第二章 御前演舞 1.男ってなぜか知らないけど修業って言葉に憧れる
翌日。
暖かな春の斜光が窓から射し込む朝、目を開けるとアリス様がこちらを向いてすぅすぅと気持ち良さそうな寝息を立てていた。
白磁のように白く美しい長髪が彼女の顔にかかっている。
雪のごとく白い肌や鼻孔をくすぐる彼女の甘い香りが僕の脳を痺れさせ正気を奪っていく。
少し目線を下げればネグリジェの肩ひもが外れているのが目に入り、なにかいけない気分になった僕は慌てて飛び起きた。
時計を見る。時刻は六時前だった。
「よし、枕が変わってもちゃんと起きれた」
独り言を呟いて、僕はせっせと朝の特訓の支度を始めた。
ちなみに僕の荷持は、昨日アリス様と屋敷中をウロウロしている間にエイナさんがクローゼットやらなんやらに片付けておいてくれていた。
お礼に何かしようと提案した所、
『はぁ……はぁ……っ、それではお嬢様のおぱんつをお舐めさせて戴きたく……』
とかなんとか言っていたので、無視したのだったか。
支度を終えた僕は朝の特訓へと出掛けた。
☆ ☆ ☆
ノルマの十キロ走、腹筋二百回、背筋二百回、腕立て伏せ二百回、剣の素振り五百回を済ませた所で、ネグリジェ姿のアリス様が庭へやってきた。
「おはよぉ……」
「おはようございます」
ふわと欠伸をしながら体をぐぐぐと伸ばすアリス様。その格好と言い、無防備におへそを見せる態度と言い、彼女はまだ寝ぼけているようだった。こんな所をエイナさんに見られたら犯されてしまいそうだ。
しかしアリス様は、僕のそんな心配もよそに、マイペースに話を進めていってしまう。
「それにしてもお前は本当にストイックね。どうせこの後『血剣王』に修行をつけてもらえるんだから良いんじゃないの?」
「そういう訳にもいきませんよ。せっかくリュージさんに剣を見てもらえるんです。筋トレや基礎体力作りは自分で済ませておかないと、無駄に時間を取られかねませんしね」
「ふふふ、ホントお前って馬鹿ね」
ころころと楽しそうに笑顔を綻ばせるアリス様。
「もう全部メニューは終わったの?」
「はい。おかげで体がくたくたですよ」
「なら丁度よかったわ。朝食が出来たから一緒に行くわよ」
「ホントですか? 急ぎましょう。死にそうです」
僕の言葉にアリス様がやれやれと息を吐いて歩き出そうとした。だがその瞬間、彼女はふらりとその体をよろめかせてしまった。突然の出来事だったが、僕はとっさに腕を差し出して彼女を受け止めることに成功する。
「あの、アリス様?」
すると当然、僕とアリス様は体を密着させるような状況になってしまう。
静寂が耳に痛い。顔を下に向けるが、アリス様の表情は窺い知れない。けれど耳が真っ赤になっていることから、彼女が心底恥ずかしい思いをしているだろうことは容易に想像がついた。
「あ、アリス様、離れましょう」
するとアリス様は、少しぶすっとした表情で僕から顔を離し、そっぽを向いて歩いて行ってしまった。
「あ、ちょっアリス様? なんで怒ってるんですか?」
「怒ってない! 馬鹿! 死ね!」
「死ねッ?」
本当に怒ってしまったのか、アリス様は食事にもやってこなかった。
☆ ☆ ☆
朝食を終え自室(アリス様と同室)でくつろいでいると、けろっとした表情でアリス様が帰ってきた。
「あれ、ここにいたの?」
「え、まあ」
微塵も怒っている様子もないアリス様に疑問に覚える。さっきはあんなに怒っていたような気がするのだが……。
僕は気になってしまいアリス様に尋ねることにした。
「ていうかアリス様怒ってないんですか?」
「は? なにが?」
「え、いや。さっきめっちゃ怒ってたじゃないですか」
「いつよ」
「ほら、倒れかけたアリス様を抱きとめたとき」
僕がそれを口にすると、彼女は相変わらずの赤面癖を発揮して――しかし、今度は動揺しなかった。
彼女はふんと鼻を鳴らすと、赤くなった顔をついと僕から背けて、
