第三章 アリス=エーゼルク 6.想いの在り処
リュージさんとの話も終わって、僕はシャワーに入ってから自室へ向かった。
扉の前に立つと、中から話し声が聞こえてきた。アリス様が起きたらしく、何やら二人で深刻な話をしているようだ。
僕は死んだ魚のような目で扉を見つめながら、それをしばらく聞いていた。が、扉越しということもありよく聞き取れない。仕方なく扉をノックして中に入る。
二人がこちらを見てくる。
僕はそれに、無理矢理作った笑みで返した。
アリス様は掛け布団に足を入れており、上半身は起こしていた。
彼女は僕を見かけるなり泣きそうな顔になり、けれどそれを取り繕って、ぎこちない、つらそうな笑みを浮かべた。
そこに、いつもの不機嫌で、強気で、傲岸不遜で、マイペースに僕を振り回してくれるような覇気はなかった。
「ごめん、心配かけたわね」
「…………」
僕はなにも応えない。応えられない。
彼女を見るだけで、その笑顔を見るだけで。あと一年であの人は消えてしまうのだと、僕の前からいなくなってしまうのだと考えてしまって。
涙を流さずに彼女と顔を合わせるだなんてことはできなかった。
「…………う、ぐっ……!」
「リオン君……」
「アリス様……」
「リオン君……アタシ、リオン君に言いたいことがあるの」
「…………聞きたく、ない……。もう、僕は……、…………もう耐えられない」
「そう言わずに……アタシのためを思って、聞いてほしい」
僕は臆面もなく涙を流しながら、ベッドの近くまで歩き、エイナさんにイスを借りて彼女に向き直った。
エイナさんが無言で部屋から立ち去った。いまこの場には僕とアリス様しかいない。
それを確認したアリス様がこう切り出した。
「アタシね、実はリオン君のことを、士官学校の時からずっと見てたんだ」
そうして語られたのは、彼女の、僕への想いだった。
▽ ▽ ▽
アリス=エーゼルクは不治の病に侵された。そんな残酷な事実が判明したのは、十三歳の夏であった。
ニーナ病。
リアルタ王国でしか存在しない病で、十年に一度程度の割合で王族にだけ発症するというものだ。体の成長が止まり、疲労感や虚脱感が全身を襲う、あるいは吐血などの症状を伴うもので、だいたい十歳前後で症状が表に出始める。この病にかかれば、最高でも二十年生きることが出来なくなってしまう、子供だけを狙った悪魔のような病だ。
始まりは五十年前、原因は不明――極東から流れ着いたウイルスなのか、はたまた魔術師たちによる大戦の影響だったのか、ともかく、『永病の魔術師』がいるこの国で不死の病などというものが存在するのは、少々皮肉が効きすぎているかもしれない。
とはいえ当時の彼女は王族といえどその精神は中等部の二年生となんら変わらず、そのような常人と変わらない精神強度しか持たぬ少女には、病の起源や原因など思慮の外であった。
一人の女の子に言い渡されたのは、『余命二年』というただ残酷な事実。それは、たった十三年生きただけの少女の心をどれほど暗く満たしただろうか。きっとそれが分かる人間は、この国にはいない。
当然アリスは絶望した。
『君の身体は、その病気のせいで、もう……成長しない』
身体の時は止まり、少女自身の人生の針も、たったの二年で朽ち果ててしまう。
使用人や彼女を慕ってくれる兵隊たちも大いに悲しんだ。
けれどそれでも、アリスが感じたそれとは比べ物にならない。
少女は生きる気力を無くした。生きる必要がないと、もう頑張る必要はない、と。
どうせ死ぬのなら、後悔はないようにしたい。
楽しいことや嬉しいことを知らないまま死にたい。
世界なんて生きているほうがツラいのだと、そんな暗い思いを抱きながらこの世を去りたいと。
そうして彼女は、殻に引きこもってしまった。誰と話すときも壁を作り、誰に触れる時も己の中で溝を作り。
そうして彼女は一人になろうとした。
『世界なんてない方がマシ。一人でいる方がいい。楽しいことなんていらない。だって、アタシは死ぬんだから。アタシを殺すこの世界が、楽しいものであっていいわけない。楽しい世界なら、アタシは消えたくない』
――――だから、アタシは人生を無駄にしたい。死ぬときに悔いの残らないように、楽しいことや嬉しいことを否定し続けてやる。
少女のその思いは、やがて憎悪へと発展していった。
人生を楽しんでいる人間を、青春を謳歌している愚か者を、すべて殺したいとさえ思った。
そんなある日。
彼女はやりたくもない公務のためにある場所へ行った。
そこには、レオル=エーデルフォルトと呼ばれる、『瞬閃』の異名を持つ騎士がいる士官学校らしい。目付騎士の候補者とするためにも彼を見ておけとのことで、国王である彼女の父直々の達しであったため無視するわけにもいかず、嫌々ながらもそこへ向かった。
『どうせ死ぬのに』
その言葉がすでに口癖になってしまっており、端から見ればもう、彼女の心がすでに死んでしまっていることは明らかだった。
