のべらいず 五蘊皆空経 ~ 苦しみの消し方!?
さて、一転してこんどは上座部系仏教です。昔の日本では「自分ひとりしか救われない小乗仏教」と言われ軽視されていましたが、これがなかなかどうしてあなどれない(汗)。
ここに描かれてたのは初転法輪(最初の説法)の一部分でして…さて、デビュー説法でブッダはどんなことを言ってたのでしょうか?
(注:脚色を加えたのべらいずであり正確な翻訳ではありません)
大唐三藏法師義淨奉制譯 (漢訳)
大日本そこらの素人(笑)阿僧祇戯訳 (のべらいず)
佛説五蘊皆空經 如是我聞一時薄伽梵……
仏陀の説いた「五蘊(五つの構成要素、眼耳鼻口身)はぜんぶ空(実体が無い)」ということについての経(伝えるべきこと)。
オレっち、こんなふうに聞いたんだけどさぁ~。
あるとき薄伽梵(ブッダの尊称のひとつ)は、バラナシ(ガンジス河中流地域の南側)の近くのサールナート(鹿野苑)というところへ、昔の友人だった五人の比丘(出家修行者)に会いに行ったんだって。
……。
……悟りを開いてまだあんまり経ってないころのお話のようですね。
ブッダは、ネーランジャナ河(尼連禅那河)のほとりのブッダガヤーで、6年間の断食と、その後の瞑想修行の末、ついに悟りを開いてあらゆる苦しみを無くす方法を知ったとのことですが。
「あの世に逝きかけたほど努力してようやく悟れたけど、こんな難しいものを理解できる人が他にいるもんだろうか?」と疑問を感じてしまいまして。
自分だけでも苦痛がなくなったんだからもう満足しようかな~、とも思ったけど、いやいやそれでは不親切だからやっぱり誰かに教えてあげるべきだ、と考え直しました。
おっと、「世界の創造神であるブラフマー(梵天)さんがブッダを説得した」という説の方が有力ですけども、この物語で重要な要素ではないのでどっちでもいいです;
さてブッダはちょっと考えて思いつきました。
「そだ! ウドゥカ=ラーマプッタ先生(ウダッカ仙人)なら、悟りを開く寸前まで行った超人だから、コツさえ伝えればゼッタイ理解できる!」
ウダッカ仙人とは「非想非非想処(何も考えてないが、何も考えてないわけではなく、そのどちらでもあるわけでも、そのどちらでもないわけでもないという境地(????? 汗))」を研究していた瞑想家で、修行時代のブッダにとっては最後の先生であり、「空」を体感するための修行法を教えてくれた人でした。
んが、タッチの差で数日前に他界してしまっておりまして……惜しいことに、ごはんをよそってくれた美女の手がうっかり肌に触れてしまったのがきっかけで退転(迷いが生じて修行が無駄になる)し、そのことに悩み苦しみながら死んで畜生道に転生、大蛇だかドラゴンだかになってしまってしまった……という伝説が『大唐西域記』(西遊記で有名な玄奘三蔵法師・著)に記述されてます。
「むぅ~残念……。それじゃアーラーダ=カーラーマ先生(アララ仙人)ならどうだろうナ? シャマタ(止観、心の動きを完全に止める瞑想法)の達人だったから、よく説明して実際に試してもらえたらたぶん理解できそうだ」
アララ仙人は、ウダッカ仙人よりは1レベル下の境地だったけどやはり傑出した老瞑想家で、修行初心者のころのブッダに「無の境地」への入り方を教えてくれました。
アララ仙人が三昧(深い瞑想)に入ると止観、つまり心も五感も働きを止めてしまって完全に「無の境地」となり、すぐ横を数百台もの荷車が轟音とともに通り過ぎてもぜんぜん気がつかなかった、というほどの集中力でした。
しかしアララ仙人も、高齢だったためか一ヶ月ちかく前に亡くなっていたとわかりました。
「あらら……やっぱり人生とはうまくいかないもの、一切皆苦(すべてはけっきょく苦しい)なんだなぁ。あと可能性がありそうなのは、一緒に野外で何年も苦行した五人の友人たちくらいかぁ……彼らなら、少なくとも基礎はできてるから、丁寧に教えて段階的に実行してもらったらあるいは理解できるんじゃないかナ……できるといいナ……」
だんだん自信がなくなってきたようではありますが(汗)。
この五人の比丘は、まだサールナート(鹿野苑)という森林地域で元気に修行してることがわかりましたので、ブッダは会いに行ったというわけでした。(その道中でのできごとは省略スマ;)
五人の比丘たち、最初は「このやろう何しにきやがった、修行に挫折した脱落者のくせに」と冷たい反応だったのですが、やがてブッダの話を聞いてくれるようになりまして。
