第一章 目付騎士 4.中学時代って大体いい思い出がないよね
三人を追い返した後、アリス様はようやく肩の荷が下りたとばかりに大きく息を吐いてベッドに倒れ込んだ。
「つかれたぁー」
「でも楽しそうだったじゃないですか」
「ええ、まあね。気の良い奴らよ、ホント」
そういうアリス様の顔は誇らしげだ。彼女がどれだけこの屋敷の一達を愛しているのかが伝わってくる。
「さて」
アリス様が、ぽふっとベッドを叩いて立ち上がった。彼女は鋭い目つきの瞳をこちらに向けながら、ニッと笑った。
「そろそろお待ちかね、『血剣王』とのご対面よ」
「やったーっ!」
年甲斐もなくはしゃぐ情けない僕を横目で見ながら、アリス様がスタスタと歩き出した。
☆ ☆ ☆
やってきたのは中庭だった。
屋敷からでてしばらく歩くと、朴から見て縦二十メテル、横三十メテルほどの大きな庭だ。足下の芝生は丁寧に手入れされており、夏にここで寝たらさぞ気持ちのいいことだろう。
その僕から五メテルほど前に、果たして『剣客』は立っていた。
長い黒髪を後ろで束ねた長身痩躯の男。トールさんのように過度に筋肉が目立っているわけではない。彼が着ているあの見慣れない服は、『倭』の国の伝統衣装『着物』だろう。
「あ、ミヤモトさん、お待たせしました!」
アリス様の言葉に、『血剣王』が振り向く。
リュージ・ミヤモト。剣技のみで御前演舞を勝ち上がる生粋の武人。
そんな憧れの騎士――否、侍がこちらを向き、
ゾッとするほどに冷たく鋭利な殺気が僕を刺した。
とっさに半歩下がると、僕の鼻先を上から下へ一迅の風が擦過した。不意打ち紛いの襲撃に、しかし僕は動揺するような愚かな真似だけはしない。体勢を整えるために大きく一歩下がろうとした――――が、すでに『血剣王』の得物である野太刀の切っ先が僕の喉仏へと突き付けられていた。
「…………っ」
あまりに流麗過ぎるその動きに、僕はゴクリと生唾を飲み込む。
先も述べたが、ここから彼がいた場所までの距離はざっと五メテルほど。にもかかわらず、相手に気付かれることなく間合いへと踏み込むその足捌き、そしてその速度。さすがは『血剣王』と言った所か。生で体験してみてよく分かる。彼は、化物だ。
「なるほど」
声が聞こえてくる。
重く、魂に呼びかけてくるような澄んだ声だ。
「それが、君の能力か。相手の……というよりも、何者かが持つ君への『殺意』『害意』『敵意』『悪意』を断片的に受信し、そこから敵の攻撃の規模と方向を測ることが出来る」
「え、ええ……」
「しかしその実、口で言うほど便利な能力ではなかろう。敵の攻撃の狙いまでは読めぬ。今しがたの『燕返し』を避け損ねたことが何よりの証左。君の力は、あまりに脆い」
「ええ……本当に、凄いです……」
僕が素直な賞賛の言葉を述べると、彼は刀を納め、手を差し出してきた。
「ただし、もしその能力持っていたのが並の騎士ならば初撃で決まっていただろう。自分で言うのもなんだが、私の足捌きはこの国で随一。上位の目付騎士であろうと、今の初撃を躱すことが出来る騎士は少ない。にもかかわらず、君は殺気を認知した瞬間、最小限の動きだけで初撃を躱した。己の弱い能力を、最大限に生かすために努力してきた証であろう。合格だ。これからよろしくな、リオン君」
何が起きたのか分からず、傍らで目を白黒させるアリス様を横目に、僕はその手を握った。
「お願いします」
憧れの騎士の手は、とてもゴツゴツしていた。
☆ ☆ ☆
今日の鍛錬はないとのことだったので、アリス様は僕と一緒に部屋に帰ろうと提案した。が、僕はそれを断った。
「どうしてよ。何かやましいことでもあるのかしら」
「ち、違いますよ! ただ単純に、昨日も鍛錬を休んじゃったから、さすがに今日もやらないわけにはいかないんで。ここ三日ほど本格的なトレーニングをしてなかったですし、こんなことでは御前演舞を勝ち抜くなんてこと出来るわけないですから。アリス様に選ばれたからには、もう止まっていられませんしね」
そう言って僕は破顔した。意図したわけではないけれど、なぜか自然と笑みが溢れてしまった。やはり、アリス様の目付騎士に選ばれたことが嬉しいのだろう。
「あっそ」
僕の言葉に、しかしアリス様は拗ねたように顔をぷいと横向けてしまった。
