表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言霊を雲に乗せて  作者: まきなる
6/7

第5話

 目が覚めると見覚えのある椅子に座っていた。あの、色があるような無いような、においもあるか、今本当にここに座っているのか、それさえもあいまいな空間に僕は再び来ることができていた。本当に、来れたのか。僕は未だ信じ切れてはいなかった。いつもは、ここぞという時に思い通りにならないことが当たり前だった。前に来た時はここから歩くことはできなかったはず、そっと席を立ち一歩を踏み出した。

「進めた、どうして?…いや、これのおかげか」

 懐から心の欠片を取り出し、あらためてよく観察した。

「やっぱり綺麗、でもこれであとは最後の仕事をこなすだけなんだと思うと、少し寂しいとも感じるね」

 心の欠片を眺めながら僕は問いかける。

「いるんでしょ、しがない化け物さん。あなたの言うとおりに、僕はこれを揃えてまた戻ってきましたよ」


 僕の問いに答えるように周りの景色は変わっていった。さっきまで座っていた椅子を基準にカウンターができ、大量の本棚が、何もないところから生まれてくる。糸で作られた鳥や蝶々が飛び始めて、水でできた小人たちが踊り始めていた。僕のそばにいた縹の蝶も糸で作られた蝶々の群れに飛び込んでいった。蝶々立は歓迎するように羽を一生懸命動かして、それが何だがおかしくて僕は笑っていた。

「―見えているかい」

 また、あの声だ。振り返ると、それはカウンターで珈琲を淹れていた。見えています。頭は僕の知らない動物の骸骨で、目は青く光っていて、真っ白なローブを羽織っていて、でもなぜか珈琲を入れているそんなあなたが、僕の目に映っていた。


 心の欠片をしまい、椅子に座って珈琲を淹れ終わるのを待つ。自分で珈琲を淹れるもいいけど、こうして珈琲が出来上がるのを待つ時間も、くすぐったくて好きだ。それは、珈琲を淹れて僕の前に運んだ。

「いただきます」

 口に運び、その熱すぎないぬくもりを堪能していた。酸味の効き具合は心地よいくらいで、フルーティな香りが特に際立って飲んだら忘れられないような一杯だ。そう―

「飲んだことがあります、見たことも、その淹れ方で淹れる珈琲は、もう記憶に焼き付いていますよ」

 その怪物の見えているのかわからない目に向かって言う。

「あなたは、何ですか。あなたは僕のことを知っている。そして、僕もあなたのことを知っている。違いますか」

 化け物は洗ってもいないカップを拭きながら言う。

「そうかも、しれないね。名乗っておくと私は“Fにあれ”という、好きに呼んでくれていい」

 カップを拭き終わるとこちらに向きなおした。

「そして私はいや、私たちは君に希望を見せてその上で全てを奪った。あの、“壇の憎悪”と呼ばれている怪物と同じ物だよ」


 半分嘘で、半分は正しいのだろうと思った。嘘をつかれたからって特に嫌な感情は沸かない。どうしようもないんですね。そんな優しい嘘をつくなんて、どこにいてもあなたは変わらないんだ。

「あなたの目的は何ですか。もしあなたの話が本当なら、こんなことをする理由が分からない」

 Fにあれはどこを見ているのか、ただ見上げている。

「贖罪だよ、エリム。私はFにあれ、壇の憎悪と同じものだ。正確にはあいつの鏡のような存在だ。あれが人の思いを具現化するのなら、私はその具現化したものを消さねばならない。この世の理から外れたものは全てあるべきところに戻すべきなんだ」


 じゃあ壇の憎悪は人の願いを叶えることができるのか…けど、あれが願いを叶えることができるとは到底思えない。でも、この化け物が嘘をついているようにも思えない。それなら、もう気にしなくていいのかな。今わかるのはこの化け物は明らかに後悔の念を抱いている。じゃあ、僕がするべきことは。

「それが例え後始末だったとしても、僕は立派だと思いますよ。あなたは逃げなかった。確かに、僕に色々な迷惑は掛かりましたよ。しかも、かなり大きめの。でも、そんなあなたたちにどこか感謝している僕がいるのもわかっています。もう、いなくなっているのにまた会えるなんて思いもしなかった。こんな旅ができるなんて、本当に素敵ですよ」