ブッダは彼らに、悟りの概念とそれを得るための方法を、なんとか言葉で説明できるよう
「四諦(4段階の悟り)」
「八正道(悟るための方法論)」
「十二因縁(苦しみの発生とそこからの解脱の理屈)」
etc,etc,といったような理論に整理して、何日もかけて説明しました。
五人が、ブッダの提案したやり方で修行してみたところ、アーニャ=コンダンニャ(阿若憍陳如)を最初に、一人また一人と悟りを開いていきまして。やがて全員がアルハン(阿羅漢または応供、供養を受ける資格のある者=完全に悟りを開いてしまったお坊さん)となったわけであります。
そうして自信を得たブッダは、悟るための修行法やその概念をいろいろな人に教えるようになり、後にそれが仏教とよばれる宗教に発達していく第一歩となったのでした。
この事件は「初転法輪」と呼ばれてます。「法輪を転わす」とは「ブッダが教えを説明する」という意味で、その第一回目だから「初・転法輪」。
ともあれ、このお経で語られているのは彼ら五人がまだ阿羅漢となる前、ブッダから悟りの開き方のレクチャーを受ける「初転法輪」のなかの一シーンであります。
さて、お経の内容に戻りまして。
そのときブッダは五人に向かってこう言ったんだとさ。
「なあみんな。色(存在するもの)には我(本質)なんか無いンだぜ? もし我があった(本質が永遠に固定されてた)としたら、人は、病気に罹ったり苦悩を受けたり(して死)するわけがない。いつまでも生きてたくても、逆にとっくに死んじまってていたくても、どちらも望んだとおりにはならないというわけだ。
「これでわかるよね、色には我なんかないンだってことが。
「存在を感知した結果としての 受想行識(感知⇒思考⇒行動⇒記憶、という人の行動全般)も、おんなじだヨ」
「ここで比丘のみなさんにクイズです。色は常(永遠なもの)でしょうか、無常(壊れるもの)でしょうか?」
比丘A「そんなもん、無常に決ってますがな」
ソクラテス先生も「形あるものは壊れる」と言ったとか聞きますが、洋の東西を問わず、哲学的思考の結論はここへ行きつくようであります、、、
ブッダは続けた。
「色は無常と決ってる、それはつまり『苦しい』ってことだよネ。存在してるだけでも苦しいし、壊れても苦しい。よって、その一方から他方に変わってもやっぱり苦しいってわけだ。
「てわけで、よく聞いてくれ、私の教えを受ける弟子のみなさん。
「存在に本質なんかないとすると……、存在は本質だとか、本質が存在を形作ってるとか、存在は存在に従ってるとか、存在の中に本質があるとか、そういうこと言えるかな?」
比丘B「うーん、言えませんな~」
「存在に対する受想行識が常か無常かについてもまたおんなじなのサ♪」
つまり五蘊(目耳鼻口肌)で感じた存在は、一時だけの感覚であって永遠の感覚じゃないから、その知覚によって確認された対象も一時の存在であって永遠の存在じゃない、ということでしょうか???
「およそ色(存在)は、過去でも未来でも現在でも、内でも外でも、大きく見ても細かく見ても、優れてても劣ってても、遠くても近くても、みーんな、無我(本質なんか無い)なんだヨ。
「理解しなきゃダメだ……みんなの受想行識でも正しい『智慧』でもって観察すれば、過去でも未来でも現在でも正しく観察できるってことを。」
「もし私の弟子のみなさんがこの『五取蘊』という観(そういう考え方を強くイメージする瞑想修行)をしたなら、『自分がいると感じてるからといっても必ず自分が存在するとは限らないない』ということを実感できるンだ。
「そしてこの修行を完成すると、『世界には自分のものにできるものなんか何もなく、あらゆるものは変転してどんどん変わっていくものなんだ』とよくわかるようになるヨ。」
「こうわかると、悟りを開いて涅槃を実現したいなら生きてる間に梵行(きよらかな生活)を全うしなきゃならないことをよーく理解できるわけ。そうやって修行を全うすれば、もう自分が存在することが原因での苦しみや悩みなんてぜ~んぶ無くなるんだゼィ♪」
こういう説明を受けたことがきっかけで、五人の比丘はついに煩悩(悩みや欲望や迷い)から解脱する(解き放たれる)ことができて、その後もブッダの教えを信じて行うことにしたんだとさ。
ブッダの説いた「五蘊はぜんぶ空」についての経、おしまいっ☆
おわかりいただけただろうか、みなさん?
……ちなみに私はイマイチわかってません;
orz