「べ、別に怒ってたわけじゃないわ。あれは、えっと、その……そう! 試したのよ! お前が、突然よろめいたアタシをちゃんと受け止められるかどうか、アタシが直々にテストしてやっただけよ」
どうやら本当のことは教えてくれないらしい。
もっとも、話したくないことならば無理に聞こうとは思わないので、僕は適当に流しておいた。
「それでアリス様、『血剣王』はいつぐらいに来るんでしょうか?」
「いつもは午後一時なんだけど、今日は九時よ。午後から買い物に行くから、それに付き合ってもらわないと行けないからね」
「なるほど。デートですね」
「ち、違う‼ デートじゃない! ただの荷物持ち‼」
「分かってますよ……そんなに否定しなくても……」
しかしアリス様は僕の言葉を無視して部屋の外へと押しやった。バタンと勢い良く扉を閉められて、僕は彼女が着替え終えるのを待つ。
やがて扉が開けられて再び中へ。
今日も平素と同じく純白のドレスをその華奢な体に纏っていた。
「さて、それじゃあ血剣王が来るまでの間なにする?」
「トレ――」
「お前馬鹿じゃないの?」
底冷えした目で見られてしまった。
「いやでも、ここ三年くらいはずっと一人で暮らしてましたし、家で一人暇な時はいつもトレーニングしてたので」
「…………」
アリス様は困ったようにこめかみに人差し指を当て、小さくため息を吐いた。
「だとしてもよ。普通、女の子と一緒の部屋にいときながら一人で筋トレする?」
「しない……ですね」
「でしょう」
「だからってなにするんですか」
「…………しりとり」
「ダメですアリス様! 会話のネタがなくなったからってそこへ逃げるのは甘えです!」
「う、うるさいわね変態! だいたい、女の子の前で筋トレしようとするのに比べたら数倍ましよ!」
「誰が変態ですか! ちょっといつもの癖が出ただけじゃないですかっ!」
「いいや違うわね。お前はきっと真性の変態よ」
「真性の変態ッ?」
「考えてもみなさいよ。女の子がベッドでのんびりしている横で、半裸の男が腕立て伏せをしている光景を見たら、お前はどう思う?」
僕はその光景を夢想し、一拍置いてから、
「……変態ですね」
そんなこんなで二人してベッドに腰掛けて無駄話を続けていると、気付けば時刻は九時前となっていた。
僕は立ち上がるとアリス様と共に部屋を出て、あの庭へ向かった。
☆ ☆ ☆
「おはよう。リオン君」
庭には既に『血剣王』リュージ・ミヤモト——倭の国の言葉では『宮本竜司』というらしい——がすでに剣を構えて待っていた。
「すいません、お待たせしました」
「いや、良い。私もいま来たところだ。見たところもうすでにウォーミングアップは済ませているらしいし、すぐにでも始めるとしよう」
「はい!」
返事をするなり腰に引っさげていた直剣を抜き、半身になって構えた。アリス様を手で後ろへ後退させると、
「じゃあ、行きます!」
地を蹴って一直線に『血剣王』の間合いへと飛び込んでいった。
☆ ☆ ☆
野太刀の間合いに入った瞬間、ゾワリと総身を駆け巡る悪寒があった。リュージさんの殺気だ。
僕が生来より持つ能力『人心断聞』の効果によってそれを感じ取ったのだ。殺意、害意、敵意、悪意——そう言った、衝動にも似た突発的な悪感情を断片的に感じ取る能力だ。
方向は——右斜め上からの袈裟懸け。
『血剣王』の一閃は速い。おそらく並の騎士ではその軌跡を追うことすら出来ぬほどに。
しかし僕は違う。
すでに能力によって斬撃がやって来る方向と威力が分かっているのならば対処は容易だ。
予聞した通り右斜め上からの袈裟懸けが凄まじい速度で放たれた。僕はその一閃に対し、剣を斜めに倒して受け流す。斬撃に込められた力は、斜面を滑る滑車がごとくその力を剣と平行方向へと逃がされ、それにより『血剣王』の体勢が崩れた。
「ほう」
僕のこの一手に対し、『血剣王』が何かに納得したかのように息を吐く。僕はそれに構わずさらに一歩踏み込み、彼を間合いに納めると横一線のフルスイング。右から左へ掛けて『剣客』の胴を真っ二つにする軌道だ。