 不思議だ。全体的に無機質で表情がないその化け物の顔が驚いているように見える。

「君に希望を見せ、その上で奪ったような奴を許すというのか」

 それとは違うんだ。

「許すとか許さないとかじゃないんです。僕はただ―」

 そう、ただ―

「カッコつけたいだけなんです。憧れの人の真似を一度だけしてみたかった。僕はいい人にはなれない。それでも、真似ぐらいならできます」

 涙がこぼれていた。こんなことを自分で話すなんて、僕の人生でそんなことなんて絶対にないと思っていた。無理をしてでも進まなきゃいけない時だってある。今まで、今はそういう時なんだと、ずっとずっと考えて進んできたと思っていた。でも、何も進んでやしなかった。逃げていただけだった。だからもうこれで最後、今度は僕の番だ。


「もうそろそろ、時間です。僕はニュアがいる場所に行かなくてはいけない」

 店の中にはいつの間にか小さな人の形をした壇の憎悪がいた。僕と一緒にこっちに来たのかな。もし君が願いを叶えることができるのなら、僕はあなた達ともう会うことは無いだろう。

 しゃがみ、人の顔辺りを見るとそれは少し悲しそうな表情をしているような、困惑しているような表情をしていた。僕はその顔の前に心の欠片を差し出して、それを渡した。少し、笑みを浮かべている。そんな気がした。これはやっぱり君に必要なものだったんだ。色々あったけど、ただおもちゃに手を伸ばす子供のような存在だったんだ。だから、僕たちの前に現れたんだね。

「ねぇ、僕をニュアがいるところに連れて行って。僕は彼女ともう一回話したいんだ」


 壇の憎悪が移動し、何もないところに触れると喫茶店の出入り口にあるような扉が現れた。その先にニュアがいる。僕は扉に近づき、ドアノブに手をかけた。そこで後ろから誰の声かわからない声が聞こえた。

「また、会えたらいいな」

 振り返らずに答えた。

「僕は、あなたたちのことをとても頼りにしていました。また会えることがあれば、その時は―」

 そんなことが来ないことはわかってる。

「また、あの場所で本を読ませてください」

 これが、叶わなくてもきっと、覚えてるから。

「その時は、また珈琲を淹れるよ。ゆっくり過ごすといい」

 扉を開け、飛び出した。目の前にはいつもの風景が広がっていた。そして、僕の視界にはベンチに座っているニュアとその隣に座っている僕が見えていた。僕は人形みたいにピクリとも動かずに座っていて、体に手を触れるとその中に入っていく気がした。



                       *



 ずっと、ずっと、私は待っていた。私が壇の憎悪に願って作り上げたこの空間で、この世界で何年も待っていた気がした。君とここで永遠を暮らしたかったから、私は止めなかった。そんな隣に座っている君の目は開かない。時間は永遠にあるけれど、君が目覚めないと始まらないんだ。

 君の目が開く。実際にはそんなに時間は経っていないんだろう、それでもそれはもうゆっくりと、永遠を感じるほどゆっくりと私には感じられた。この場所で最初に話す言葉は何かな?私はそれが知りたい。

「遅れてごめん、待ったかな」

 君の言葉は私の心まで届いているよ。その何気ない挨拶こそ、日常を生むんだ。

「大遅刻だよ、エリム」

「ここは…懐かしいな。なんでここを選んだの?」

「あなたと永遠を過ごすならここだと思った」

「それだけ?」

「うん。それだけ」


 こういう風に話したいのは私の方だったんだよ。届かないところに行ってしまった君を追いかけたかったんだ。でももう、これで邪魔するものは誰もいない。ずっとずっと君といることができる。でもエリム、なんでそんな悲しそうな顔をしているの?私にはわからないよ。