案の定、行ったところで得られたものは皆無だった。
楽しそうに談笑する騎士候補たち。
戦いの中に喜びを見出す騎士と、それを期待の目で眺める王族貴族。
女にもてはやされるレオル=エーデルフォルト。
『くだらない人間。全員死ねばいいのに。王女の権力でこいつらの親でも殺してやろうか』
得られたものはなく、憎悪が沸き上がるのみ。
眼光だけで人を殺せるかと思わせるほど鋭く、怨念すらこもった目。だが、そんな人生の敗北者に目を向ける者など一人としていなかった。
それがまた、腹立たしい。
アリスはこのままでは本当に人を殺してしまいそうだと思い、人のいない方、いない方へと歩いて行った。
やがて辿り着いたのは、誰にも使われていない旧校舎の四階、その端だった。
その窓からは、二つの新校舎と、それらに挟まれた小さくて薄暗い空間が見えていた。新校舎の窓からはどこからも見えないだろう、その場所。おそらく、その空間を知っている人間すらこの学校にはいないだろうというほど奥まった場所。誰も見ようとしない、視界に入れもしない、無意識のうちに脳が不必要と判断してしまうだろうその場所に、
彼はいた。
きっと今日の試合に負けてしまったのだろう。が、試合を観戦していたはずなのに、アリスは彼の顔を覚えていなかった。きっと、一回戦で、それもおまけのような程度の低い試合の末に敗れてしまったのだろう。ある程度強い騎士や、一回戦で負けたとしても、記憶に残るような戦いをした騎士の顔くらいは覚えている。
黒い髪を持つ少年。中肉中背で、平々凡々な風貌。強者特有の威厳など感じられない。
そんな少年が、薄暗い、誰からも見られないような場所で必死に剣を振るっていた。その身には数え切れないほどのテープが貼られ、包帯が巻かれており、素人であるアリスから見ても、一目で剣を振るえる状態でないと分かる。
にもかかわらず、少年は必死に剣を振るっていた。
仮想の敵と戦っているのか、あるいは今日の決闘の復習でも行っているのか、一人暗い空間で、彼はずっと剣を振り続けていた。
滂沱の如く涙を流しながらも、唇を噛みしめて、決して声だけは上げまいと最後の誇りを守りながら。
彼は、流れる涙を止めようともせず、身を焦がす敗北感を紛らわすかのように、何度も、何度も、何度も何度も剣を振り続けていた。
剣の腕は素晴らしいと思う。今日見た決闘の中でも、彼に剣技のみで敵うのは、おそらく件のレオル=エーデルフォルトくらいのもの。
にもかかわらず、彼は負けたのだろう。
きっと能力が弱すぎるのだ。
どうせ取るに足らない存在だ。アリスはそう判断して、その場を立ち去ろうとした。彼を見ていても得られるものなど何もない。憎悪が湧かないことは評価できるが、それだけ。彼はアリスにとってどうでもいい存在だ。
そう決めつけ、彼女はその場を立ち去ろうとして――だけど出来なかった。
いつしか彼女は、まるで呪いにでもかかったかのように彼の姿を眺めていた。
結局、彼が鍛錬を終えるまでずっと眺めてしまっていた。
理由が何なのかは分からない。
その日から、あの少年の涙を忘れることができなかった。
それ以降も、アリスの人間嫌いが治ることはなかった。相変わらず人を見ると憎悪が湧き上がり、殺したくなる衝動に駆られる。
そして数か月が経ち、またアリスはあの士官学校に行くことになった。
この日に限っては、騎士の顔を覚えることすらしなかった。試合に興味が失せていたのだ。
けれどその中に、たった一人だけ例外がいた。
彼だった。
今度は、あの少年だけを見ていた。
名前を呼ばれた。リオン=クローゼと言うらしい。
決闘が始まり、序盤は善戦。しかし中盤以降敵が能力を発揮して劣勢になり――そして完敗した。
少年は目に涙を溜めながら、しかしそれを流すことも、そして拭うこともせず、ただ堂々と胸を張って決闘場を去って行った。
試合後、アリスはあの場所へやって来ていた。
別に気になっているわけではない。ただ、少し興味があって、また来てしまったのだ。旧校舎の四階、その端。
いるとは思えない。いつもいつも同じことをしているとは――、
けれどやはり、彼はそこで泣いていた。
必死に歯を噛みしめて。
そして今度は分かった。彼はいま、今日の試合のシミュレーションを行っていた。次は勝つために。一つでも多く勝ち星を得るために。
次の大会でも負けた。負けて、そしてまた泣いていた。
負けて、泣いて、さらに自分を磨こうとして。
だけどまた負けて。
それをずっと、ずっと繰り返していた。
いつしかアリスは、彼以外のことがどうでもよくなっていた。
大会のたびに彼の姿を探し、そして見つけては密かに応援していた。
試合を観戦していた王族たちの中で、リオン=クローゼを応援していた人間は、きっと彼女一人だけであろう。
何もない日も彼を見に行った。