入った——そんな淡い期待を、『人心断聞』による警告が簡単に裏切った。
視界の端で、受け流され地面へ投じられたはずの野太刀が勢い良く跳ね上がり、凄まじい速度でもって逆袈裟の軌道で僕へと迫ったのだ。
「く――っ!」
僕は『血剣王』の胴へ振るいかけていた剣へ込める力を変じる。僅かに下へ。体を捻るようにして軌道を無理矢理変え、剣客の刀を受ける。
だが、ただ受けるだけではダメだ。おそらくこのまま真正面から受けても力負けするか、直剣をバターのように斬り裂かれるのがオチだろう。ゆえに僕は後方へ跳び、衝突により生じる運動量を意図的に小さくした。
鉄と鉄が衝突する音が僕の耳朶を打つ。
僕の体はそのまま二メートルほど宙を浮く。空中で上手く制動を取って着地に成功。息つく暇もなく突進した。
「いい調子だ。では次は、アリス嬢から授かった能力も交えて私を翻弄してみろ」
「――――ッ!」
言われた通り、アリス様から貰った『屈光折』の使用準備へ入る。
能力を貰った初日こそ大した変化をもたらすことが出来なかったものの、今ではある程度まで能力を使いこなせるようになった。
『剣客』の間合いまであと一歩。そこで僕は、全神経を研ぎ澄ませて『光屈折』を発動。
瞬間。
僕と『血剣王』を挟む空間がぐにゃりと歪んだ。
鋭い刺突を放とうと構えていた『剣客』の顔に驚きの色が混じる。
——それでいい。
僕は小さく笑ってその空間の歪みを迷うことなく正面から突破した。
「ちっ」
『血剣王』は小さな舌打ちと共に、歪んだ景色の向こうにいる僕へと向けて刺突を放つ。陽光を受けた刀身が輝き、一条の光線となった突きが僕の喉を貫いた。
けれど。
その『リオン=クローゼ』は『幻』だ。
空間の歪みにより僕の身体は僅かにずれた位置に存在している。
揺らぐ空間を突き破り、僕は『剣客』を己の間合いへと納めた。
「ふ――っ!」
短い呼気と共に直剣を右下から跳ね上げて『血剣王』を逆袈裟に断ち切ろうとした所で――、
うなじがゾワリと粟立った。
この、感覚は……っ。
しかし己が身に迫る危機に気が付いた時にはすでに遅く――、
僕の首筋に衝撃が迸った。
☆ ☆ ☆
僕の右手からするりと直剣が滑り落ち、甲高い音を立てて地面に転がった。僕自身の意識もまた一瞬だけ刈り取られ、気が付いた時には地面がもうすぐそこまで来ていた。
派手な音を立てて地面を転がるも、受け身を取って重傷を避ける。しかし、もう一度体勢を立て直そうと足に力を込めたところで両足からふっと力が抜け、まるで意図の切れた操り人形のように地面に倒れ込んでしまった。
「さて、今の短いやり取りの間に分かったことがいくつかある」
地面でうぞうぞと蠢く僕を視界に収めながらも、『血剣王』の瞳の中には僅かほどの慈悲や心配の色はなかった。
「まず一つ。君は私と同じく『攻め』でなく『受け』を主体にした戦いを好む傾向があるように見える。これはおそらく君の『人心断聞』による影響が強いのだろう。もっとも、私は君のその戦い方を否定はしない」
剣客は野太刀の峰をそっとなぞると、鞘に収めた。僕の首が落ちていないところを見ると、どうやら交差の際の衝撃は峰打ちによるものだったらしい。例えば今の攻防が実際の戦いで起きたものだとすれば、僕はもうこの世にはいないだろう。
「だが、あまりに能力に頼り過ぎている。本来ならば独力で為し得られる程度のことを能力に頼ってしまっているがために、君の能力と剣技が、いつまでそこから経っても向上しない」
「…………っ」
歯噛みする僕を無視して、僕の師匠はなお続ける。
「だが、君の『受け』——ひいてはその『流す』技術は特筆するものがある。事実、二合目は君の直剣を真っ二つに断ち切るつもりで振るったはずだったが、結果は今の通り君を間合いの外に押しやるにとどまった」