「ニュア、僕とまた会ってくれてありがとう」

 それは唐突に、彼が吐き出した言葉だ。

「急にそんなことを言うなんて。別れの挨拶みたい。何かの冗談?」

私の言葉を聞く彼の表情はそれはもう優しく、穏やかな笑顔を浮かべていた。

「僕は、こういう時遠回しに言うのが苦手だからさ、そのまま言うよ」

 私は頷かず、彼の顔を真っすぐに見た。それが頷くことの代わりだ。

「ニュア、僕の記憶では死んでいたのは君だ。けれど、実際に死んでいたのは僕なんじゃないかな?」

 私は少しの間、考えていた。いつものように。もう、エリムには嘘はつけない。

「なんで、わかったのかな?また昔のように理由を教えてほしいな」

「少し長くなるよ」

「大丈夫、それが楽しみだから」

 彼は、どこか遠くを見ている。その眼がどこを見ているのかはわからない。けれど、こうしてよく何もせずに、二人で公園のベンチに座っていたのを思い出す。そして、無為で素敵な時間が過ぎた後、エリムの口が開いた。


「僕は生き返った。記憶に何かしらの齟齬はあると思うけど、君が戻ってきたんじゃなくて僕が戻ってきたのは確かだと思う。そして、目的を達成するためにあの化け物を利用した」

 彼は私の方に向きなおして続ける。

「きっかけは縹の蝶だ。あの蝶はおそらく、壇の憎悪と関りがある人に憑くようになっている。ニュアが消えた後に僕に憑いたことで、これは僕の知らない何かがあると思ったんだ。いわゆる道しるべだになった。次にニュア、君だ。君がどのような方法であの怪物を利用したのかは知らない。でも、僕が既に死んでいて、生き返らせるために使ったのなら納得がいく。もしかしたら、君も魔法を伝えられてきた一族なのかもしれないね。最後になぜ初めから僕が見えるようになっていたのか。これはわからない」


 エリムは一息つく。

「君なら理由を知っているんじゃないのか、ニュア。僕の知らない僕を、君なら」

「知っているよ。でもエリム、あなたはそれを知りたいの?知るのが必ずしも正しいわけじゃない」

 エリムは考えていた。私は続ける。

「本当は気づいている。けれど、憶測の域でしかないからためらっている。違う?それが私の知っているエリムだよ」

「君は、そうやっていつも僕のことを肯定してくれていた。僕にとって君が心の支えであり、呪いだった」

 彼はまた一息、冷たくなっている息を吐いた。

「そう、憶測の域でしかないんだ。僕は、あの事故で死ぬ前に壇の憎悪と出会い、そして何かを願った。そしてその願い、それは…」

そう言いかけた彼は涙を流していた。けれど、詰まりながらも言葉を続けた。

「ニュア、君と同じ時間を生きたかったんだ。天涯孤独だった僕にとってそれは、生きている間の叶えたい欲望そのものだった」

「そしてあなたがそれを願ったのは死ぬ間際。もう、死が確定している時にそれを願ってしまっていた。あれは、願いを叶えたものに憑いている。けどあなたが死んでしまった。この世の理から外れた願いを叶えるためだけに生きているのに、どうしようもなくなってしまった」

「そこで、君が願ったんだろう?僕を生き返らせてほしいって」

「うん。まぁただ生き返らせるとなると矛盾が生じやすい。だから色々手は打ったつもりだったんだけどね。壇の憎悪に最初に願ったのはあれ自身についてだよ。あれ自身がどういうものか理解することで、私は色々動くことができたんだ」

 まだ足りていない。彼は続きを待っている。

「そして、私はネフィラさんと同じ一族だ。正確にはかなり遠い分家でね、魔法を失敗してあのような怪物が生まれるのも知っていたよ。ダルマさんが蘇生魔法を使うのは想定外だったけどね」

エリムは目をぱちくりさせている。本当に驚いている顔だ。でも、嬉しそうに彼は言った。

「そうだったんだ…ねぇ、君はいつの間にそんなに賢くなったのかな?僕の知っているニュアじゃそんなことできないと思うんだけどな」

「君の知らない私かな?ちょっと嬉しいな。君にはいつも先に進まれてたから、ちょっぴり悔しかったんだ」

 私のドヤ顔に彼は吹き出しそうになっていた。けれど、神妙な顔になって、でもどこか優しく、私の手を握った。

「僕は、君と同じ時間を生きたかった。生きているなら、ずっと一緒にいたかった。けれど、僕は死んでしまっていている。ニュア、君が見ている僕は夢なんだ。明晰夢そのものだ。本人だと錯覚しているだけだ。ここにいるのは紛い物なんだよ」

