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雨雲

作者: 黒鳥茜

点々とそびえて天を頂く樹木の群れ、まだ若い森。

その内の一本の影の根元で、少し強ばった小綺麗なカラスが、眠気を押し殺した薄気味悪い雰囲気の獣に向かって何やら語りかけている。その口調にはどんな感情も含まれていない。

伝言だ。何だか重苦しい言葉が獣に投げ掛けられているようだが、それは重い物の場合と同じように受け取るのが非常に疲れる。

「――それで?」

それで、とさっきから何回言っただろう?元はと言えば今私に話しているカラスではなく、彼に長たらしい伝言を頼んだ彼女のせいなのだが。ただ聞いているだけで大した量の言葉を発していないのにもかかわらず、私は少し咳き込んだ。

「それで最後に、『あなたは私と結ばれる運命なんだよ』と」

私が彼女からの伝言をカラスから聞いている間ずっと、私の前足の甲に動かずに居た何かが、最後まで聞き終えると同時に怯えたような羽音を発して飛び立っていった。

それはカメムシだった。いつの間にか何かが留まっていたのには気付いていたのだが、そのものとの一時の我慢強い相互関係を保持することがカラスの、いや彼女の言葉を聞き終えるためには必要なように感じられたので、あえて最中に払いのけはしなかった。

「それで、やっと終わりかい」

「ええ、お疲れ様です」

聞いている方も疲れるが、伝える方はなおのことだろう。しかし私の予想に反してカラスが緊張を崩さなかったので、労いを返し忘れた。

「確かに伝えましたよ。では」

それだけ付け加えると、カラスは獣の返事も待たずに落ち着きもなく飛び去った。


充分に距離をとってから、ちらと振り返って見る。実はカラスは、今や眼下になったあの不気味な獣を恐れていたのだった。あれはいつどこにいるのを見かけても空虚に佇んでいる。昔の記憶にあれの姿は思い出せず、気付けばいつの間にかこの一帯に現れて空気を変容させていた。あれには何度か助けられてはいるが、どうにも肌に合わない。

いや、あれだけではなく伝言元の獣の方だって、強迫的で、素知らぬ振りをして他の存在を脅かすような恐ろしさがある。私はさっきまでそのそれぞれ恐ろしい両者の間に与して、関係を取り持って繋げていたということだ。これまでにその郵便状態ほど恐ろしいことはなかったし、これからもないだろう。しかしこれでようやく無関係だ!

「なんて素晴らしい自由な空!自由な飛行!」


獣がカラスの飛び去ったのに気付いたのは、居なくなってからしばらく経った後――運命という言葉に触発されて自分自身の生涯を思い出していたせいだ。

私は何をするつもりだったんだか、実際、何をしていたんだったか。

私と彼女が運命というものによって既に結びつけられているのだという彼女の告白によって、私の生きた過去がどのようなものだったとしても結局運命という0で同一になるのではないか、無化されるのではないか、私が何をしてもしなくても意味など無かったのではないかという不安に襲われた。動揺して思わず、不在のカラスの残響する最後の言葉に一応返事を返す形でひとりごちた。

「ああ、確かに」

労いだけではなく感謝の言葉も言いそびれてしまったが、彼には貸しが色々とあったので、まあいいだろう。

そもそも、なぜ彼女はカラスに伝言など頼んだのだろうか?カラスの記憶能力は非常に優れているらしいので、伝言自体には問題はないと思うが、しかしそんな回りくどい方法ではなく直接に伝えに来ればいいのに。面倒を予感しておもむろに顔を上げると、風に揺られた葉と葉の隙間から一瞬だけ光が射す。夜目の私を眩ませるにはそれでも充分過ぎるくらいだ。

近頃は疲れを知らない太陽のやつが頑張っていて、今日の日は特に張り切って輝いている。木陰にいても熱風が毛の内側へべっとりとまとわりついて、吐き出す息は炎のようだ。ふと空の向こう側を見ると、雲が準備をしていた。あれは雨を降らす雲だろうな。うん、と自答した。

そういえば、私はどうやって彼女に返事を返せばいいのだろうか。できればここから動きたくはないし、私もカラスにでも頼もうかな。でも配達屋を探して用件を伝えることすらも億劫だなあ。

