第四章 アリス=エーゼルク 5.少女のこと
「…………ッ」
先ほどまで僕が眠っていたダブルベッドでは、顔中に嫌な汗をびっしょりと掻き、荒い息を吐き続けるアリス様が苦しそうな表情で眠っていた。
トールさんからこの人の真実を聞いた直後、僕は半狂乱になりかけてしまった。助けてくれたのは、アリス様の冷たい手だった。絶叫を上げる僕の頬を優しく撫でたアリス様のおかげで、僕は何とか正気を取り戻すことができた。
自分が一番苦しいだろうに。
「…………」
顔にかかって鬱陶しそうな白い長髪をそっと掻き分けてあげる。その拍子に触れた彼女の額はとても冷たい。これほどの汗を掻いているのに、こんなのにも冷たいだなんて。
ああ――。
今になって思い至る。
彼女の身体があんなにも冷たかったのは、この病気のせいだったのだ。それを僕は心地良いなどとのたまって……。
僕は自分が無性に腹立たしくなり、音を立てるほどの勢いで強く拳を握りしめた。
彼女がすぐにバランスを崩してもたれかかってきたのだってそうだ。別にこの人がドジだったのではない。ただ、まともに立っていることもできないほど衰弱していたというだけのことだったのだ。
それを僕は……。
何にも気付かず、ただ彼女に与えてもらうばかりで。一番気付かなくてはいけない所に気付かなかった。
「けほっ! う、ぅううあ……ッ!」
嫌な夢でも見ているのか、苦しそうに呻きながら身を捩らせる彼女の姿が痛々しい。見ていられない。だけど、僕が今ここにいなくてはどうするのだ。
ふとんからはみ出た彼女の手を握る。
やはりその手は冷たくて、まるで体温なんてないかのようで……なのに。
「……どうしてこんなに、温かいんだ……ッ‼」
噛みしめる歯の間から嗚咽が漏れる。怒りと、悲しみが、幾度も幾度も僕の許容を超えて涙となって外へ流れてしまう。
なぜだ。
なぜアリス様なんだ。
もっと他にもいただろう。彼女以外にも王族も貴族もいるだろう。別に僕だってかまわなかった。
なのに、どうして……ッ!
悔しくて、悲しくて。そして世の理不尽が許せなくて。
涙が止まらない。
すると背後で、扉が開け放たれる音がした。振り返れば、トールさんと、その隣にライオスもいた。
ライオスもこのことを知っていたのであろう。特に驚いた様子もなく、ただ悲しそうな目でアリス様を見ていた。
トールさんが口を開く。
「どうじゃい、様子は」
「……相当、悪そうですね」
「違う。リオン君の方だよ」
「僕……ですか……」
はっきり言って、まともな状態ではない。何も考えたくないし、誰と話したくもない。今はただ、ずっとこの人の側にいておいてあげたい。
「まあ、大丈夫です。だいぶ落ち着きました」
けれどそんなことを言うわけにもいかず、当たり障りのない言葉を返しておくことにした。
それを聞いたトールさんは何かを察してくれたのだろう。小さく一つ息を吐くと、優しい口調でこう言ってくれた。
「無理せんでええぞ。目が真っ赤だ」
トールさんの言葉に、僕は笑みだけを返すと、もう一度アリス様の方へ向き直った。
「のう、リオン君」
「……はい」
「どうしてアリス様が君を目付騎士に任命したか聞いたことはあるか?」
「ない、ですね……」
「やはりのお」
要領の得ない彼の言葉に、僕は首をかしげてしまう。
「まあ、それはアリス様の口から言うた方がええか」
「はあ」
「ただな、リオン君、これだけは忘れんでくれ」
「……なんでしょう?」
今までにないほど真剣な声が掛かり、僕は再度振り返ってトールさんの目を見た。その真剣な目に、知らずして僕の心と体が引き締まってしまう。
「彼女はな、本当に君を、心の底から応援しておったんだよ」
……そんなことは分かっている。
あれほど僕の背中を押してくれたのだ。
彼女が僕にどれだけ尽くしてくれていたのかなんて、言われなくても僕がいちばん分かっている。
だけど、どうしてなんだ。
どうして僕なんかに。
こんな無価値で下らない、誰のためにもならないような僕のために。
そんな僕の心の中に悩みを聞いたのか、トールさんはふうと一つ嘆息して、
「それは、アリス様に聞くんだの」
