第4話
色がない空間だった。透明ともいえる違和感を覚える場所だ。この空間を歩いてみたい、純粋な気持ちのまま僕は一歩を踏み出そうと―
「あ、あれ?」
踏み出した足が地に着くことは無かった。元には戻せるが、何回試しても前に進むことは無かった。それで見上げて、周りを見て、ここには本当に何もないんだと思った。けれど、不思議と寂しいとは思わない。ずっと、ここに居られる。そんな気がした。
「―聞こえているかい?」
不意に聞こえた声はどこから聞こえてきたのか、今は皆目見当もつかなかった。聞いたことがあるような声だったが、どこで聞いたのかが上手く思い出せない。体と思いの間での不一致が起きているように…気持ち悪いな。その中で思案したけどろくな考えが浮かばない。かろうじてひねり出す
「誰ですか。あなたは僕のことを知っている。違いますか?」
しばらく沈黙が流れていた。さっきまではこの空間にずっといられると思っていたのに、今はこの一瞬がひどくもどかしい。早く答えろよ、お前は何なんだ。
「今は答えられない、すまないが君にはまだ、私に会うための物を持っていない」
化け物は話すのを止めなかった。
「ここは狭間の空間。そう呼ばれている場所だ」
「はぁ?」
僕は急に息が切れ始めているような錯覚に襲われて、ちっ、全力で走った後のようだ。意識もとぎれとぎれになりそうになる。また声が聞こえる。
「今から君を魔法で元に戻す。あと一つだ。そして全てを遂げろ、それが君に教えられる僅かなものだ」
さっきからこいつは偉そうに何を言ってるんだ?どうにかしたかったが、今の状況では何もできることは無かった。僕はそこでただ立っていた。諦めが体に現れているのか、思考がクリアになっていく。ずれも気にならないぐらいになってきた。そして僕はその頭で一つのあることに辿り着いた。
「あなたは、観測者なのか」
返答はすぐに返ってきた。
「ただのしがない化け物だよ」
次に目を開けるとそこは見たことのある道で、伏せた目の先には本が二冊落ちていた。
その本には見覚えがあった。たしかダルマさんがニュアにあげたものだったはず。
「え、どうしてこれが?」
周りを見る、いない、いない、いない。どこにいるんだ。後ろに気配を感じ、振り向くとそこには彼女ではなく、縹色の蝶々が居た。
「どういう理由で、君がここに居るんだ?」
僕は恐る恐る、その蝶々に手を差し出す。指先に止まるように、人差し指を意識するように。蝶は止まったけれど、その一時でフラッシュバックのようにこれまでに何が起きたのかが大量に流れ込んできた。
「うっ、あぁ、ああっぁ」
混乱していた僕の手にはいつの間にか何かが握られていることに気づいた。開くとそこには―
「心の欠片が、なんで…」
膝から力が抜けていった、崩れ落ちたという方が正しいのか。ニュアは消えてしまったのだ。壇の憎悪によって奪われて、でも、僕は何故かまたここに居る。手に握られた彼女の欠片を見る。切り替えよう、僕がするべきことはなんだ。今はあの声の主が、僕をこちらに戻したのは確かと信じてするべきことをしよう。そして、あの声はあの人の声に似ている。確かめなくては、あの人が全てを知っているのであれば真実を知りたい。
「行かなければいけない場所は、わかっている」
喫茶キャットブックの姿はもうとっくに見えていた。
店の前にはClosedと書かれた看板が立っていた。僕は構わずに、扉を開けて店内に足を踏み入れた。すると、ダルマさんが本棚を整理しながらこちらを向かずに、いや、向けずに話し出した。
「手が離せず、申し訳ありません。今は準備中でして本日の営業は終了しております。提供できるものがございませんので、今日のところは申し訳ございませんががお引き取り下さい」
引き下がるという選択肢なんて無かった。