「自分が紛い物とは思わないで、今あなたはここにいる。確かに在るんだ。私はね、あなたと一緒に居れるなら、錯覚し続けたい。けど、あなたが気づいてしまった。もう、錯覚し続けることができないのかな」

ほんとはわかってる。けど―

「ニュア、僕も君も覚めるべきだ。この夢からさ。僕と君が、自分の影を否定すればそれで終わり。夢なんだからさ、これぐらい脆くていいんだよ」

彼は苦しそうだった。この話をすること自体、彼にとって精神をすり減らしているのだろう。思い出を漁るのはもう、止めよう。私は、悲劇のヒロインになりたいわけじゃない。

「僕は既にこの世界を否定した。壇の憎悪も消えてしまった。この世界の半分は僕の願いだから、崩れることになってもおかしくない」

執着するのはもう、やめよう。楽しかった。ほんとに楽しかった。あなたと話していることが、楽しくてたまらなかった。エリムに対する感情を伝えよう。私は彼を抱き寄せて、言葉に乗せて、思いを、全て伝わるかはわからない。けれど、それが私にできる最高の伝え方だった。



「わかった。エリム、私は夢から覚めるよ」

『でも僕は、ニュア、ほんとは嫌なんだよ』

「あなたのことが好きだったんだ。けれど、忘れたくなかったんだ」

『君と過ごした時間は、魔法のようだった。美しい思い出ばかりだ』

「私の心は今でもあなたに囚われ続けている。あなたも私にとって鎖だった」

『僕の呪いが解かれることはない。でも、君の鎖はここで断ち切っておくよ』



 エリムの口は動いてはいなかったと思う。自分の思いを彼は話さなかったんだ。けれど、伝わったよ。言葉にしなくてもわかったんだよ。ねぇ、エリム。魔法なんか使わなくたってさ、君のこと、私は少しは理解できたよ。君は、根はめんどくさがりだけど、優しい人になるためには努力を惜しまなかった。そんな君だから、好いていたんだ。

 私は、彼の顔をまじまじと見つめる。彼は不思議がって言った。

「僕の顔に何かついてるん?」

そう、私の口癖は君からもらったんだ。君は気づいていないだろうけど。君に近づきたかった、そんな私の努力の一つだ。

「ついてるんだよ」

「どこに?」

「どこにでもないよ、エリム」

彼は、瞼を閉じ少し笑った。



 私たちは歩き始めた。私が、いや、私たちが放棄したこの世界は、間もなく終わりを迎えようとしていた。私が元の世界に塗り重ねていた景色は崩壊し始める。私たちが過ごした学校が、一緒に漕いだブランコが、よく座っていたベンチが、通った駄菓子屋が、二人で歩いた川辺が、この紛い物の世界で生きた証は消えていく。この世界で壊れてしまった、失ったものも全て元通りになり始めて、全ては何もなかったように、ただそこにあるように動き始めた。

そして、最後に――。

本当に、別れるような挨拶ではなかった。また明日、会えるようなそんな儚い言葉だった。


「ニュア、おやすみなさい。またね」

「うん。エリム、おやすみ」


 私はベンチの隣で左手に本を持ち、ただ一人座っていた。確かこの本の結末は、彼が心底嫌っていた夢落ちの結末だったような気がする。しばらくして気づく、私の夢は覚めた。覚めてしまった。夢を夢と認識してしまった。でも、記憶はある。間違いなく。二人で過ごした時間は私の糧になっている。後ろ向きにはもう十分に歩いた。そろそろ進まなくちゃ。息を吐くと、その息はまだ白い。私は、そばにあった上着を手に取り、教会へと足を運んだ。


