この物語にもようやくサビが近づいてきたらしい
意を決した私の喉元に、牙は一向にたどり着かなかった。代わりに質量のある布が翻ったような鈍い音と、嵐のような追い風が吹き抜けていく。
突風で闇落ちおじは吹き飛ばされたのだろうか。強い力で掴まれていたはずの手に血の巡りを感じる。どれぐらいの時間掴まれていたのかわからないが、脈打つことに違和感すらあった。
――瞼の向こうで、何かが起こっている。
背後に人の気配を感じて薄く目を開く。何よりも先に、なびく銀色の尾が視界に入った。振り返ろうとしていたことも忘れ、意識は一つに束ねられた長い髪へと向いていた。
「エリンに手を出すな」
地面を這うような低い声と共に、誰かに肩を引き寄せられる。
大方誰かなんて予想はついているものの、私の頭はまだ、目の前で起きている出来事に追いついていなかった。視覚から得る情報を他人事のような、もしくは幽体離脱で自分を俯瞰で見ているような心地だった。
西日で赤みを帯びた銀髪がスローモーションで揺れている。私はまばたきを忘れ、誘われるがままに顔を上げた。
「クロウリー様……」
初めて見る、怒りの感情をあらわにしたクロウリーがそこに居た。
月のように凪いだ金色の目は荒々しく、ギラギラと夏の太陽のように周囲を焼き尽くさんとしていた。
眉間に深く刻み込まれた皺も相まって、彼が「怒っている」と一目見てわかるが、肩に添えられた手だけは壊れ物を扱うように優しい。
私が声をかけてもクロウリーはこちらを見ることなく、先程吹き飛ばしたらしい闇落ちした男性を射抜いていた。打ち上げられた魚のようにびちびちと跳ねる姿は異様で、「ひっ」と声が漏れた。
そんな私に目をくれることもなくクロウリーは私の肩を更に引き寄せると、一歩ずつ男性の元へと近寄っていく。
男性は仰向けで跳ねているだけで襲って来る気配はない。どうやら衝撃でそれ以上動けないらしい。よっぽど強い攻撃を与えたのか、それともクロウリーの固有魔法である黒魔法を使ったのか。どちらにせよルーチェの白魔法以外で浄化されることはないので、彼女が来るまでクロウリーが対処するのだろう。
(捕縛? それとも気絶させるのかな?)
ちょっとぐらい物騒な考えをすることを許してもらいたい。申し訳ないが彼に同情する余裕は今のところない。私も貴方のせいで痛いので。闇落ちしてかわいそうだと思うが、右手が傷のせいか熱を帯びているのだ。
クロウリーが立ち止まったのを見計らい、どう判断するのか気になって彼を見上げる。
いつの間にか目から煌々としていた光が消え、男性を無表情で見下ろしていた。すっと男性へ手を伸ばすと、手のひらから稲妻のような閃光が耳障りな音を立てて光り出した。
「あ、わ、待っ……」
咄嗟に、口角だけ上げて不気味に笑うクロウリーの右手を握りしめる。
黒い稲光を隠すように両手で包み込むとぴくりと眉が動いた。ぎろりとねめつけられ、たじろぎそうになるも、ぐっと唇を嚙み締めてこらえた。何気に睨みつけられたのは初めてだ。一歩下がりそうになるぐらい気迫があるものの、今、彼の手を離してはいけない。怒りに任せた結果、正気に戻った後でクロウリーが傷ついてしまう気がしたのだ。
「離せ。そいつはお前を傷つけた」
「大した怪我ではないです! だからクロウリー様が魔法を止めるまでは、は、離しません!」
無言に互いに見合っていると、バチ、と手の中で衝撃が走る。真冬に起こる大きな静電気程度の痛みだが、次第に電流が大きくなって、指の隙間から稲妻が漏れ出る。
「……っ!」
闇落ちおじの爪が食い込んでいたところに電流が当たった。痛みのせいで右手に力が入らず、手を離しそうになる。やっぱり失血しすぎたのだろうか。それとも電撃のせいなのか。意識が遠のきかけたその時。聞きなれた声がクロウリーを牽制する。
「クロウリー様!」
視界の端に居た男性がまばゆい光に覆われた。目を細めて声のする方へ顔を向けると、隣の屋根から身を乗り出して杖を構えるルーチェが居た。
ルーチェに気づいたクロウリーがぴたりと動きを止める。それと同時に黒い稲妻は消え、ちくちくする痛みも無くなった。クロウリーの魔法は発動されずに消えたのだろう。
(あっぶな……)
強張っていた肩から力が抜けていくのがわかる。
ルーチェが叫んでくれなかったらあの男の人はクロウリーの黒魔法で消滅してたかもしれない。黒い雷のようなエフェクトは前世でスチルにも描かれていた。かなり強力な攻撃だと思われる。
男性を一瞥すると獰猛だった牙も完全に消えており、元の姿に戻っていた。
(鶴の一声でクロウリーの心を動かすなんて、さすがルーチェすぎる。やっぱ我らがヒロインだわ)
ふう、と息を吐きだすと、ある一点で目が留まった。そういえばまだ両手はクロウリーの右手を……。
