めたあと、ぱくっと食べた。


「なにこれ! ふわふわで、空気みたいなのに、とても甘い!」


 燈がこんなに感情を見せて話すのが初めてだったので、私の笑いが止まらなかった。


「私も一口ちょうだい……?」


 ドキドキしながら言うと、燈は私の口に綿菓子を持ってきてくれた。こんなに甘い食べ物は、生まれて初めてだと私は思う。全部が特別で、キラキラと輝いていた。


 だけど燈と会えるのもこの夏の間だけということを思い出すと、泣きたいぐらい切ない気持ちにもなった。


 人ごみの中を歩きながら、クラスメイトに会わないかと緊張もした。でも不思議なことに、みんなの姿は見当たらない。もう別の場所に移動したのかもしれない、そんなことを考えていると、突然燈が立ち止まった。


「大丈夫?」


「うん……。少し、疲れただけだと思う……」


 その声には力がなかった。


「ねえ、もう戻ろう? あそこの海からでも花火は見えるかもしれないよ」


 燈は何も言わずにうなずいた。途中で何度かよろめいて、なんとか支えながら歩く。祭りの喧騒は遠ざかり、かわりに波の音が近づいてくる。私たちは人気のない浜辺まで、ゆっくりと歩いた。


「ごめんね……」


砂浜に着いたとき、燈がかすれた声でつぶやいた。


「もっとお祭りで、一緒にいたかったのに」


「ごめんなんて言わないで。私は、すごく楽しかったよ」


 そのときふいに燈の体が、月明かりに透けるように見えた。人間の姿でいるのが、もう限界なのかもしれない。私にはそれが分かった。ただ不安で、燈の手を握りしめることしかできなかった。


 その時、遠くで空に、大きな花火が上がった。ドンという音が響き、夜空が金色に染まる。燈は顔を上げ、その光景を見つめた。花火の光が、彼の儚げな横顔を照らしていた。




第四話「この恋は、海に溶ける」


 色とりどりの光の粒が、ひらひらと夜空に落ちていく。続いて連発の花火が打ち上がり、海面に色が反射する。そのたびに燈は瞳を同じように輝かせながら見上げていて、その様子を見ているだけで私まで嬉しくなった。


 人間の私にとっては見慣れた花火だけど、人魚の燈にとっては見たことのない景色だと思うと、その初めては私で良かったと思った。


「海音……。花火って、すごいね……」


 燈の小さな声が聞こえる。


 私は「うん、綺麗だよね」と返す。


 彼を見ていると切なくて、私の胸が痛む。花火の音がいったん小さくなった頃、燈は私の手を握りなおして言った。


「きみがぼくに見せてくれる世界は、ぜんぶ素敵だ」


「良かった……」


 本当は、燈にはもっと地上のいろんな景色を見せてあげたかった。青空や虹、夕焼け、桜の並木道、燃えるように赤い紅葉。だけど、今こうして一緒に見上げている花火だけでも、私には奇跡のように感じられた。夏祭りの魔法にかかったみたいに、世界が輝いて見える。


 ふたたび、大きな花火が夜空を彩る。隣には、青い浴衣をきた人間の姿をした人魚。それは私にとって、花火よりも、なによりも、特別だった。空も海もキラキラしていて、まるで私たち二人は、星空に囲まれているみたいだ。


 燈は一瞬、目を閉じて、なにかを耐えるようなつらい表情をした。


「大丈夫……?」


「ちょっと息が苦しいけど、なんとか平気だよ」


 私を見つめて、優しく微笑む。


「……海音、聞いてほしいことがあるんだ」


 その声はいつも以上に静かで、胸にしみこんでくる。


「ぼく、きみのことが、好きになったんだ」


 ドクン、と大きく心臓が鳴った。頭の中が真っ白になり、どう答えていいか分からない。


「返事は、しないで……」


 私が固まっていると、燈は困ったように言う。


「ただきみに、伝えたかったんだよ。ありがとう、って」


 その瞬間、燈が青白い光りを放ちはじめる。


「燈……! 大丈夫なの?」


「きっと魔法が、切れかけてるんだ。無理をしたからね……」


 苦しそうな顔をして、小さくつぶやく。彼の人間の足が、ゆらゆらと波の泡みたいに溶けていく。


「だめ、消えちゃ嫌だから!」


 私は取り乱しながら、燈の細い腕をつかむ。彼は優しく私の手に触れて、申し訳なさそうに笑う。


「ごめん。どうしても君と、歩きたかったんだ」


 私の胸は、引き裂かれる思いだった。人魚である燈が人間の足で歩くことは、大きな代償がともなう。命まで奪いかねないと知っていたはずなのに、私は気づかないふりをしていた。涙がこみあげてきて、どうしたらいいか分からない。


「やだ、嘘、やめてよ……」


 燈の全身から、淡い光がこぼれはじめる。


「何とかならないの!?」


 私が叫ぶと、燈は苦しげな呼吸をしながら言った。


「もしきみが、一緒に海へ来てくれるなら、ぼくは……」


 頭の中が真っ白になった。それって今の生活を捨てることだよね……。家族やクラスメイト、少しずつ動き出した日々を置いていくなんて、そんなの……。頭の中でいろんな思いがぶつかり合い、涙が頬を流れおちた。


「燈……。私は……、一緒にいたいよ! でも……」


 言葉にならない叫びが、どんどん溢れてくる。すると、燈はいつもの穏やかな表情でうなずいた。


「わかっているよ……。きみには、大切な世界があることを……」


 私は感情が抑えきれず、大きな声で泣き出した。


「燈がいなくなるなんて、そんなの、やだよ……」


 燈の身体は、少しずつ夜の海を背景に溶けていく。あんなに綺麗だった青い髪が、今はその色さえも失っている。


「ありがとう、海音……。ぼくは、そんなきみが好きになったんだ。だから、泣かないで」


 泣かないでなんて、無理だ。涙が止まらない。大きな花火の音がどんと響くなか、私はもう何も考えられず、消えそうになっている燈を強く抱きしめる。このまま一緒に海へ行けば、燈は助かるのかもしれない。でも、それは私の人生をすべて捨てることになる。


「本当に……消えちゃうの?」


 燈は私の耳もとで小さく「ごめんね」とささやいた。その声が震えているから、私の涙はますますこぼれ落ちた。


 燈の体が空気に溶けるように見えなくなっていく。泡のような光のかけらが宙に漂い、夜風にまぎれてしまう。


「いやだ、消えないで!」


 私は泣き叫ぶけれど、最後に燈はいつものように微笑んで、「好きだよ」と言った。


「私も! 私も、大好きだよ、燈……!」


 指先が空をかいたようにすり抜け、もうそこには誰の姿もなかった。私はただ、波打ちぎわに一人ひざをつく。


 花火の最後の音が、遠くで響いた。燈の気配はもうどこにもなかった。涙が止まらず、身動きもとれないまま、夜の海と闇に取り残されていた。


 両腕で自分を抱きかかえるようにして、私はすすり泣く。


「さようなら、燈……。ありがとう」


 その言葉をつぶやいて、私は浴衣の袖で涙をふいた。震える足をなんとか動かして、街の灯りが見えるほうへゆっくり歩き出す。家族やクラスメイトのいる世界へ戻らなくちゃいけない。


 だけど、あの美しい人魚の少年のことを、私は一生忘れない。この恋はきっといつまでも私の心の海に溶けて、これからも彼のことを思い出しながら生きていくんだろう。


 大好きだった。本当に好きだったんだと思う。泣きながら、砂浜を歩き続けた。






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