本物の気概
テレビで『忠臣蔵』を放送していた。二十年ほども昔の作品の再放送だった。家事をしながらなので、じっくりとみた訳ではないが、有名な話であり粗筋は分かっていたので面白かった。
(徳川家五代将軍綱吉の時代に、浅野内匠頭が吉良上野介を相手に刃傷事件を起こし、幕府に切腹を命じられた。それに対して、大石内蔵助率いる浅野内匠頭の家来達が、吉良上野介に仇討ちをするという話。)
主役の大石内蔵助は松平健が演じていた。仇討ちを警戒する吉良側の注意を逸らす為に、いろいろとカモフラージュをするのも見所のようだった。
ドラマの最後は、切腹をする場所まで内蔵助が歩いて行くシーンだった。松平健のアップだったのだが、その映像の上に字幕で「あら楽し…」の句が浮かべられていた。
「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」(何と楽しいことだろう。思いを晴らして死んで行くのは。見上げる月には雲一つかかっていないように、私の心は澄み渡っている。)
それまで何となくみていたのだが、字幕で出ているのが辞世の句だとしたら、武士の気概と根性とはすごいものだと、テレビをみながらショックさえ受けてしまった。これから死ぬという時に、そんな句を詠むことができるなんて。武士と聞くと「武士は食わねど高楊枝」を思い出すが、そんなつまらない見栄ばかりではない、本物の武士の武士らしさを知らされたような気がしたのだ。
後で調べてみると、それは彼の辞世の句ではなかったようだ。泉岳寺の主君の墓前へ討ち入りの報告をした後に、そこに滞在している間に詠んだと言われている。
ちなみに本当の辞世の句とされているのは「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて四十八人」のようだ。最後のシーンはこの句でも相応しいかも知れないが、「あら楽し…」の句の方が演出的によりインパクトがあると感じた。
日本史を振り返る作品では、吉良上野介はどうしても悪人の位置づけになってしまう。ところが、東海地方出身の人によると、当地では必ずしも悪人ではないという。
史実的に悪人とされていると、従来は大河ドラマの主人公などにはなり得なかった。しかし、明智光秀が前例を作ったので、ひょっとしたら吉良上野介が主人公に……はならないかも。