2-あちらからこちらへ
人力で進む小舟で総一郎が必死に吐き気を堪えている中、清十郎が「見えたぞ!」と叫んだ。
「吉野殿、もう少々、左じゃ!」
「はい」
清十郎の指示で鉱士郎が大きく海面をかき、船を寄せる。怖々首を伸ばした総一郎が見たものは、海面を漂う船らしきものの残骸だった。
酒が入っていたらしき木箱、破れたマスト、焼け焦げたどこかの部品らしき木板、散りじりになった衣服。
「難破か……いや、こりゃぁ戦でもあったようじゃ」
「死後の世界にも戦争があるなんて」
「わしがさっき見たんは、もしかして仏さんかもしれん。沈んでしもうたか」
死後の世界で死んだ人もほとけさんと呼ぶのだろうか。未だによくわからない状況のなかで、どうしてこの二人はこんなに落ち着いているのだろう。
総一郎は船縁にしがみついたまま、海面を見渡した。
凪の海は平穏で、何故か恐怖だけは無かった。こんな不思議な世界なのだ。人魚や妖精が出てくればいいのにと思う。プログラマーの田口くんがとても喜ぶのに。
「……え」
手。
手だ。
総一朗がしがみついていた船縁から真下、船底から続く飾縁の僅かな突起に、子供の手があった。その手が段々力なく外れていく。
「あっ、あ」
総一郎は咄嗟にその手首を掴んだ。考える暇なんてない。
「なんじゃぁ!?」
船がぐらりと揺れて、清十郎が二歩で間を詰めて総一郎の襟をひっ掴んだ。
「離すなや! 引け、わしが引き上げちゃる!」
船から身を乗り出した二人の羽織を鉱士郎が両手で掴む。総一郎が引っ張った手は、腕は、どんどん海面に姿を見せた。
「せぇーのっ!」
海面から顔を出した衣服を掴み、だれかを引き上げた。
大量の海水を滴らせながら船の上に転がったのは、金色の髪の女の子だった。うずくまって海水を吐き出し、寒さのせいか船が揺れていると錯覚するほどに震えている。海水温はそう低くなかったが、彼女がどれほどここにいたのかはわからない。
「こりゃいけん、脱がせにゃ死ぬるぞ。高木殿、そっちを引いてくれ」
清十郎が躊躇いなく少女のワンピース風の服をまくりあげ、水で張り付いて脱げない衣服を無理矢理引き剥がした。鉱士郎が衣服を絞り、真っ裸にした少女の全身をふき取る。未発達の体は起伏もなく、十にも満たない年齢だろう。首には少女が持つにしては大きな、青い石のはまったネックレスが揺れている。
「すまんのう嫁入り前の娘に。ほれ、こすれ、こすれ」
三人分の羽織でぐるぐる巻きにされた少女の足下から全身を三人がかりで擦り、総一郎は途中で袴の背中に宴会場で暑くなって外した臙脂の襟巻きがあることを思いだし、それも少女の首に巻いた。
「死んじゃだめだ……死んでるのかな、でもだめだ、死ぬな」
支離滅裂な言葉をかけながら、総一郎は必死に腕を、腹を擦った。やがて少女の体の震えが収まり、寝息に変わるのを確認すると、今度は涙が止まらなくなった。
「高木殿はよう泣くのう」
「……この年の女の子とか、妹、おもいだして」
眠る少女を抱きしめて体温を移しながら、総一郎が洟をすする。きっと先に天国に行っている妹に、こうして抱き抱えたまま遊びにつきあわされた。喧嘩ばかりだったのに、どうしてだか妹は総一郎にくっついて遊びたがった。
彼女が白い骨になってしまったのは、妹が八歳、総一郎が十五歳の秋だ。
少女の体温が奪われぬよう、清十郎が襟巻きを頭も包むように巻き直してくれた。
少女は不思議な顔立ちをしていた。
不美人というわけではない。肌は氷のように青ざめているが透き通るような白色で、まるで作り物じみたなめらかさだ。白人種にありがちな幼い子供のそばかすも、黒子も染みもない。
そして、耳の先端だけが尖っていた。
「……トールキン?」
「いや、僕も思いましたけどあれは日本のアニメが元祖だそうです」
「なんじゃ?」
鉱士郎の言葉に、思わず自分の中の田口君が顔を出して突っ込んだ。
「エルフ、っていう種族で、アニメやお伽噺に出てくるんです。ここが現実世界じゃないなら、もしかしてそうかも」
「はぁ、異人の子じゃぁないんか。わしゃぁ吉野殿の赤い髪も初めて見たもんじゃけ、こげな白い肌に黄色の髪やら、冥土の土産くらいにゃ珍しいわ。そういや吉野殿の髪も変わっとる。国はどこじゃ?」
清十郎の発言に、ふたりは同時に同じ疑問を感じた。異人と呼び、そして異なる髪色も見たことがないと。
「清十郎さん、ずっと疑問だったのですが、あなたはいつの生まれですか?」
「わしゃ文久二年の生まれじゃ」
総一郎と鉱士郎は顔を見合わせた。ぶんきゅうって、いつ!?
「それは、明治より前ってことですよね……」
「ほうじゃ。うちゃぁ刀を差せんようになった武家じゃ。おふたりはすっかり断髪もされとるし、高木どのはどこぞの大店の跡取りかいの。吉野殿はおいねのようなオランダやえげれす人の父御をお持ちなのか?」
いち早く自分を取り戻した鉱士郎がカナダという国を説明し、総一郎はしどろもどろになりながらもおよそ百五十年の時間の開きを説明した。
数えで二十歳だという清十郎は流石に呆けたように聞いていたが、すぐに「冥土っちゅうのは百年やらはこまい差なんじゃろうのう」と納得したようだった。時代が変わっても根付いた仏教感はあまり変わらないのだ。
総一郎と鉱士郎の生まれた年代の差はなく、鉱士郎は三十五歳だった。
「……それにしても、おかしいですよね。何がおかしいって言えないくらいは全部おかしいですけど、私は喉が渇いたしお腹もすきました」
「俺もです。もしかして……」
さっきから全く動かない月を見ながら、総一郎は首をひねった。そもそもあれは、本当に月なのだろうか。
「さっき清十郎さんが言ったフダラクの逆なんじゃないかな」
「逆とは」
「つまり、俺たちは死んであの世にいく途中じゃなくて、死んでからこちらに呼ばれたんじゃないかって。だって、そうじゃなきゃこんなエルフっぽい見た目の女の子が溺れてるなんておかしい」
潮のついた唇が、かわいてひりついている。
冷静さを取り戻した総一郎が、体温の存在する少女の体を抱え、密着する場所を直す。
その時少女のまつげが、ひくりと震えた。