彼は誰と話すこともなく、常に一人だった。昼休みにはあの場所へ行って、そしていつものように鍛錬を行う。涙こそ流していなかったものの、その表情は真剣そのもの。
気付けば、リオンのことを考えない日はなくなってしまっていた。
リオン=クローゼの顔を思い浮かべ、そして例えば自分の隣にいてくれれば……なんて想像をして、
そしていつしか彼女は、笑顔を取り戻していた。
あと一年しか生きられないことなど、些末なこととなっていた。
彼の同級生に話を聞いて、彼が『御前演武』で頂点に立つことを目標にしていると知った。
それからの彼女は、まるで別人のように変わっていった。
時に体を酷使してでも、嫌いな人間にすり寄ってでも、あの手この手を使ってリオンを屋敷に迎え入れる準備を行った。
彼のことを考えて笑顔になり、彼のために動いて、そしてまた笑う。
笑顔を取り戻し、希望を持ち、未来に輝きを生んだ。
『もう、別に、悔いが残ってもいい。生きることに未練が生まれてもいい。ただ、彼のために』
拳を握り締めて、たった一人の少年を助けるために、
『アタシを救ってくれたリオン君を、今度はアタシが助けるんだ』
そうした少女の過酷なまでの思いの元に、二人は出会ったのだ。
アリス=エーゼルクとリオン=クローゼの出会いは偶然などではない。
『アタシは、彼が夢を叶えるためならば何だってしてやる。寿命が縮んでも構わない。残り少ない命を、残された時間を削ることだって厭わない』
そんな、誰よりも、何よりも、強く、純粋で、一途な想いがあったのだ。
☆ ☆ ☆
話を聞き終えた僕は、泣いていた。ただただ、泣いていた。
アリス様の過酷な人生に対してもそうだが、もっと利己的で、もっと浅ましい感情によって。
嬉しかった。
ただ嬉しかったのだ。
僕がやってきたことは無駄なことだと思った。誰も救えない、誰も守れない、好きな人ひとりを庇えもしないこんな小さな存在なんて世界に何も残さないと思っていた。
けれど違った。
僕は……僕は一度救っていた。
格好悪い所を見られていたことは少々恥ずかしいが、けれどそれで――あの努力が、
あんな誰にも知られることはないような努力が一人の少女を救い、そして――、
僕とアリス様を引き合わせてくれた。
ああそれだけでも。
たったそれだけでも、僕がやってきたことに間違いはなかったのだと断言できる。
だって、僕とアリス様が出会ったことが、間違いであるわけないんだから。
「アリス様……僕は……」
「アタシね……アタシね……リオン君と一緒の時間を過ごせることが楽しくて仕方なかった。君と……憧れてる騎士と一緒の時間を過ごせることが何よりも楽しかったんだ……こんな暗い人生で、こんな絶望しかない人生の中で、君はね……アタシの、唯一の救いなの……」
震える声は涙と共に吐き出されていて、彼女がどれほど僕を思ってくれているかが分かった。
でも、じゃあ……
「じゃあ、僕はどうすれば良いんですか……」
「…………」
「僕はあなたなしで、このさきどうやって生きていけというんですか……!」
隠すべき感情なのに、彼女のことを思うのならば絶対に胸の内に仕舞っておかなければならない感情であるというのに。
吐き出さずにはいられない。
胸の内からあふれ出すこの感情を堰き止める方法を、僕は知らない。
「僕は……アリス様を好きになってしまったんですよ……」
もう、枯れるほど涙を流したというのに、まだ止まらない。
「……えへ、嬉しい」
その声は本当に可愛くて、照れて顔を赤くするその顔が本当に愛おしくて。
それはきっと彼女も同じ気持ちだったのだろう。
僕らは自然と、互いの唇を重ねていた。
時間にしてみれば一秒程度。
なのにそれは永遠のように感じられて。
本当に永遠に続けば良かったのに、なんて思って。
けれど現実は残酷で。
こんな僕らの幸せは、もう、あと一年で儚く散ってしまうのだ。
館を打つ雨の音が、いまは鮮明に聞こえる。
「ねえ、アタシね、悔いは残したくないの」
「………………はい」
「名前で……呼び捨てで呼んで欲しい。『アリス』って。これからはずっと一緒にいるんだから。…………だめ、かな……?」
「……いいよ、アリス…………。それくらい、いくらだってしてあげる……」
「ありがとう、リオン。アタシいま、人生でいちばん幸せだよ」
もう彼女の全てが愛おしくて、気持ちが通じ合ったからこそ、よりいっそう失いたくないと思ってしまう。それが不可能なことだと分かっているのに。
解決策を探してしまう。
医療系の能力者が何人何十人いようとも絶対に治療することの出来ない病を、治療する方法を。
「アタシ……ちょっと寝るわ……」
口調の戻ったアリスにふとんをかけてやって、
僕は彼女が眠れるように部屋を後にしようとした。
けれどその前にやりたいことができた。
僕は彼女の額にひとつキスをしてから部屋を出た。
「ふふっ、おやすみ」
緩み切ったアリスの顔は、本当に可愛かった。




