1-メイビー補陀落渡海
潮のにおいだ。
寝返りを打ち、硬い板の感触に辟易する。また酔いつぶれて床で寝てしまったらしい。
夢と現の境目で、総一郎は祖母の家のにおいがするな、と思った。祖母の家は瀬戸内の海辺で、海水浴には不向きな大岩がごろごろと転がるその場所は折角夏休みなのに目の前の海で泳げない総一郎と下の妹には大変不評だった。
中学生にもなれば、ゲーム機器もない祖母の家は兄妹にとって何の面白味もなく、何年も帰らぬうちに祖母は亡くなった。潮風に外壁が朽ちた真夏の自宅葬は、古いエアコンの効きが悪いために誰もが汗だくだった。
「おい」
ゆす、と総一郎の背を押す手があった。軽薄な中屋敷くんの声ではない。昨日はいった
い、誰と飲んだっけ?
「おいあんたぁ、起きんさいや。起きんと、わしらぁこのまま補陀落へ行ってしまうわ」
フダラク?
聞いたことがあるような言葉に、総一郎の頭がようやくはっきりしてきた。
手のひらにはやはり、木の板の感触。それはやたらザラザラしていて、どこか店の床かもしれない。それは大変に申し訳ない。
「フダラクとは?」
「補陀落ゆうのは、坊さんが船に乗って片道で目指す極楽のことじゃ」
「極楽とは、天国のようなものですか」
「でうすを崇めとるもんと坊さんが同じとこに行くかは知らんが、似たようなもんじゃろう」
総一郎を起こした声の他に、まだ誰かがいるようだ。
風が吹き、潮の匂いがいっそう強まった。うすらと目を開けた総一郎の眼前に、のぞき込むようにしていた男の顔とまともに目があった。
「……あの」
「おお、目ぇ覚めたか。わしらぁ、いま困っとるんじゃ。あんたはここが何処かわからんかのう?」
総一郎の、全く見知らぬ男だった。
月明かりの淡い光のなか、吊り目がちなその男は心底困ったというふうにあぐらをかいていた膝を叩いた。羽織からは樟脳のきつい香りがする。
きしむ体をゆっくりと起こした総一郎が、男の背後の光景に目を擦る。まだ酒が残りすぎてるのか?
「……どこ、ですか……」
ああ、と羽織袴姿の男が片手で額を押さえた。総一郎に託していた一縷の望みが
いま、消えてしまったらしい。
「え……え? どこ、ここ、えっ?」
海だ。
一面の夜の海。
漁船のような小さな船の上で、総一郎は混乱を隠せない。キョロキョロと見回し、船縁を触る。そこにはしっかりと感触がある。
「落ち着いてください。私たちも先ほど目が覚めまして、状況を確認していました。私は吉野鉱士郎といいます、あなたは?」
「あ……の、高木です……高木総一郎」
声をかけられ、反射的に返事をした。名刺を今持ってないなと真面目に考えてしまったが、そんな場合かと突っ込む者はいない。
吉野はくせのある髪の、日本人とは違う顔立ちだった。座っていてもわかるほどに体格がよく、羽織の上からも胸の厚みがわかった。
「わしは梶清十郎じゃ。これで目出度く誰もなんもわからんことがわかったのう、困った」
最初に総一郎に声をかけた男は、清十郎というらしい。総髪を後頭部の上の方で括り、困ったという割には焦りのない、どこか達観した口調で顎に手を添える。
呆然と景色を見回しながらも、総一郎は状況を観察していた。見知らぬ男、見知らぬ場所、見知らぬ船、見知らぬどこかの海。
「あの、俺たち誘拐でもされたんですかね。みなさん、紋付きだし……同じ場所にいましたか?」
まず目に付いたのは、全員の格好だ。総一郎は大学の卒業式ののち、立ち上げた会社の懇親会で紋付き袴を着用していた。清十郎も鉱士郎もおなじ姿なのだ。
「俺の会社のパーティーにおられましたか?」
「いいえ、私は友人の誕生会にこの格好で来いと言われたのです」
「わしは、祝言の最中じゃった」
「祝言って、結婚式ですよね」
顎を引いて清十郎が肯定する。清十郎の見た目は二十歳になるかならないかだ。まだ若いのに、もう嫁さんを貰ったのかと少しだけ羨ましいと総一郎はこんな場合なのにやっかんでしまう。
「……やっぱりのう」
静かに清十郎が呟いた。その響きに、ざわざわと首筋がざわめく。
「なにが、やっぱりなんですか……」
飲み物なんてありはしない。乾いた声で、総一郎は尋ねた。
「わしらぁはやはり、死んだんじゃろう」
死。
胃の奥から、小さな虫が這い上がるよう
な不快感だった。
無言だった鉱士郎も、ちいさく「信じたくはないですけどね」と呟いて目を閉じた。
「このまま船に乗っとれば、きっと行き先は冥土じゃろう。晴れ着で閻魔さんに会えるんなら、まぁ、ましじゃ。嫁に子ぉ産ませてやれなんだのは申し訳ないが」
結婚式の最中だったという清十郎が、妻にむけてか強く瞼を閉じて祈るように俯いた。
「……やだ」
ずびっ、と情けない音が鉱士郎にも聞こえた。
「俺、やっと会社たちあげて、来年は五倍儲けて、可愛い彼女ができて、豪邸建てるはずだったのに」
ぼたぼたと涙をこぼす総一郎に、慰めの言葉は不要だった。もう、どうしようもないのだ。
「本当に、未だ映画の中みたいです。神様って、迎えに来るんですかね」
鉱士郎が月の道が出来ている海面に顔を向けると、月光が反射して甘い顔立ちがきらきらとひかる。
──たしかに俺は、死んだ。
総一郎は鼻水を拭いもせずに啜り泣いた。頬がひりひり痛むのが奇妙に現実的で、無性に腹が立った。
「──なにか、おる」
唐突に、清十郎が鉱士郎の見ている方角を指した。
波の影で、鉱士郎には判別できない。
「どこですか」
「あそこじゃ。吉野殿、あそこに人の頭のようなもんがひょこひょこしよる。ゆくぞ」
袖をまくった清十郎が左腕を海面に沈め、意を汲んだ鉱士郎は右舷に右腕を突っ込んだ。
「総一郎君はバランスをとって!」
「へ、あ、はい?」
二人が海に上半身を乗り出したせいで、小舟がおそろしいほどに揺れる。
ざぶざぶと進み出した船の上で、総一郎は四つん這いで右へ行き、左へ転がる。
細身ながらも鋼のように鍛えられた清十郎の左腕と熊を絞め殺しそうな太く逞しい鉱士郎の右腕のおかげで、櫂もなく進む船の上、総一郎は体育会系の人間に取り残されるインドア人間の悲哀を、死んでもなお味わう理不尽さを嘆いた。