虫仕留め
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶつぶはさ、いままで何匹の虫を仕留めてきた?
いや、あおりとかネタじゃなくて、割とまじめな質問よ。前に、あんたの実家だと虫退治は、たいていあんたの仕事って聞いたからさ。これまでどれくらい任務を果たしてきたのかと。
私のおばあちゃんの感覚だとさ。昔に比べていまの人は、すぐ虫を殺すようになったって。
たぶん、慣れの問題。おばあちゃんは小さいころから土いじりをしていたから、虫全般を何度も見たり触ったりして、抵抗がなくなっている。たくさんいるうちの一匹なんだから、むやみに殺す必要はない、と感じているとか。
でもいまは家の中にずっといる子供も、珍しくない。虫と接する機会は減り、人とはかけ離れたその姿が、嫌悪感やおぞましさを呼び起こす。それが殺意ある行動につながっちゃうんじゃないかって。
私も、おおむねはおばあちゃんの意見と同じだけど、最後の殺意ある行動っていうのには疑問があるの。
虫は嫌いでも、建物の外へ追い出しさえすればオッケーって人もいる。そういう人と、命を奪うことを徹底する人の違いって、どこにあるんだろうってね。
生まれつき、といったらそれまでかも。だけど私は、ひょっとしたら別のこと関係しているんじゃないかって、考えるようになったの。そのきっかけのできごと、聞いてみない?
私も、虫はさほど好きじゃないけど、積極的に殺そうと思うほどじゃなかったわ。
一度、家の壁と自分の手で、猛烈に蚊をサンドイッチして始末したときがあってね。その汚れ具合、飛び散り具合を見たとき、あまりいい気持ちがしなかったから。
ティッシュで死なない程度に軽くつまみ、外へ放り出してやる。もしすばしこくて捕まえきれないようなら、殺虫剤、確保、袋入れアンドゴミ箱行きってコースだった。
家も自分も、できる限り汚さない。そう心掛けてきていたのに、とあるきっかけでぷっつり来ちゃったのね。
始まりは、学校の友達の話だった。
その子も私と同じで、虫嫌いではあったけど、好んで殺生したいとは考えていない子だったわ。それがね、久々に手を下しちゃったって話してくれたの。
聞いてみると、相手は私がいままで見たことのない虫らしかった。
背中から胴体にかけてはイモムシのような円筒状。けれどその足は同種に見られる「イボ足」じゃなく、ムカデに近い細い足が連なった姿だったとか。
何より特徴的なのが、胴体の先、頭のてっぺんからしばしばにょきりと出す、Y字型の触角。その図体に見合った小ささだけど、それがぷるぷると小刻みに動くのを見たら、無性に腹が立ってきたんだって。
気がついたら、靴の底で相手を踏みつけていた。人様の重量にイモムシレベルが耐えられるわけがなく、その虫は自分が出したものが作る水たまりに沈んで、もう動かなくなっていたらしいの。
自分でも不思議なくらい、殺意が湧いたと友達は話す。いつもやるような、追い払おうなんて考えはぜんぜん湧かず、一刻も早く息の根を止めたいと思っちゃったとか。
珍しいこともある、とそのときの私は、おもしろ半分で聞いていた。自分だったら、そこまで乱暴な真似はしないのにとも、少しのんきに構えていたのを覚えている。
けれど、その日の学校からの帰り道。家まであと数十メートルってところで、あの聞いた通りのいでたちの虫に、出くわしてしまったの。
排水溝の上の金網。その細い格子のうえをわしゃわしゃとたどるのは、まぎれもないムカデの足。にもかかわらず、それが上に乗せるのはイモムシによく似た、丸みを帯びた筒状の胴体。
そして少し動いては立ち止まり、頭から先端が二又に分かれる触覚が飛び出す。かすかに排泄物と似た臭いを発する黄色いそれは、ぷるぷると自ら震え始めたわ。それは私たちが手を振り合うように、何かを、誰かを呼んでいるようなサインにも思える……。
気がついたとき、その虫はもう私の視界の中にいなかった。
去っていったわけじゃない。つい先ほどまで虫がいたところを、私の靴がしっかり覆ってしまっているから。
その靴の下からは、先ほど見たムカデの足らしきものが何本か。溝の底へ落ちていくとともに、黄色い液体がぽたぽたと。
靴の底を改める勇気はなかった。私は自分がやったであろう惨状から目を背けて、その場を後にしたのよ。
それから間もなく、クラスではあの虫を見たこと。そして自分でも驚くほど、あっさり殺しにかかってしまったことが、話題に出たわ。
そこに男女の別、好き嫌いの別は存在しない。自分以上に、家族のほうが「殺虫鬼」になっているという子もいた。
個人的に厄介なのが、自分が「仕留める」と思う時には、もう行動が終わってしまっているところ。存在を認めたら、次の瞬間には手段を選ばず、相手の未来を奪っている。
私だって、あれほど蚊を潰した時に嫌な思いをしたのに、いざとなれば直接手で押しつぶすことさえしていたの。
潰した瞬間を、私たちはそろって、覚えていなかった。ちょうど殺す瞬間だけ、意識なり記憶なりが消されていることに、ちょっと鳥肌が立ったわね。
それから私たちは、あの虫を幾度となく葬り続け、いよいよ姿が見えなくなったのは二ヵ月後のことだった。
あの虫らしきものは、どの図鑑を見ても載っていなかった。ひょっとしたら私たちは、自らの手で新種を滅ぼしてしまったのかもしれない。
そんなことを考えながら、いつものように下校する私。またあの排水溝の近くにさしかかって、思わず目を見開いたわ。
円筒状の胴体。そこから出る、ムカデのごとき細かい足。これまで私たちが仕留めてきた奴と、よく似た姿かたち。
違うのは、頭の先から出てくる触角。向こうはY字だったけど、こちらはI字。一本だけがぴんと伸びていたの。
その触角が振れ、あの排泄物じみた香りが漂うや、私はその場にひざまづいていた。
意識したわけじゃなく、勝手に身体が動いたんだ。ちょうどその虫に、敬意を表すかのようで、立ち上がろうにも力が入らない。
平伏を続ける私の前で、排水溝の格子の下から、どんどんと同じ虫が這い上ってくる。あっという間に数を増やした彼らは、銀色の格子をたちまち自らの身体と同じ、緑色で埋め尽くした。
それもまた、長くは続かない。彼らは出した触角から、どんどん白い糸を吐き出して自分たちの身体を包んでいく。格子の広さに過ぎない、雪景色が広がった。
ものの数秒。広がった糸の原がもぞもぞとうごめいたかと思うと、内側からめくれ上がるようにしてチョウが飛び出していったの。
黄、青、むらさき……。目を楽しませる身体の色を見せてくれた彼らだけど、飛び立ってほどなく、姿はすうっと空に溶けてしまう。気がついた時には、チョウたちの姿はおろか、格子を覆っていた糸も、すっかり見えなくなっていたのよ。
私たちが始末してきた虫たち。それはあの、ひざまづかせた虫たちにとっての、天敵だったんじゃないかと、私は考えている。
誰かや何かに手を下させて、自分たちの安全を確保する。私たちはその道具として、彼らに利用されたんじゃないかってね。