「……はい」
僕とトールさんの話が一通り終わったことを察したのか、今度はライオスが口を開いた。
「なあリオン」
「うん?」
「お前、アリス様のことが好きか?」
核心を突く質問。今までの僕なら慌てふためいていただろう質問。実際、この前エイナさんに聞かれたときは焦りやら困惑やらで答えられなかった。
だけど――。
「うん、好きだよ。この世界の誰よりも、何よりも、大好きだ」
今は、こんなにも簡単に答えられた。
するとライオス君はふっと楽しそうに笑って、
「だったら、悔いは残すなよ」
それは僕のために放たれた言葉。
僕はそれに応えなくちゃいけない。いけないのに……、
「頑張るよ」
そんな、どっちとも取れない言葉を返すことしかできなかった。
その声を聞いて、彼らは悲しそうに僕を見ると、それでも精一杯に笑って、
「んじゃ、お邪魔したな。俺らはこれでお暇するわ」
そう言って部屋を出て行ってしまった。
しばらく沈黙が流れた。数分経って、コンコンとノック音が部屋に響いた。僕はそちらを見もせずに「どうぞ」と返事を返す。
するとゆっくりと扉が開けられて、中にエイナさんが入ってきた。
「どうしました?」
これもまた、僕はアリス様から目を離さずに問いかける。
するとエイナさんは、
「ミヤモト様がおいでですわ」
「リュージさんが?」
「はい、なんでもあなたとお話がしたいだとか」
一瞬なぜなのかと思ったが、すぐに思い至った。先日の決闘についてだろう。あるいは、彼もまた僕を慰めに来てくれたのかもしれない。
その優しさに甘えたいし、どちらにせよもう騎士をやめるつもりだったので話はする必要があったため行きたいのはやまやまなのだが……。
「アリス様を放っておくわけには行きませんから」
「大丈夫ですわ。あなたが行っている間は私がお世話をしておきますから」
「でも……」
「大丈夫ですって。ほら、行ってくださいませ」
振り返り彼女の顔を見れば、それは真剣そのものだった。
僕はその言葉に甘えてアリス様を任せることにする。
「別に、今すぐ息を引き取ってしまうというわけではないのです。大丈夫ですよ。その時までに心を決めておけば」
部屋を出る直前、僕の背中にそんな言葉が掛かった。
僕はふと気になってこう尋ねる。
「じゃあ、エイナさんはもう覚悟はしているんですか?」
「ふふ……それだったら良かったのですが、情けのないことに、まだ心を決めきれていないのですよ、私。嬢様がいなくなることなんて、想像しただけで、私は……!」
そうか。
僕だけじゃないんだ。
彼女を慕っているのは。
彼女のことが大好きなのは、この館の全ての人が、きっとそうなのだ。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
それだけを言い残して、僕は部屋を後にした。
☆ ☆ ☆
今日は雨が降っているにもかかわらず、リュージさんは常と変わらず中庭の真ん中に立っていた。彼は雨を降らす曇天を見上げている。つられて僕も空を見上げてみる。確か、レオルとの決闘の日もこんな風に灰色の雲があって、そして雨が降ったのだったか。
雨をこれほど冷たいと思ったのは、きっと初めてだ。
「来たか。久しぶりだな」
相変わらず落ち着いた、それでいて威厳のある声だと思う。
「まずはお疲れさま。そして残念だったな。次は――」
「次は……っ!」
その彼の言葉を、僕は大声で遮った。
「次はもう、ないんです……」
僕のその言葉を聞いたリュージさんは、すっと目を細めた。怒りや軽蔑から来るものではない。僕の真意を計りかねているのだろう。彼はどうしてと言った風に僕に続きを促した。
「ダメなんです。もう、僕は戦えない。戦ってはいけない。彼女の側にも、いてはいけない……っ!」
「負けたからか」
「……違います。何も持っていないからですよ。何も……なに一つあの人に返せるものが無いからです。勝利も、命を救う方法も……」
さっきあれほど感情を表に出したというのに、まだ僕の心はまだ何かを溜め込んでいたのか、次々と言葉と涙が叫びと共に吐き出される。
