行方
夜。
背中には抱えきれない荷物を背負っている。背骨が曲がりそうになるのを堪えて、ただ前だけを見据えてきた。
先日から続く雨に愚痴を零しながら走り去る男の背中を、白い眼差しで見送った。
足は少しずつ軽くなりつつある。
そのうち背中の荷も降ろせるだろう。
交差点。
叩きつける雨音に断末魔をかき消された、四足の機獣が交差点で紅々と灼けている。
その溶解しつつある身体の側面から、滑稽な舞を披露する人影が見えた。
何をするでもなく、暫くの間その人影の踊りを見つめる。
熱した機獣に零れ落ちた雨粒が音を立てて霧散する。バタバタと短い手足を振り回して、顔の無い人形が走り回っている。
あぁ―――恐らくアレは要人だろう。似合わぬ黒服に身を包んだヒトガタが騒いでいた。
これ以上ここにいる必要も無い。再び足を進めるとしよう。
喧騒は遠く背後に離れていく。
その死にゆく機獣に向けて。
「やぁ、気分はどうだい?」
そんな言葉を残しながら。
川。
いつしか雨は上がっていた。
黒雲の残る空に抱かれた月が、川のせせらぎに揺れている。
例えば草。例えば石。例えば魚。
水は淡々と流れ続け、その流れを妨げるモノに当たっては流れを変えていく。
そんな水に、自分を思い描いた。
思い返せば、ただ流されるだけの人生だったと自嘲する。
抗いを避け、争いを拒み、栄光を無視して。
それはきっと詰まらない人生だったのだろう。
川原に生い茂った草が早く行けと脚をくすぐった。
雨に濡れ、冷えた体は軽かった。
もう随分と荷物を棄ててきたのだと実感した。
残り僅かな散歩道。
踏み出す脚が草の雫を抱いていた。
空。
雲を抜けると光があった。
果てなく続く闇の先に、幾万の星々が煌めいている。
いつだったろうか、流れる星に架けた願いの欠片を思い出した。
あの頃の自分が今の自分を見たら、きっと馬鹿だと一蹴するだろう。
白い絶望を抱いてきた。
淡い不幸に焦がれていた。
そんな事も分からなかったのかと、過去の自分を否定する。
この空に焦がれ、何もかもを投げ出して飛べていたなら、今よりも星は近かっただろうか。
歩いてきた線路は誰かが歩いたもので。
その道程を進むことが出来るなどと考えた自分こそが愚かだったと悟れなかった。
簡単な話、自分は若すぎたのだ。
未だ星は遠く、近い月すら届かない。
そんな夢を見て、空の下へと落下した。
そして、今。
焦ることは無い。慌てることは無い。
なんて事無い一件で世界は回る。
今だってそうだろう。
直ぐ目の前。一人の男が死んでいる。
隣人は叫び、大家は電話に向かって怒鳴り散らし、向かいの犬は吠え立てる。
何処にでもある、昔から繰り返されてきた光景。
そんな光景に息を飲んだ。
濁りきった世界にも、まだ救いはあるのかと。
澱みきった日常にも、まだ光は差すのかと。
ただ―――些か気付くのに遅れたらしい。
背中の荷物はすっかり無くなっていて、染み込んだ水滴は空に置いてきた。
終わりだと思った長い散歩は、まだまだ終わりが無いようだ。
先は長い。
軽い足取りで慣れ親しんだ我が家を後にする。
息を深く吸った。
歩き出したその足音は、もう響かなかった。
彼の行方は、誰も知らない。