まさか自分の提案が断られるとは思っていなかったのかもしれない。あるいは、目付騎士なのに自分の面倒も見ないで一人で訓練するのが許せなかったのだろうか。目付騎士の主な仕事はお姫様の身の回りのお世話だし、それをせずに自分の鍛錬をしようだなんて生意気な奴、と。
もし後者だった場合、職務放棄とも取られかねない。
さすがにそれは困ると思い、やはり一緒に戻ると伝えようとした所で、アリス様がさらに口を開いた。
「じゃ、じゃあさ、その鍛錬っていうの……アタシも一緒に見ていい、かな。……だめ?」
ほんのり顔を赤くしてそんなことを聞いてくる。
「良いですけど、たぶん僕の特訓なんか見てても別に楽しくないですよ」
「良いのよ別に。そんなことは知ってるし」
どうやら僕の特訓がつまらないことは知っていたらしい。ならばどうして見ようと思うのか、と思ってしまうけれど、きっとそれは僕のような下自民には分からない感性なのかもしれない。面白い物を見過ぎた人間は、きっと最終的につまらない物にこそ面白さを見出すのだろう。
僕はそっと息を吐き、手始めに屋敷の敷地回りをぐるりと一周ランニングしてみた。走った感じ、おおよそ二キロといった所だろうか。さすが王族が暮らす屋敷だけあって広い。
「ねえ、なんでいま一周したの」
「だいたいの距離測ろうと思って」
僕は毎日十キロ走ることをノルマにしている。それは目付騎士になってからも続けるつもりだ。けれど、だからと言って外へ走りに行ってはアリス様にもしものことがあった時に迅速に対応出来ない。ならばと思い、僕はこの広い屋敷の回りを周回しようと考えたわけだ。この屋敷は広いから、一周だけでも一キロか二キロくらいはあるだろう踏んでいたけれど、やはりその通りだったらしい。
「ふーん」
アリス様が適当な調子で返事を返した。もっとも、声音こそ興味がなさそうな様子だったが、意外にもその青い瞳はキラキラと光っていて、少し僕の話に興味があったことが窺える。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「あ、待ってよ。アタシも行くわ」
「いや、アリス様の足じゃ追い付かないですって」
僕はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら返してみた。すると彼女は、案の定顔を赤くして僕に詰め寄ってきた。
「な……っ! お前、自分の主を見くびるようなマネを‼」
「ははは、ごめんなさい。でも、本当に結構飛ばすんで、待ってた方がいいですよ」
「う、ぅうう……っ! じゃ、じゃあさっさと行ってくれば良いじゃない。お前が走ってる間、アタシはここでジュースでも飲んでてやるわ!」
まるで捨て台詞のような言葉を吐いてそっぽを向くアリス様。
僕はそれを微笑ましく思いながらランニングへ。
このランニング、一般人が考えている以上に難しかったりする。ゆっくり走っていては当然トレーニングにならないし、かといって飛ばしすぎれば途中でバテて五キロくらいから一気にペースダウンしてしまい、トレーニングで得られる効果が本来の半分以下になってしまう。
僕は距離とスタミナを考慮した上での最高速で屋敷を五周して十キロを走り抜けた。
走り終え、激しく肩を上下させながら芝生の上でちょこんと座るアリス様に目を向けた。先ほどの宣言通り、アリス様は上機嫌でジュースを口へ運んでいる。
「凄いわね。あんな速度でこの屋敷を一周するなんて」
「こ、これくらい……っ、ふ、普通です……」
「そんなバテバテの状態で言われても説得力ないわ」
「ほ、本当ですから……っ! まだ、ぜんぜんよゆっ、ごほっ!」
「咳き込んでじゃない。お前って見栄っ張りな所あるのね。意外だわ」
「見栄じゃないですっ」
「はいはい」
彼女はひらひらと手を振って僕の言葉を受け流した。
「まあでも、余裕ってことはここからさらなるハードトレーニングに移行するって期待していいのかしら」
「…………ちょっと、休憩です……っ」
「疲れたのね?」
「…………」
「疲れたのよね?」
「はいそうです見栄張ってごめんなさい」
僕が素直に認めると、彼女は「よろしい」と言って無い胸を張った。
休憩の意味も兼ねて僕は彼女の隣に座った。その瞬間アリス様がビクッと体を揺らす。
「あれ、隣ダメだったですか」
「え、いや別に……ちょっとビックリしただけよ」
なぜだか彼女の頬がほんのり赤いような気がするのは僕の気のせいだろうか。
呼吸が整うのを待って、僕はまた立ち上がった。