「ネフィラさん」

 彼女はいつものように箒で掃除をしていた。そばに近寄って彼女の反応を伺うと、何とも言えない悲しそうな眼をしていた。

「もう、終わったの?」

「はい、エリムはあるべきところに帰りました」

 私が頭を下げると彼女は空を見上げ、しばらく雲の流れを見ていた。

「寂しくなるね」

 私も彼女と同じ視線で、空を見上げる。

「綺麗なのに触れるとすぐに消えて、忘れたころに思い出して、その儚さに心打たれていました」

「ニュアちゃんにとって、エリム君は雪のような人だったの?」

 雪か、そうかも、私にとってエリムは雪のような人でもあるのかもしれない。でも、私にとってエリムはある意味花だった。君はどこかに開花したいという秘めた思いを持っているようで、そんな君に、私は開花したいと願っている蕾を重ねていた。

「どうなのかな、もう、わからない」

 私の視線は自然と下を向いたけど、ネフィラさん上を向いたままだった。

「私ね、君がエリム君を生き返らせるために設定した世界で、君の元々持っている記憶を戻すには抵抗があったんだ」

「理由を聞いても、いいですか」

 彼女が上げていた顔を下ろすと、何か液体が落ちた。

「このまま、あなたたちが何も知らないで過ごすのもいいんじゃないかって、知らなかったらあの日々を続けることができたんじゃないかって、そう思ってた。だって、あまりにも、あまりにもひどすぎるよ。あなただって、こんな残酷なこと本当は望んでいないじゃないのかって、考えてた」

「私は確かに楽しかったです。またこの喪失感を味わったのも事実です。このままだったらきっと彼と過ごせるのかなとも思ってました」

 彼女の目を見て、私の言葉が届くように。

「そのことで元に戻ってしまうのなら、自分から身を引きたかった。それに、きっと彼は何かの手助けが無くても気づいたと思います。エリムはそういうところは昔から変わっていないんです。だからわがままで始めたのだから、わがままで終わらせても、きっとエリムは怒らない、これを聞いていたらきっと笑っていると思います」

 彼女はもう涙を拭いて、こちらの顔を見ていた。

「そうだね、あの馬鹿はきっと腹を抱えて笑っている気がするね」


 ネフィラさんは腕を上に組み、グーっと背伸びをする、私はその姿を彼に重ねていた。

「これからどうするの?」

 どうしよう、何をするかなんて全く決めてなかった。やりたいことなんてない、ただ惰性でこれからを過ごすとどこかで信じ込んでいた。自将来なんて自分でも決められないけど、今したいことなら、そうだ。

「店に行って、何も入れずにブラックで珈琲を飲みたい。それに私は、ダルマさんにまだこの本を返していないんです」

 懐から本を出す。元々白紙で、彼の手元にあった時は小説だった本の中身はいつしか、彼がどんな人と過ごしたのかを写すアルバムとなっていた。本当に、薬にも毒にもなる本だ。

「私も行っていい?」

 意外な提案に私は首をかしげる。

「私もね、まだダルマさんにあの子のことをありがとうございましたって伝えてないの。弟みたいに思っていたから言いたいの」

「そうですね、私も言いそびれていました」

 壇の憎悪はダルマさんが生み出したもの。そして私がネフィラさんから学んだ魔法を使って、エリムを生き返らせるための世界を創ったこと。まだまだ話したいことは沢山あって、それはダルマさんにとって残酷なことかもしれない。けれど、あなたがなぜあの怪物を生んだのか、エリムのおかげでわかったんだ。話さないなんて私にはできない。

「じゃあ行こっか」


 風が吹いて、ネフィラさんが集めていた落ち葉はバラバラに飛んでしまった。私のこの行動もこんな風に無駄になってしまうのかもしれない。あのエリムと過ごした時間も、この落ち葉のようにバラバラになってしまうのかもしれない。けれど、いつしか肥料となって繋がっていくとしたら、泥臭く生きていくとしも、カッコ悪くたって進んでいくのも私は嫌いじゃない。だって君がそうやって、わかっていたはずなのに全力に、確かに生きたから。


 息を吹くと、もう白くはならなかった。時間は進み、思い出も薄れていく。歩き、進み、立ち止まってほとんど変わらない風景を、その空気を、私は肌で撫でながらその時間を抱きしめてこれから進んでいくよ。君ならそうするでしょ、エリム。

「うん」


 喫茶キャットブックはもう、ずっと遠くにある気がした。



~fin~


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