そうだ、風の便りというのも悪くはないのかもしれない。どのようなことが伝わるのか、またそれはどのように伝わるのか、全ては風の気まぐれだが、直接の返事と比べてもそれほど違いがあるようには思えない。どのように伝わるのかというのは結局は私に属する問題ではないし、それに、私自身まだ返事と呼べる返事を持ち合わせていないのだから、風に任せてしまえば気が楽というものだ。風が微妙に震えたような気がした。

まだ、というと、まるでいつかはそのようなものを持ち得るかのようであるが、実際には、未だ何も持ち合わせないまま、持ってもいないものを返す必要に迫られるのだろう。そんなことを考えているのか考えていないのか、よく分からないが、獣はいつの間にかまどろんでいた。

「うん」

獣は何かに応えるようにそう呟いた。話が一切耳に入っていないのに返事だけは元気な、無邪気な子供のような寝言だった。それからは穏やかで、時折寝返りを打つ程度。無防備にも身体を開け広げにしている、このままだと腹を冷やすのだが......。

獣は夢を見ていた。過去の再現――しかし、それは実際に生きた世界ではなく、定められた運命によって想起の制約から解き放たれた獣が、物事の因果や繋がりの順序の前後関係とは逆方向に勝手に想像した物語の中であった。



どれほど経っただろうか、と問うまでもないほどの慎ましく微かな眠りだった。獣は、実際の睡眠時間を、夢の世界という形で膨大に引き延ばし、物語の生活を楽しんでいた。

「あれ、こんなところにいたんだ」

少女のような声が聞こえて光の中に引き戻された。私は眠っていたらしい。はて、目が閉じてしまう前には何があったんだったか。獣の視野は一時的に想像から追い出され空中に居場所を借りた。ううん、ええと、誰かから何かを聞いていたような......ああ、そうだ、カラスの伝言だ――あ、いや、カラスではなく、正確には彼女からの伝言だ、ああ、確かにそうだった。そして――

「ああ、確かに」

目の前にいるのは確かにあの伝言の彼女である。風のやつは変に気が利くようで、彼女が現れた途端に戯れるのを止め、居たたまれない風に吹き抜けて行ってしまった。

「別に会おうと思ってた訳じゃないんだけど、その辺を散歩してたら偶然見かけたからさ。それにしてもひどくない?確かに、って随分なお返しだね」

「今ので返したつもりじゃないよ」

暑さで気が遠くなって、つい口に出してしまっただけさ。

さあ何と返そうか、何と返すべきか。彼女は実際に私よりかは幾分か若い上に、身体が小さいのでとても幼く見える。白地に所々灰色が混じった短毛で、尾は程よく太くて長く、耳は恥ずかしげに尖り、瞳は緑色に澄んでいて爽やかな感じだ。このように彼女をじろじろと観察するのは、彼女のことを理解した気になるためでも、ましてや捕って食うためでもない。彼女への返事を考える助けとなる情報が欲しかったのだ。しかしあまり参考にはならなかった。

「今日もひどく暑いね」

「すごいよねー、私もあんまり暑いからじっとしてようかと思ってたんだけど、こうして出会えたから正解だったね」

「ああ、確かに」

「もう、さっきから何なのそれ」

軽い調子の幼い獣は、しかし一々言動に重さを伴っていた。なるほど、カラスの恐怖も理解できる。そして真の返事には非常な緊張を要する。何と応えるべきか、何を返すべきか。私が私をして何かしらを奪わせたのではないと思うのだが、私への一方的な押しつけや投げかけだとしてもいつの間にか受け取ってしまっていて、いつかは何らかの形で、それもできるだけ忠実に返さなければならないのだ、期待を曇らせないように。

「あの、そういえば、カラスさんから、アレ、もう聞いたのかな?」

返事は求められる。

「ああ、確かに」

「それじゃあ、伝わってはいるんだよね?」

「ああ、確かに」

彼女の目が細まる。少し不機嫌そうだ。

「じゃなくて、私は返事が欲しいの」

「ああ、確かに」

確かに私は全く返事と呼びうるものを返してはいない。それだけは確か、確かだ。

「ああ――」、私は追い詰められている、可哀想に。

「もしかしてふざけてるの?それとも、返事の必要もないくらいに解りきってるって、そういうこと?」

声は決して大きくないものの、稲妻が相手を間違えて私の元に落ちてきたのではないかと思うくらいの迫力だ。しかし、実際の稲妻に相応の実りは得られそうもない。獣はもう一方の獣の重さのせいで身動きが取れなくなっていた。