「次は何するのかしら」
「ただの筋トレですよ」
そう言って僕はその場で腕立て伏せを始めた。すると隣で僕の筋トレを見ていたアリス様も同じように腕立てを始めた。
「……なにしてるんですか?」
「見て分からないの? その眼球には何が詰まってるの?」
「言い過ぎでしょ」
僕の抗議を無視して、アリス様がむむむと腕立てを始めた。腕立てをしながらそれを見守る僕。ちなみにアリス様は、まだ一度も腕立て出来ていない。体を沈めたは良いけれど、そこから持ち上げられないのだ。
僕は仕方なく片手を地面から離して彼女のお腹を支えてあげた。
「にゃんッ?」
「どうしたんですか猫みたいな声上げて」
「べ、別に何もないわよ!」
そんな風に、二人であーだこーだ言いながら筋トレを続けて行く。
腕立て二百、腹筋二百、背筋二百。これを三セットが僕の基本だ。ちなみにアリス様はそれぞれ十回ずつを三セットやってゼエゼエと荒い息を吐いていた。
「お、お前ほんとうに凄いわね……」
「そうですか?」
精緻な純白のドレスが汚れるのも構わず、アリス様は芝生の上に寝転がっていた。筋トレが一段落着いた所で、僕も彼女と同じように芝生の上に寝転がる。
日はだいぶ傾いてしまっており、時刻は既に夕刻を迎えていた。西に沈む陽から出る橙色の光が芝生に寝転がる僕らを照らす。汗でドロドロになった僕らの体を、春先の風が撫でては過ぎて行く。
「ねえ、お前、ずっとこんなことしてたの?」
「ええ。日課ですよ」
「一人で?」
「それはそうでしょう。みんなとやったって、差なんて埋まらないですから。僕は大した能力に恵まれなくて、魔力もそんなに多いわけじゃない。他の人は炎を出したり物体を浮かしたりしてるのに、僕にはそれが出来ない。だから僕は、体技と剣技、それから駆け引きでそれらを埋めるしかなかった」
それでも僕は、一勝も出来なかった。ただの一度も戦いに勝てたことがなかった。
この世界がどれほど険しい道のりか、きっと誰よりも僕が知っているだろう。
「剣術の鍛錬も毎日してたの?」
「はい」
「どうやって?」
彼女は熱心に僕の話を聞いている。きっと彼女の知らない世界のことを聞けて、楽しくて仕方がないのだろう。
「非公式な試合を色んな人に持ちかけたんですよ」
「非公式な試合?」
「はい。普通は模擬戦っていう形を取って監督の先生がいる元で試合をしないといけないんです。だけど僕は本当に弱かったから、ある時を境に誰も僕の挑戦を受けなくなってしまいました。すごく焦りましたよ。あのままだとみんなからどんどん離されていたでしょうし」
僕はあの学校にいた時のことを思い出す。
友達がいなかったわけじゃない。『人間』としてのリオン=クローゼは認められていた。けれど誰の目にも『騎士』としてのリオン=クローゼは映っていなかった。
模擬戦をお申し込むたびに、申し訳なさそうな顔で謝ってくる学友達の顔は今でも忘れない。
「だから、ちょっと柄の悪そうな人達に絡んだりして、一対複数で喧嘩まがいのことをしていましたよ。誰も彼もが何かに秀でた人達ばかりだから、本当にためになりました」
「お前って本当に馬鹿なのね。そんなに騎士が好き?」
「はい、大好きです」
「ふーん、変なの」
そう言ってアリス様は楽しそうにころころ笑う。
「さて、じゃあ僕はまだまだメニューがあるんで、続きをしますね。アリス様はどうします?」
「アタシはもうやめとくわ。さすがにこれ以上はダメっぽい」
そう言ってアリス様もゆっくりと立ち上がった。疲労が足にも来ているのか、ふらっとバランスを崩してしまい危うく倒れそうになる。それを僕は優しく抱きとめてあげた。先ほどお腹を支えてあげたときは気付かなかったが、彼女の体はその白い肌の印象通り、ひんやりとしていて気持ちがよかった。
「あ、ありがとう……」
アリス様は顔を赤くして蚊の鳴くような声でそう言った。
そんなアリス様の顔を見て、ずっと彼女の体を抱きとめていた僕まで顔が熱くなってきてしまい、とっさに体を離した。
「あ、明日は早いわよ! 特訓だってあるし、お昼にはデ……じゃなくて買い物もあるんだから」
「いまデートって言いそうになりませんでした?」
「言ってないわ。ぶっ殺すわよ筋トレ馬鹿」
さっきまでの可愛らしい様子はどこへ行ったのか、アリス様はいつもの不機嫌な様子でそっぽを向いて屋敷の方へと歩き出してしまう。どうやら怒らせてしまったらしい。耳まで真っ赤にしてしまっている。