「ダルマさん、エリムです。客としてでも、弟子としてでもなく、ただあなたに聞きたいことがありまして今日は伺いました」
ちょうど余裕ができたのか、ダルマさんはゆっくりと振り向いて、ただ気づいたことを聞いてきた。
「エリム、ニュア君はどうした」
「今の僕のこの姿が、答えです」
縹の蝶を指で撫でる、ニュアが居なくなってからこれは僕についてきた。ダルマさんに示すには十分だろう。ダルマさんの反応を見ると、かなり考え込んでいるようだ。その顔は普段のダルマさんには考えられないほどの形相だった。
「私に話せることがあるのなら、全て話そう。それが、弔いだ」
「…そうして頂けると助かります」
僕はカウンターに座り、ダルマさんが話し出すのをただ待っていた。ダルマさんはお湯を沸かし始め、豆を挽き始めた。さっきの形相は嘘のように、いつもの優しい彼に少し悲しみを足した、見たことのない表情を浮かべて。
「なにがあった?彼女が居なくなってしまった理由と状況を教えてほしい」
僕は教えられたとおりに教会に行って魔法術式を起動したこと、そして欠片を手に入れた後に壇の憎悪たる化け物が魔法陣から噴き出したことを伝えた。
「…そして、奴に追いつかれてニュアと僕は飲み込まれました」
「君も飲み込まれたのかい?」
僕は飲み込まれた後に行った謎の空間での出来事を話した。僕が最後の心の欠片を集めたいと考えていることと―
「その声の主の言葉を聞いて思ったのは、自身のことを化け物といっている奴の声があなたに似ていたということ。何かしらあなたにはあの怪物との関係がある。僕にはそうとしか思えない」
ダルマさんはいつもの要領でお湯を注ぐ、何となく彼の珈琲を飲むのはこれで最後なんじゃないかと、微かに胸騒ぎを覚えていた。
「エリム、君が見たその化け物の見当はついているのかい?」
見当はついている。昔、あなたに教えてもらったから。
「あれは魔法実験の反動で生まれることがあるものだ。けれど、あそこまで巨大な力を持つものは見たことがない。何の魔法を使ったのですか、ダルマさん」
魔法実験で生まれる生物はその魔法の力に比例する。つまり、あの規格外の化け物は禁忌に近い魔法の反動で生まれたものだ。禁忌に近い魔法、つまり―
「あぁ、私は蘇生魔法を編み出し、使ったよ。躊躇いはなかった。そして、失敗した」
驚きはなかった。考えていたことが見事に的中してしまった。これは僕の危機的状況でない時、よくないことばかりの事柄の予想はつくという、微妙な特技だから。
「誰を生き返らせようとしたんですか、あなたほどの聡明な方がこんなことをするなんて、僕には見当がつかない」
店長は一度店の奥に入っていき、一つのアルバムを出してきた。古びた、でも綺麗に手入れされているアルバムだった。中を開き、一枚の写真を取り出して僕の前に置いた。写真にはダルマさん、ビリアさんそして間に一人の女の子がいた。
「娘だよ、血は繋がっていないけれどね。ビリアと二人で昔、養子として彼女と一緒に暮らしていたんだよ」
初耳だった。この人に娘がいたことなんて知らない。これが意味することは、そうか。
「あなたはこの娘さんを蘇らせようとした。そして、その魔法に失敗してあの化け物が生まれた。そういうことですね」
ダルマさんの目は少しづつ潤んでいった。でも、その涙は拭かずに話し出した。僕には懺悔の言葉にしか聞こえなかった。
「そうだよ。愛おしかったんだ、日々成長していくその姿が何とも言えない気持ちを生み出してくれていてね。パパって言ってくれたんだよ。それなのに私は何も…してあげれなかった。病気も、もっと早く気づいてあげれば手遅れにならなかったかもしれない」
珈琲を飲みながら彼の話を聞いていた。いい香りだった、けれど味なんてこれっぽちも感じなかった。初めて珈琲をまずいと、そう思った。
