第一貫:ライバル登場
銀座の老舗寿司店、銀郎鮨
その裏口で山のように積まれた大根を洗う。
これらが文字通り山のようなツマになる。
かじかむ手もそのままに、そんなツマらないことを考えている僕は
親と揉め北海道の高校を退学し、今この店で追い回しをやっている。まだ1年目の駆け出しだ。
ジャバジャバッ!
「ひゃっ…!」
タライに水流しっぱなしにしていたホースが僕に向けられていた。
冷たい。寒い。下手すりゃ死ぬ!
季節は1月。
道行く人はダウンジャケットにインナーパーカーその上、あったかインナーを中に着こむ。
そこゆく僕は、なんのあったか機能もない普通の肌着に薄い仕事着だ。
そこへの全身冷水。
「てめぇ幸太郎!まめに水止めやがれ馬鹿野郎!洗う時間も長すぎる
大根が水っぽくなるだろうが!」
怒鳴りながら僕に冷水を掛けるのはこの店で5年修行している轟兄さんだ。
僕は勇気を振り絞って尊厳の限り力強く抗議をした。先輩だ後輩だなんてのは関係ない!
「轟兄さん!寒いですよう!勘弁してくださいよぅ!!風邪ひいちゃいますよぅ!へへっ…」
「分かったから店に来い。面倒なことになってんだ…」
どこか陰りのある兄さんの物言いに引っかかりながらも
凍える体を抱きながら店に入ると
親方が付け場(調理場)にいた。
珍しいこともあるものだ、親方は一線を退いて久しく
ここ数年付け場で寿司を握っているのは
15年選手の笹子兄さんと、僕に水を掛けた轟兄さんだった。
それでもたまに握れば、先輩二人とも足元にも及ばない寿司を作る。
僕の世界で一番尊敬する人だ。
親方の対面、カウンター席に男が座っていた。
特別な客なのだろうか。わざわざ親方が寿司を握るなんて。
「不味いな、ネタも握りもなっちゃいねぇ!
これが名店銀郎鮨の寿司かい!」
僕と同い年、下手をすれば年下と言っていい見た目の男が
親方の寿司にケチをつけた。
「オモテ出ろてめぇ!三枚に下ろしてやっからよ!このドサンピンがぁ!!」
反射的に僕は強い口調で怒鳴り散らした。年下には滅法強いタイプだ。
寿司職人は大概そうだ。
「やめろ、幸太郎…」
いつも威厳に満ちた親方が呻くように言った。
僕は、笹子兄さんに目をむけたが兄さんも
苦虫を噛み潰したような顔で黙っていた。
「お前、この店の若いもんかい?」
「だ、だったらなんだ!」
男が寿司を2貫こちらに渡してきた。
兄さんたちに目で確認してから食べた。
「こ、これは…」
たまに食べさせてもらった親方の味を忘れたことはない。
いつも親方の寿司の味がゴールだと思って目指してきた。
だから気づいてしまった。
親方の握った寿司じゃない方が旨い…。
「俺が握ったのさ」
僕の考えを見通したように言う。
「そんなバカな!親方!笹子兄さん!轟兄さん!」
「…」
誰もなにも言わなかった。食べ比べで僕と同じ感想に至ったんだ…。
「今日は挨拶に来たのさ、あんたの店の正面で新しく店を開く
一郎寿司って店だ、そこの親方がこの俺、田中一郎だ!
せいぜい吹聴させてもらうぜ!俺の腕の方が上だってな!
否定したけりゃすればいい、何度だって勝負してやるぜ
今度は客を入れてな!マスコミも入れてやってもいいなぁ!