「ああ――」

ああ、何と返す?私は彼女に返しうるものを持っていただろうか?私は今確かに朦朧としている、彼女の姿も曖昧にしか認められない。しかし"それ"だけは鮮明に見てとることができた――夜のごとき陰り、雲だ。陽を遮った後には大抵雨を降らす。雨を降らさずに消えるものもあるにはあるのだが、今はっきりと見えているやつは必ずやらかすだろう。準備も万端なようだからな。

私の身体の表面はまだ熱にまとわりつかれているが、内側には寒気が渦巻き始めていた。これより雨に打たれたならば、私はもはや生きていられないかもしれない。大げさだろうか?このほこりまみれの長い毛が濡れぬうちになんでも良いから返してしまって――なんでもとはよくいったものだが、さて何を?――雨にまみえるのはまた今度、と気楽にいこうか。それとも、たとえこの身果ててでも返すべきものを返そう!と固く決意を結ぶか。さあ、どうする。とにかく、とりあえずの返事を返すことにしよう。

「ごめん、君とはまだ一緒になれそうもないよ」

獣がそう絞り出すと、もう一方の獣は喜び、というよりも安堵の表情を浮かべた。

「"まだ"?"まだ"って、いつかは受け入れてくれるって、そういうことだよね?」

何だと?私は、今"まだ"と、確かにそう言ったのか?

「確かにそう言った――」

「嬉しい!」

つい漏れてしまった私の言葉の断片を遮ってそう叫ぶと、彼女は待ちかねて思わずといった感じで私の汚れた平らな胸に飛び込んできた。幼いながら思っていたより重く息苦しい。2匹から少し離れてみると、美しく静止する都合の良い風景の中の微笑ましい戯れに見える。

「さっきは暑いなんて言ったけれど、君の体は随分冷えているね」

彼女は私の擦り切れた声は気にも留めず、その身体には付随するであろう様々な重みというものの表現を、全て体重に委せたようにうきうきしながら、

「え?相変わらず暑いまんまだよ、水浴びでもしたいくらい。雨でも降らないかなあ?あなたの体は暖かくて気持ちいいけどね」と応えた。

彼女は何を言っているんだ?私の身体の内は相変わらず寒気を帯びたままだ、体温だけが冬を迎えているのではないかと思うくらいに。私を凍えさせる彼女の、自分の顔を私の胸に擦り付ける様は、私などが他の者に対して行うそれとはどこか雰囲気が違っていて、生存と産卵のために生命を懸けている虫のようだった。むしろ虫よりも虫らしく見える気がする。私の心の内を読んだのか、生物らしさを装うように彼女は顔を上げた。

「あれ?あなたの体よく見たらすごい汚れてるよ?私が綺麗にしてあげるね」

「いや、いいよ、自分で――」

「そんなこと言わないで、ね?」

そうして彼女は、私の身体の埃を躊躇無く舐めとりだした。――ああ、なんてことだ、私は何もしていない、していないが、しかしその何もしていないことこそが問題なのだ!彼女が私の身体に近づいてその汚れているのを見て、それでも少しも気後れせずにさらには毛繕いまで始めたこと、また、つまりは非常に消極的にではあるが私が彼女を汚しているということ、また、つまりは今の私が私に対してしてやれる唯一ともいえる慈しみたる毛繕いを、彼女が代わりにしてしまうことで彼女が私を汚しているということ、そして、それらの事態に直面してなお私が何も反応をできないでいるということ、この全てのことが私を私に向かって憤らせた。私はすぐにでも彼女から離れるべきだ、そうだろう?いや、その前に彼女を私から引き離さなければならないか。そうしてすぐ逃げよう。私はこのままここで彼女にまっさらにされて、あの雲が降らす雨によって命を焼き尽くされなければならない、なんて法はないんだ。いや、雲は別に悪くないのだが――(そもそもどうして私は彼女に抱きつかれてなどいるのだ?);「返事を返したからだ」(ではなぜ私は返事など返したのだ?);「返さなければ、今でさえ粗末に木陰で転がっているお前の存在など消え去っていただろう」――、私が彼女のされるがままにしていると、雲を彼女の共犯に仕立てあげてしまうということだ。ん?ちょっと待て。今、私は確かに重大な言葉を投げかけられたような気がする――粗末に...転がっている?しかし、身動きの取れない私はそれを受け取り損ね、言葉は大地の下の方へと染み込んでいってしまった。まあ、よく考えてみれば重大なことなどそうありはしないのだ。今の私が大事にしなければならないのは私自身だ。そのためにも、さっさと"こいつ"を――おっと、彼女をどかさなきゃな。