「あなたは…聖人すぎる」
彼は小さく首を振った。
「聖人なんかじゃない、私はただの愚者だ。こうして君にも迷惑をかけている」
そう言って黙り込んでしまった。けれど、僕には知らなければならないことがある。あなたが愚者なら僕は無視して踏み越えていく。
「壇の憎悪、縹の蝶、そしてあの空間で聞こえた声の主は何なのか教えてください。僕は真実を知りたい。それが、彼女へのせめてもの罪滅ぼしにつながる」
問いただすように言う。けど、店長の様子がおかしいことに気づいた。まずい、この状況はまずい。彼の懺悔とも思えるこの会話で、明らかに気力をなくしてしまっていたのだ。このままではあれがまた来てしまうのではないのか。あれが消滅したという保証なんてどこにもない。
「しっかりしてくれ!このままじゃ今度はあなたも巻き込まれる羽目になる!」
肩をゆすり、彼の失いつつある気力をどうにかして戻そうとした。しかし、遅かった。
「エリム、後ろのあれはまさか…」
後ろの窓を見るとそこには黒い影が蠢いて、そして徐々に上へ上へ昇っているのか店内が暗くなっていた。この店ごと飲み込んでいるのなら、ここからなら裏口から出るしかない。でも追いつかれたらどうしようか。じゃあ、あの部屋に逃げるか?ダメだ、この状態のダルマさんがすぐに結界を張れるとは思えない。
なら選択肢は―
「ダルマさん、あなたは地下室に行って結界を張って下さい。僕が裏口から出てあれをおびき出してみます。それならあなたは助かるはずだ」
僕は懐から心の欠片を取り出した。
「これがあれの狙いなのはわかっています。幸い、あれのスピードだと僕の全速力なら囲まれなければ大丈夫です」
店内の奥に進み、裏口の扉に手をかけてダルマさんの方を見ようと思ったがやめた。信じて見なかったって言えば聞こえはいいが、見たくなかっただけだ。
外に出るとまだ覆いつくされてはなかった。僕は全速力で駆け、植木郡を飛び越えて後ろを見た。あれがどこにいるかを確認―
こんなことがあるのか、壇の憎悪はこちらには向かってきたわけではなく、そのまま店を飲み込むのを止めてはいなかった。
「僕を狙ってきたわけじゃないのか?なんで…」
じゃあダルマさんは、どうなる。
「ふざけんなよ…」
店に向かって、走り出していた。裏口を開けて中に入ろうとしたが、もう既に黒い液体上のもので覆いつくされていた。店内には一筋の明かりもささず、どうなっているのかほとんどわからない。でも、ニュアの時とは違って壁のようになっている訳ではなかった。
「行けるのか…」
液状のあれに触ると、激痛が走った。僕には進めない。この痛みを耐えながら進むなんて絶対にできない。どうしようもできないなら、もう…
「何、これ…」
ダルマさんの声じゃなかった。何で今帰ってきたんだよ。僕の前に裏口から戻ってきたビリアさんが立っていて、僕と同じようにただ呆然としていた。
「エリム君、これどうなっているの?あの人は?」
ビリアさんは僕の肩を揺らし、その力はどんどん強くなっていた。
「逃げましょう、ここに居てはあなたも巻き込まれる」
そう答えるしかなかった。でもビリアさんは首を横に振った。
「あそこにあの人がいるんだね」
見つめてきた目を直視できない、そんな目で見ないでくれ。
「あそこにダルマさんがいる保証なんてありません」
僕の答えを聞くと何故かビリアさんはほっとした様子でいた。どうして、そんな顔を浮かべることができるのかと聞きたかった。言葉は出てこない。彼女は僕の頭を撫でて、そして腕をまくり、今にも突入しそうな雰囲気を醸し出していた。
「あの人が帰ってくるのはあそこしかないの、じゃあ私が待っててあげないといけない」
この人はあそこに行くつもりだ。僕にはできない、僕にできることは何だ?
