竜と王子
遠くで狼の群れが吠えている。少し冷たい夜風が髪を揺らす。大きな青い月が、篝火以外に明かりのない地上をほの白く照らしている。こんな夜は、彼女に会えそうな予感がして、つい浮き足立ってしまう。
城壁の上で、王子は月光に際立つ山々の方角を見つめていた。胸壁の間に置いた砂時計の砂が落ちきる頃、聞きなれた羽音が近づいてくるのが聞こえて、夢の世界に浸かっていた王子ははっと目を開ける。眠気は一瞬で消えた。王子の目の前に、彼の3倍は体長のある白銀の竜が現れる。王子は空中の竜が伸ばしてきた首に抱きつき、互いの頰を触れさせ合う。竜の鱗は金属のように冷たかったが、王子はその硬い感触が好きだった。竜の大きな虹色に輝く瞳を見つめ、青灰色の目を愛おしさに煌めかせながら、王子は唇を開く。
「月が細い間は、一日も貴女に会えなくて寂しかった。」
竜は瞳を細めて微笑む。
「姫君たちと会うのに忙しかったのでは?」
人間の女性のような、それにしては重厚感のある声で揶揄うように竜が言った。対して、王子は眉間に皺を寄せ、不服そうに返す。
「全員追い返しました。」
竜は呆れた顔で鼻を鳴らす。
「相変わらず頭のイカれた王子だ。」
「ひどいな。私は貴女を想って、周りから後ろ指指されているのに。」
「なら諦めればいい。だから距離を置いてやったのに。」
「なんですって。もう二度とそんなことはしないでください!切なくて気をおかしくしそうだった!」
「大の大人が情けない…」
本当に傷ついた表情で、儚げな王子が懇願するので、つい竜も罪悪感を感じる。王子は人からは整った、と形容される顔を近づけ、竜の首筋を片手で撫でながら問う。竜はくすぐったいのと、胸がざわつくのとで彼のこの手つきは好きではなかった。
「貴女は全く、寂しくなかったのですか」
王子があまりに悲しげに恨めしげに言うので、
「いや、」
つい竜も否定してしまう。すると王子はパッと顔を輝かせたあと、蠱惑な笑みを浮かべた。竜は首を引っ込めようとするが、王子が離さない。人の子の力など竜の赤子にも及ばない。だというのに竜は王子を振り払えない。
「今日は久しぶりの逢瀬ですから、巣穴まで連れて行ってください。」
「好き好んで竜の巣に来る人の子なんて狂っているぞ、本当。」
「私たちの愛の巣ですから。」
「やめろ。」
竜の背に軽々と王子が飛び乗ると、竜は山に向けて飛び立った。竜の背につかまりながら、王子は暗殺されかけ、1人山に逃れ山賊に襲われた時、助けてくれた日の竜を想い出していた。
誰よりも綺麗で気高い魂の持ち主だと思った。種族の違いなど気にならなかった。自分を殺そうとして来る人間より、慈悲深い竜に親しみを覚えるのは自然だと王子は思っていた。王子は臣下からも、初対面の人間からも美しいと言われ育ってきた。王子は、人の顔の美醜もよくわからないたちだが、白銀の竜は美しいと感じた。竜を見た人はそこに神々しい美しさを感じるが、王子の感じた美しさは、神の美しさではなく、同族の美人を見た時に感じる美しさだ。もっとも、王子は人に対して美しいと思ったことがないので、友人らの話を聞いて想像したものだったが。
王子は竜を自分のものにしたかったが、自由を何より愛する竜を自分が支配する予定の狭い土地などに縛り付けたくはなかった。それに、竜を捕らえるなどこちらが焼き殺される可能性が高い。まだ竜と口付けにも至ってない王子は死に急ぎたくもなかった。故に王子は月に数日の逢瀬で我慢している。
彼女も会いにきてくれるのだから、自分のことは何だかんだ気に入ってくれている、と信じたい。もぞもぞと王子が竜の腹に手を回して抱きつくと、腹の鱗は薄めなことに気がつく。そこは竜の暖かい体温をわずかに感じることができる場所だった。愛しい竜の腹を撫でながら王子がため息をつくと、腹の感触にびっくりした竜に危うく振り落とされそうになった。
「急所を触られるのは気色が悪いからやめてくれ。」
「竜は人の子を孕めるんでしょうか?竜の雄に比べると粗末な私のものでも我慢していただけますか?」
「森に落とされて串刺しになりたいのか?」
悪態をつく竜は、王子が真剣な目をしていたことに気づいていなかった。
擬人化しないのもそれはそれでいいよね!