「わあ、あなたの足からなんか良い匂いがするよ!これカメムシかな?」

いまや私は彼女と何の関係も無かった。私が私にしてやりたいことを彼女は奪っていく。その匂いだって、あとで不意に私に匂わせて驚かせてやりたかったのに。返してくれ――毛繕いを、埃を、匂いを、驚きを!思えば私は最初から彼女に対して遠慮などしていなかった――恐れていただけだ。ずっと上の空で、雲ばかり気にしていた――あの我慢強い緊張の雲を。私は賭けに出ることにした。私の身体をまさぐっているやつを最後の力で思いきりはねのけ、昼とも夕とも判らない雲の陰の下へと飛び出した。私が私を信じてやるのと同じように、今だけはあの雲を信じている。

「ちょっと待ってよ!こんなのってないよ!あなた、私を受け入れてくれるって、そう言ったじゃない!」

後ろは振り向かない。振り向けば、今でさえ粗末に雲の陰の下で転がっている私の存在など消え去るだろう。――雨!わずかにではあるが、ぽつぽつと私の身体を打っていた。私の視界は、降りだした雨によって、また身体の限界によっても切り裂かれ始めた。獣はボロボロだった。胸にはまだ埃が溢れていた。こんなはずではなかった。雨は獣を癒しつつも、古傷をえぐった。かつては、こんなはずではなかったのだ。しかしまだ希望は失われていない――走れよ獣、せめて瞬間、汝の時を取り戻せ。

「あっ、雨!まるであなたと私の運命を祝っているみたい!」

もう沢山だ!私は何もいらない、受け取らない!そして何も返さない!雨は何も祝ってなどいないし、私とお前には何の関係もない!

これから遂に私は、私に永遠の平穏を与えてやれるのだ。哀れな私へ、生涯で唯一のプレゼントだ。雲よ、お前を信じている、だから白き陽よりも先に、その雨でもって私をたったひとりにしてくれ――たった独りだ!あいつの、彼女のうわずった叫び声が遠くなっていく。雨はますます強く包み込む。私が最後に前足で鼻を擦ってやると、私はその前足から香る天上のごとき匂いに心底酔いしれているようだった。よかったなあ。

私の視界はもはや完全に砕け散った。ふらつきながらどうにか走り続ける私に、大地は寝床の穴を用意してくれていたようだ。別れだ。まるでそうなるのが当然のことであるかのように、私は穴の闇の中に簡単に紛れていき、最も暗い方へと落ち込んだ。ありがとう、雲よ、大地よ、感謝してもしきれない。彼らへの報いとして私が返せるものなど何もないのに――「お前には確かに何もない、だがそれで良いのだ」「お前が何も返さないこと、それこそが一番の報いなのだ」「お前は何も返してはならない、ただ受け取れ、汚れなき平穏なる真の眠りを」ああ、ありがとう、私よ。私が私の慈しみの言葉に涙し、既に意味をなしていなかった目をようやく閉じると、滑り落ちてくる水泥が私を覆い隠してくれた。もう何も聞こえず、聞かずに済むのだった――おやすみ。

獣は、別れ際にかつての実際の身体の動きが蘇ったのか、土の中でしばらく前足と肩をびくびくと痙攣させていたが、やがて安らかになった。よく頑張った、名も失き獣よ。グッバイ――おかえり――おやすみ。

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