「ビリアさん、これをダルマさんに返していただけませんか。僕には多分できない」
胸ポケットから転移魔法が付与された本を出した。けれど、彼女は受け取らなかった。
「これはあなたからあの人に返して。借りたものは直接返すのが基本。それと、それはあなたが返すべき」
ビリアさんは僕の返答を待たずにそのまま店の中に行ってしまった。そして、僕はその場で喫茶キャットブックが飲み込まれ消えていくのを眺めていた。
部屋で一人で座っていた。僕の心の錨たちを奪われたんだ。彼女のことを忘れることができなかった罰なんだろう。彼女の再開という飴をもらったが、その後は他の大切な人々を失うという鞭が僕に振り下ろされたというところか。
むかつくなぁ、こんなことばっかり考えている自分に。忘れたかったんじゃないのか?彼女が居なくなってしまって、もう考えるのはやめたくなったんじゃないのか?でも、少し希望を見せられただけで自分の考え方が変わってしまった。そうだ、今まで信じてた自分を裏切った報いだ。
右手にもった本に気づく。縹の蝶が止まっていたそれは、ニュアが消える際に落とした本だった。タイトルは書かれていなかったはずなのに、その本には今の自分に相応しいタイトルが書かれていた。本を開くとそこには一人の物語が書かれていた。子供むけの絵本のような書き方をしているのに、内容はまるで子供向けじゃない。でも、最後には救われていた。そうは理解できたが、僕には本の文字が文字化けしているようにしか見えていなかった。
本を閉じた。内容はほとんど頭に入ってこなかったけれど、これだけはわかった。そして、僕の欠如も。
「この子には救いがあった。僕にはねニュア、君だけが救いだったんだ。君がいてくれたから、僕の世界には色があったんだ。けれどもう、全てどうでもいい。それで、いいんだ」
胸から心の欠片を取り出し、ベランダから外へ放り投げた。それくらい、全てがもうどうでもよくなっていた。しばらく経つと、僕の目の前にはニュアを奪ったあの黒い奴が現れた。
「また、お前か…」
奴は動かない。何かを待っているようだ。鼓動が早い。奴に手を伸ばす。触れたらまたあの激痛が走ることはわかっている。けれど、手を伸ばさずにはいられなかった。
触れる直前、僕はなぜこの壇の憎悪と呼ばれる化け物は目の前に現れたのか何となくわかった気がした。
「あの欠片はニュアを生き返らせる代物じゃなかったんだね。あれは君から身を守る魔よけのようなものだったんだ」
触れた。痛みは走らなかったけど、代わりに僕の皮膚の色が徐々に変色していっているのがゆっくりだが分かった。このままニュアのいるところに行けるんだ。それなら、他はもうどうだっていいと思えた。
奴に触れている間、不思議と嫌な気持ちはしなかった。体が違う何かに置き換えられている違和感はあってもそれはそんなに苦じゃない。それよりも、触れている間に時々何か硬いものが手にぶつかっていたのが何なんだろうと思っていた。手を伸ばして掴んだ。握られたそれは一部分が何か欠けていて、他は曲面で構成されている心当たりがある形状だった。
腕を引き抜き、手を広げて中を確認するとそれはピンクと黄色が混ざった一つの石だった。血の気が引くのと同時に、僕はそれを持ってそのまま窓の外へ飛び出した。落下しながらどこに捨てたのか探す、雑草が生い茂っている中でそれを見つけるのは意外にも難しいことじゃなかった。
「んっっがゔあ」
上から声にならない声で壇の憎悪が追いかけてきていた。着地の衝撃で足にひびが入ったような痛みが走ったが、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
「っあった、よかった」
全ての欠片を合わせると、見事に綺麗に合わさった。すかさずに胸から転移魔法が込められた魔法書をだして叫んで、祈るよう、届くかなんて知ったことか。僕を止めるなら止めてみやがれ。
「これが夢ならもう一度、見させてください。ダルマさん、僕はあなたを尊敬していた。聖人で居続けるあなたがまぶしくて仕方なかったんだ。あの日からずっと僕はあなたの背中を追いかけ続けていた。そんなどうしようもない僕の、最後のわがままです。」
魔法書を開き、噛み切って血が滴る指で起動の文字を書く。視界が真っ暗に、体中が何かに這われているのも、体が軋むのも、全身を舐めるような痛みも、もう何も聞こえてなくても、叫んでやる。この声で世界がぶち壊されるなら壊してしまえ!
「もう一度、あの場所へ。僕を狭間の空間に連れて行けぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
叫び声が響いたその場所に、目に映るものは無かった。