僕は落ちていた直剣を拾い、その刀身を指でなぞってみた。どこにも傷はなく、ほぼ完全に運動量をゼロにできたことが分かる。
「次に第八王女から授かったという『光屈折』についてだが、こちらも先に『人心断聞』で述べたのと同様だ。能力の効果に頼り過ぎている。ただ闇雲に能力の効果を放つだけではそこらの猿と変わらんぞ。どのように使うのか、あるいはどこで発動するのか、そう言ったことを考えるのだな。例えば——」
リュージさんが体をゆらりと揺らす。
すると——。
昨日と同様、いつの間にか僕の首筋に刃が添えられていた。
「このように特殊な歩法と併用して使うことが出来れば、空間を揺らめかせる程度の効力であろうと大きな武器になる。もっとも、この能力に関してはもっと使い道があるように感じるが……リオン君、君の魔力制御力はどの程度だ?」
「それなりに高いです」
「そうか、ならばそこから鍛え直すのが得策であろうな。何にしても、扱える魔力は多い方が絶対に有利なのだからな」
☆ ☆ ☆
僕の魔力制御の修行に当たって、リュージさんは『超能力』に関する説明を行った。
「あまり重要でないため詳細は省くが、簡単に説明する。だがその前に、『魔術』についての説明がいるな。『十五人の魔術師』についてどこまで知っている?」
十五人の魔術師——その言葉を知らない人間はこの世にいないだろう。おおよそ五十年前、大陸に突如として現れた十五人の原初の異能者達。
「そうだ。そして彼らにはそれぞれ得意とする……というよりも司る魔術が存在する」
「司る……?」
「そうだ。例えば、ここリアルタ王国の暗部……国王直轄の暗殺部隊『影核』の総隊長、通称『老艶』は『永病の魔術師』と呼ばれあらゆる病を操る力を持っているし、リアルタ王国との間に火種が存在する隣国・サルファ帝国の参謀は『錬金術』を操る魔術を扱う。いずれにせよ、その力の強大さは以上と言えよう。なにせ、この世界の歯車から外れた存在であるのだから」
立っているのもなんだ、ということでリュージさんが僕に座るよう促してきた。それに甘えて芝生の上にゆっくりと腰を下ろす。それを見たアリス様も、僕の隣にちょこんと座って魔術に関する講座を聞こうとしている。
リュージさんも同じように芝生へ座ると、話を続けた。
「彼らは今でこそ日の当たらない場所で暮らしているが、かつてはそうでなかった。彼らが現れた五十年前。たった十五人の『喧嘩』によって大陸が地獄と化したことは聞いた事があるな?」
「はい。士官学校で習いました。そしてもう二度と表世界には出ないようにし、今後二度と戦争を起こさないことを世界に誓ったこと。そしてちょうどその頃に、『超能力』を持った子供が生まれ始めたことも」
「そうだ。ともあれ、そこまで知っているのならば、君も超能力がどういった原理で生まれたかは知っているのかな?」
「はい。それも士官学校で習いましたから。超能力の正体は、ようは魔力による染色体異常、ですよね」
「そうだ。魔術師が……世界の理から外れた馬鹿共が暴れたことにより世界へ撒き散らされた魔力の残滓が常人の染色体すらも歪めてしまい、超常の力を持つ赤子を作り出してしまう」
僕の隣に腰掛けていたアリス様はすでに話に興味を失っており、僕に肩を預けて眠ってしまっていた。
「自分の体……否、自分という人間を構築する細胞の一つ一つが能力の核なのだ。ならば、己を理解すればするほどにその効力は増していくというのも道理。分かるな?」
「なるほど……」
それはおそらくアリス様から得た『光屈折』にしても同様であろう。
「この訓練は君に一任する。他人である私には、君の能力を進化させる術を持たないからな」
リュージさんはそう言うと、立ち上がって野太刀を構えた。
「では二戦目と行こう。どんな手を使っても良い。私に一太刀浴びせてみせろ。その頃には格段に強くなっているだろう」
僕はアリス様を起こして下がらせると、再度『剣客』との斬り合いへと身を投じた。