そうだ!なんならウチの宅配ずしを仕入れて客に提供すれば
いいんじゃないか?多少利益を乗せてもあんたの店に来るような
味音痴な客にはばれないだろうよ!」
机に、出刃包丁、柳刃包丁、寿司切り包丁があった。
出刃包丁は一般家庭にある包丁に形が近く、寿司切り包丁は切っ先が丸く全体的に四角い
柳刃包丁は細く鋭く長く、一番深く突き刺せそうで確実だと思い手に取った。
青い顔をした轟兄さんが女の子のようにプルプル僕の袖を引っ張っていた。
その後、こちらは支払いを断ったが、男は金を置いて去っていった。
「こっちのプライドも考えず、…なんて嫌味な人なんだ!」
「いや、お前が柳刃包丁を向けて『よく回る口だ』とか言うから…」
轟兄さんはまだ顔が青い。内弁慶だが、本当の闘争には弱い優しい人だ。
あくまで包丁は調理道具だと思っている。
「でもどうするんです?
変な噂でも立てられたら…銀郎鮨は」
その時、ウチにいる中居さんのかわいい方が駆け込んできた。
ウチに中居さんは二人いるがかわいくない方は僕はいないものとしている。
どちらも20歳で若さでは差はないが、若さ以外の全てにおいて差がある。
かわいい中居さんが言う。
「この界隈の寿司店で寿司勝負をするんですって!」
ですって!の発音がかわいかった。
かわいい中居さんが持ってきたチラシには確かにそう書いてあった。
しかも参加店にはウチ銀郎鮨と、さっきの男の店一郎寿司の名前があった。
「タイミングがよすぎらぁ…こりゃあ罠だぜ!」
轟兄さんが憤慨する。
「しかし、ウチと奴の店だけじゃない、ここいらの店全部名前がある」
笹子兄さんの言う通り、うちだけを貶める意図ではないようだ。
「親方!リベンジしましょう!
僕の親方は、…僕の親方は最高の寿司職人なんだ!」
親方が僕の目を見てゆっくりと頷く。
「幸太郎、お前が出ろ」
「えっ!」
親方が出ないんですか?、と言いかけて気づいた。親方は寿司を握って40年
それが僕と変わらない歳の職人に負けたんだ。
どれほど親方が気落ちしているかも考えずに僕は…。
「でも僕なんかより、笹子兄さんがいるじゃないですか」
「笹子まで負けたら終わりだ。
お前を出せばお遊びになる。
負けても、うちの店の名前には傷つかん」
「えっ!」
「頑張って!勝ったら大金星よ!」
大金星よ!の言い方が20歳にしては古風でかわいかった。
僕はこの子のために勝とうと思った。
「わかった!僕やるよ!絶対に勝って見せる」
親方がそれでこそ我が弟子みたいなことを言っていたが
僕の中で親方はかわいくない方の中居さんと同じ扱いになっていた。
いないものとした。
勝負だが、どうしたものか…
当然だが僕はまだまともに寿司なんて握れない。
営業が終わって毎晩練習しているけど
飯炊き3年握り8年と言われる世界だ
僕はまだ飯炊きも任されていない。
でも、選択肢はなかった。
どんな苦痛も苦難も乗り越えて
この勝負、絶対に勝つ!
その頃、一郎寿司
「一郎さん、いつまで握りの練習するんですか?
いつまでも片付けられないっすよ」
「おいおい親方って呼べよ、いくら俺が若いからってその辺きっちりしてくれないとな」
「へ、へいすんません!」
「片付けも俺がするから、先に上がりな。俺は毎日仕事とは別で1000貫は握らねぇと
寝付けねぇんだ」
「せ、1000貫ですかい?」
「おかしなことじゃねぇ、プロ野球選手になろうってやつはそれ位バット振ってる
どの世界だって一流になりたけりゃ同じさ、銀郎鮨の親方だって
いまだに毎日1000貫握ってりゃ俺なんかには負けなかったろうさ。
継続を止めちまった日からもうプロとは呼べなくなっちまう」
後輩を先に帰し、1500貫を握り終えたところで一郎は満足した。
「努力だ、この世界は」
努力を怠らなかった日々が現在の自分を作り上げた。
(努力だ、この世界は)
再度言い聞かせるように思った。