2章〜多事多難〜
※多事多難:事件や困難が多いさま。
…結局、被服室には何も無かった。
そう、色んな意味で。
例によってこっそり侵入してはみたが、さっきのような化け物もいなかったし、話の通じそうな人間もいなかったし、武器になりそうなものも見つからなかった。
しばらくはこのボールペンが武器代わりか。
なんとも心細い。
私はため息をつきながら、被服室を後にした。
被服室の隣はトイレだ。
入り口に立つと衝立があり、その横の空間から個室が並んでいるのが見える。
衝立の向こうは男子便器だな…。
まぁ、トイレまで調べる必要は無いだろう。
というか調べたくない。
学校の怪談でもなくてはならないベストオブ怪奇スポットじゃないか。
わざわざ自分から怖い思いをしたいとは思わない。
私は、トイレの入り口からそっと中を覗いた。
………ちょっと臭う。
まぁトイレだから当たり前か。
見た感じ生きてるものの気配もしない。
やっぱり、ここはスルーでいいな。
中を調べなくていいという安心感を抱き、そこから立ち去ろうとした時だった。
バァン!
突然、大きな音が耳に入り、私はひっ、と小さな悲鳴をあげながら身体を強張らせた。
音のした方を恐る恐る振り返ってみると…後ろには何もない。
…どうやら工作室の方から聞こえたようだ。
中の奴がまた暴れだしたのか。
暗くてよくわからないが何も動かない背景の中で、ドアだけが生きているように激しく揺れる。
…怖い。
まだ諦めてないってことか?
なんてしつこい奴なんだ…。
恐怖心に駆られながら、しばらくその成り行きを見守っていた。
そうして、どれくらい時間が流れたろう?
やがてブリッジ女はまたもドアをこじ開けるのをピタリとやめた。
…再び襲う静寂。
何か法則性でもあるんだろうか…。
私は深くため息をつくとゆっくり歩きだした。
もしかすると、あのドアが破られるのは時間の問題かもしれない。
一旦は落ち着いた心臓が、今また早鐘のように鼓動を打つ。
落ち着け、落ち着け…!
私は歩きながら深呼吸を2、3度した。
脳内で動き回るブリッジ女の姿を必至に消そうと励んだ。
やや呼吸が落ち着いた所で顔をあげ足を止める。
目の前には『第1調理室』という札がかかった教室のドアがある。
しめた、調理室か!
調理室なら包丁か何かあるだろう。
やっと武器を調達出来るぞ。
そう思った私は飛び付くように調達室のドアに手をかけるとガラリと思い切り開けたい衝動を抑え、あくまで慎重に少しだけ開いて中の様子を伺った。
「っ………………!!」
すると、そこには壮絶な光景が広がっていた。
手で口を抑え必死に悲鳴をあげたいのをこらえた。
ドアから真っ直ぐ見た奥の方。
教室の窓際にあたるところに巨大なネズミが二匹、何かをピチャピチャと食い漁っている。
その凄惨な光景といったら。
そのネズミが巨大なだけならまだ良かっただろう。
ネズミの体はゆうに1メートルはある。
しかし、その外見はとてもグロテスクで吐き気すら感じた。
目の下の肉はベロリと剥がれブラブラとぶらさがった状態。
体には毛皮の大きく剥がれた箇所がいくつもあり、そこからは肉が剥き出しになっている。
四肢にも毛皮は無く、異常なほど長く伸びた足は骨と肉だけ。
鼻先は血で濡れ真っ赤だった。
もう一匹のネズミも似たような風貌で、こちらは顔の肉がほとんど剥がれて骨まで見えていた。
そんな化け物と化したネズミが一心不乱に貪っていたのは…人間だった。
辺りは血の海となっており、その中で喰われている人間は仰向けに倒れた体勢で顔はこちらを向いている。
…男性のようだ。
かっと見開かれた目はガラス玉のように虚ろだ。
顔は綺麗なもんだったが、首から下は見るに耐えられない有り様だった。
引き裂かれた服は血の色一色にそまり、肉体もボロボロに喰いちぎられている。
もはや服と肉の境目さえあいまいだ。
ネズミ達は彼の腹から引きずりだした内蔵物を前足で持って口に運んでいる。
ピチャピチャと湿った音を立てて美味しそうに目を細めるネズミの姿に私は身震いがした。
辺りにたちこめる饐えた匂いは血の匂い?肉の匂い?それともネズミの…?
なんにせよ、長く留まるには耐えがたい光景だ。
私は音を立てないようにドアを閉め、廊下の壁にもたれかかり、そして再び座り込んだ。
体がガタガタと震えていて立てなかった。
こ、怖い…ネズミがあんな風になるなんて…。
あのネズミに食われてた男は…いつから…?
少なくとも、ネズミに襲われる時に悲鳴ぐらいあげただろうが、ずっとこの階にいた私は彼の声なんて聞かなかった。
もしかして私がまだ寝ていた時に…?
私は周りを見渡した。
先の見えなかった廊下の奥はうっすらと階段の輪郭が浮かび、逆に私が来た方の廊下の突き当たりは既に闇に隠れてよく見えなくなっていた。
と、なるとあれか?
ネズミ達に喰われていた男は多分、この辺りに飛ばされてきたのか。
それか、この先に見える階段から移動してきたのか。
だから、あの突き当たりにいた私には気付かず、この調理室に入った。
そして…。
私の脳内に男がネズミに襲われる瞬間が映像化される。
ああ…私がもう少し早く目覚めていれば、お互いの存在に気付いて共に行動出来たかもしれないのに。
失意に襲われ、私はしばらく身動きがとれなくなった。
みんな死ぬ。
みんな死ぬんだ。
みんな、この学校に巣くう化け物に殺されるんだ。
怖い。
怖いよ。
元の世界に帰りたい。
脳裏に友達や会社の上司や同僚、それに家族の顔が過った。
私の目からは自然と涙が零れ落ちた。
恐怖からか悲しみからか。
その涙の温かみで、やっと我に返った。
私もバカだな、泣いてもしょうがないだろ?
ここにいる以上、生きて戦うしかないじゃないか。
私は涙を乱暴に拭うと震える足で再び立ち上がり調理室の鍵を音を立てないようにそっと閉め、ネズミが出てこられないようにした。
……あの男性…どんな人だったんだろう。
今となっては知る術もないし、知った所で悲しみに変わるだけだ。
私は、それ以上考えないようにしながら隣の教室へ足を向けた。
ところで、さっきからまた工作室が騒がしい。
さすがにここまで離れると、音に対する恐怖心は薄れる。
あとは中の奴が出て来ないのを祈るばかりだ。
私は目の前の教室に掲げられている札を呟くように読んだ。
「第2調理室…。」
だったら、隣で手に入らなかった武器が今度こそ入手出来そうだったが、すぐに先ほどの化け物ネズミの姿が思い起こされた。
調理室なら、いてもおかしくない。
もし物陰に潜んでいるのに気付かずに襲われたら…。
ひとたまりもない。
しかも包丁では接近戦になる。
どうせなら、モップとか柄の長い物を持っていた方が…。
なーんて…自分に言い訳して何になるんだか…。
怖いから入りたくない、それだけだろ?
私は自分に呆れ、ため息をつくと踵を返し、その教室の前を通り過ぎていった。
その教室の中で既に子供が化け物と化した巨大ゴキブリの餌食にされていた事など知る由もない。