僕は彼女から視線を切って特訓の続きをしようと腰に手を伸ばした。だが、右手は虚しく空気を掴んだだけだった。
おそらく、『血剣王』に会えるという興奮のせいで剣を持ってくることをすっかり忘れてしまったのだろう。
今日の特訓はこれで終わりだ。
僕はため息を吐いて空を見上げた。
話し込んでいるうちに日も暮れ、すっかり夜になってしまっているが、西の地平に沈んだ太陽が、若干ながら夜空に朱を挿しているためまだ真っ暗闇というわけでもない。
頬を流れる汗を拭って、僕も彼女と同じように屋敷へ戻る。
☆ ☆ ☆
夕飯も滞りなく終わり、僕は大浴場へやって来ていた。
何でもアリス様は『倭』の国の文化が大好きなようで、どこから得た知識なのか、浴場の大きな壁の一つが大きな山のような模様になっていた。
汗でベトベトになった髪と体を洗ったのち湯船につかる。すると、体の芯から疲労が抜けていくかのような不思議な感覚があった。
風呂につかっている間、様々なことを考えた。
主に士官学校でのことだ。
模擬戦も公式戦も全敗。誰も僕との模擬戦を受けようとしてくれないから、仕方なく柄の悪い人達に絡んでいって無理矢理にでも戦う場を設けようとした。
体に出来た痣なんか数えるのも面倒なほどで、それらの内のいくつかは未だ僕の身体に残っている。その非公式な喧嘩だって、勝てたことは終ぞなかった
「良い試合は……してたと思う……。勝てる相手だっていたはずんだけどな……」
だけど、どうして一度も勝つことが出来なかったのだろう。鍛錬なら人の何十倍もしてきたつもりだ。戦う数多の猛者達の戦いを、この目で必死に盗もうとした。事実、そのおかげで僕の剣技は士官学校——否、僕の年代の全ての騎士達の中でも高い位置にあると自負している。
ならば勝てない理由は何なのだろうか。
僕にはまだ、その理由が分かっていない。
☆ ☆ ☆
お風呂から上がり、自宅から持参した寝間着に着替えて自室に戻ろうと足を進めた所で、僕はようやくこの身に降りかかるであろう難問に思い当たった。
そう――――僕は、アリス様と同じ部屋で寝るのだ。
「…………………………………………っ」
自覚した瞬間、僕の心臓がひと際大きく跳ね上がった。強く、速いリズムで胸の中心から全身へと血液が送り出されていく。顔が火照ってしまう。部屋に近付くにつれ体がカチコチと固まっていく。部屋まで残り十メートルという所にくると、ついに緊張が限界を迎えてしまい、手と足が同時に動いてしまった。
「…………っ」
僕は真っ赤になった顔で目の前の扉を眺める。柱よろしく直立不動で立ち尽くすこの姿を見られれば、確実に変態だと思われてしまうだろう。
僕は意を決してドアノブに手をかける。
躊躇ってはいけない。ここで一気に扉を開けなければ僕はきっと一生この部屋には入れないだろう。
僕は勢いのまま扉を押して部屋の中に入ろうとした。だが、扉が開かない。
「あれ」
不思議に思い、今度は引いてみると簡単に開いた。どうやら緊張していたあまり、ドアがどちらに開くのかも忘れてしまっていたらしい。
僕は動悸を抑えて部屋の中へと踏み込んだ。
そこに――――、
夜空のように鮮やかな黒色のネグリジェを着たアリス様がいた。
ノースリーブ……というよりも、あれはただの肩ひもと言って良いだろう。大きく肩を露出させたその姿は、ドレスを着ていた時の矮躯からは想像もつかないほど扇情的であった。
部屋に入ってきた僕に気付いたのか、アリス様が肩越しに僕を振り返った。
「おかえり……」
「はい……」
彼女のあられもない姿に釘付けになり、僕はその場を動けなくなってしまう。
じっと見られることを不快に思ったのか、アリス様は不機嫌そうな色を表情に滲ませて僕に詰め寄ってきた。
「なによ。アタシが、寝る時もドレスを着てるような酔狂な女だとでも思ってたの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
僕が返答に窮していると、アリス様も僕の顔が赤くなっていることに気付いたのか、はっとした表情になって赤面した。
顔を下げて自分の着ている服を確認した。それから顔を上げて僕の顔を見る。そんな行動を三回くらい繰り返して、
「あぅ……っ」
彼女は気を失ったかのように僕の胸に倒れ込んできたのだった。