ぎぎぎぎと錆びた車輪のようにおそるおそる顔を上げる。案の定、クロウリーは繋がったままの私の手を凝視していた。淡々と見下ろしていると思っていたが、大きく見開いた瞳は驚いたようにも、何かに怯えているようにも窺えた。
「あわわわ、ももも申し訳ございません! 今、手を離し……」
「すまない」
今度は、私が目を見開く番だった。言い終わるよりも先に、クロウリーの左手が私の手を包む。
色白であまり体温が高くなさそうなのに、手の甲に感じる手のひらの熱は暖かい。何度も触れているはずなのに、今日はやけに心が落ち着く。緊張の糸が解けたせいだろうか。
夕日に照らされた銀色のまつげが目元に影を落とす。見上げていた私と視線がかち合うと、クロウリーの瞳が一瞬揺れた気がした。しかめた眉と相まって、私の無事を喜んでいるようには見えなかった。
「怪我を、させてしまったな」
「いえ……」
血が流れる私の右手を、クロウリーの左手が撫でる。
今更だが、強い魔力を持つ人間は杖が無くても魔法を使うことが出来る。しかし魔力が分散するとかどうとかでコスパが悪いらしく、杖を出すひと手間を省略する人は少ない。これはゲームの中では杖無しで魔法を使っているシーンは無く、授業で習って知った事実だった。
(いくら私が噛まれる寸前とは言え、クリスマスパーティーと似たような状況だったはず)
しかも噛みつかれたところでゾンビのように増殖するわけでもあるまい。ただ怪我をするだけ。
なのに、なぜクロウリーは杖を出さなかったのか。クロウリーの右手を握りしめた時に見えた、焦りともとれるあの顔を、どう納得したらいいのか。もやもやする気持ちをうまく飲み込めずにいると、ルーチェが私を呼ぶ声が響いた。
「エリン!」
「る、ルーチェ……!」
ルーチェが今にも飛びつきそうな勢いでこちらへ向かってくる。息を切らせて走るルーチェの姿に、クロウリーと触れていることが後ろめたい気持ちになる。
私は彼女に気づかれないよう背中で隠しながらそっとクロウリーの手を離した。暖かかった手が離れ、少し残念だと思ったのは内緒だ。
「大丈夫だった!?」
ルーチェが私の両肩を掴む。今にもがくがくと揺さぶられそうな勢いだが、何度もうなずきながらルーチェの手に自身の手を添えた。
「え、怪我してるの!?」
ルーチェの左手を汚してしまったことに気づき、腕を引こうとしたが逃げられなかった。
傷口を見てしまったせいで痛覚が現実に押し戻された。思っていたよりも流血している右腕は、爪が食い込んでいたあたりが脈打ち、じくじくと痛み出した。
(もしかしてクロウリーの手も汚しちゃったんじゃ!?)
ちらりと横目でクロウリーを見やったが、外套に隠れていてわからなかった。何もかも、クロウリーはまるで隠すのがうまい。私は知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せていた。
目の前ではルーチェが珍しくマシンガントークさながらに喋りかけてくれているのだが、話半分に聞いてしまっていた。不安げな顔で覗き込むルーチェに申し訳なくなった。それもこれもクロウリーの思わせぶりではない態度のせいだ。
「おい、ちんちくりん! 何があったんだよ!」
騒ぎを聞きつけたらしいジャンが店の扉を蹴破る勢いで出てきた。両手にはしっかりと手芸屋の買い物袋が握られている。
「ドミニクか? てかお前、なんで怪我……」
倒れた男性、私と向かい合うルーチェ。いつの間にか登場人物が増えたうえに、何故か私は怪我をしている。
状況を把握出来るはずもなく、ジャンは目で見たそのままを投げかけて来る。矢継ぎ早に聞きたくなるのもわかるが、私もどれから答えるべきなのか到底理解出来なかった。
「あ、あの……。えっと……」
「闇落ちだ」
言い淀んでいると、手を取り合う私たちの隣にクロウリーが腕を組みながら並び立った。視界の端ではさっきまで近くに感じていた、夜を彷彿とさせるロングコートが重みのあるドレープを描いて翻る。
「え、クロード様!? なんで此処に」
驚くジャンと動かない私を一瞥すると、クロウリーはやっと到着したらしい衛兵たちが集まる方へと踵を返した。
「ルーチェ。エリンとジャンを頼んだぞ」
「はい」
主語が無くとも、視線を合わせずとも、互いを理解しあっているようなクロウリーとルーチェの会話を、ぼーっと見つめる。
いつも通りならば二人を見て「阿吽の呼吸!? いや、夫婦だからか!」なんて脳内で茶化すことが出来るはずなのに。せっかく目の前でクロルチェを浴びているはずが、何も思い浮かばなかった。
こころなしか何かに対してショックを受けている気がするのだが、ぐちゃぐちゃの心では気持ちをまとめる余裕は無かった。
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