「僕に尽くしてくれた彼女にッ。僕を拾ってくれた彼女に……僕を……っ! 僕なら勝てると、そう言って支えてくれたあの人に、僕は何もできないッッ! アリス様を侮辱されたのに負けた! あの人の価値を僕が! 僕の弱さが貶めたッッッ! 余命あと一年の彼女に、僕は何もしてあげることができないッ! 死ぬという結末しかない彼女に、僕は他の道を与えることができないッ! 楽しいことや嬉しいことを教えてあげなきゃならないのに、僕はもう彼女の顔を見ることもできない……。あの人が一年で死んでしまうと、それを知って僕は、もう…………ッッ!」
そうだ。
そういうことか。
いま話したことなんて大したことじゃない。
きっと、僕は――。
「彼女がいない世界なんて考えたくないッッ! そんな世界が待っているのに頑張ろうだなんて思えないッ! 努力なんて無駄でしかない。……だって一年すれば僕の大切なものは消えてしまうんだから。そんな世界で生きて何になるっていうんだッッッ!」
結局、これは単純な話だったのだ。
レオルに負けたことは、あいつにアリス様を侮辱されたことは耐えられなかった。だから騎士をやめようと思った。こんな自分に彼女の騎士を名乗る資格はないから。
だけどそれでも、きっと、彼女が僕を優しく包み込んでいれば、僕はもう一度立ち上がることができただろう。情けない話だけれど、そんな優しいお話だったのなら、希望や未来があったのならば、僕はまだ立ち上がることができたはずだ。
でも、現実はそうではない。
この物語には、悲しい結末しか待っていない。笑顔の存在しない、誰もが涙を流すような、そんな吐き気のするような薄汚い結末しか待っていない。
そんな世界で。
そんな人生を。
どう頑張れというのだ。
一年あれば気持ちを決められると言われた。彼女がいなくなってしまっても、そこから過ごす年月が、そこから始まる月日が、その悲しみを埋めてくれる。忘れさせてくれる。いつか他に素敵な女性が現れて。僕の心を満たしてくれる。そんな……そんな優しい続きが待っていたとして――。
「そんなふざけた人生を、認められるわけないだろうがァッッ!」
雨の中一人で叫ぶ僕を、リュージさんは黙って見ていてくれている。
口を挟むわけでもなく、無言で慰めるわけでもなく、ただ、黙って見ている。
「そんなものはないんだ……。彼女がいなくなったら、それはもう終わりなんだ。楽しみなんか存在しない。そこで終わりなんだよ……ッ」
アリス=エーゼルクがこの世にいない。
そんな想像をするだけで叫びだしたくなる。そんな世界を考えただけで暴れ出したくなる。そんな人生を想起するだけで赫怒に駆られる。
「二つ、言いたいことがある」
荒い息を吐き、下を向く僕に、リュージさんが平坦な声で言ってきた。
「一つ目だが、君は、あの少女に恋心を抱いたことを後悔しているか?」
後悔、だって……?
「すぐに消え行き、君の元から離れてしまう少女を好きになってしまったことに後悔があるか? 違う女性を、君と共に月日を歩んでいける人を好きになればと、離れて行ってしまう人を好きにならなければ良かったと、そう後悔しているか?」
こんなことを思うのは失礼なのだろうけれど――それはなんて見当外れで、愚かな質問なのだろう。
そんなもの、決まっているだろう。
「無いに決まってますよ。彼女以外の女性を好きになるだなんて、絶対に嫌だ。たとえ彼女が僕の前からいなくなってしまうのだとしても、僕はアリス=エーゼルクを好きになったことを後悔しない」
確かに言えることだ。
アリス様を好きになったことに、僕は一分の後悔もない。
「そうか。ならば次だ」
リュージさんは優しく一つ笑うと、さらにこう言ってくる。
「彼女を、助けたいか」
「当然です」
一も二もなく首肯する。
僕は――彼女を助けられる方法があるのなら、どんな手を使ってでも助けてみせる。アリス=エーゼルクを、病の呪縛から解放する。
「あるんですか……そんな方法が……」
僕はリュージさんに静かに尋ねた。
ここに来てそんな都合の良い展開があるとは思えない。だけどそれでも聞かずにはいられなかった。
「残念だが、私に心当たりはないな。だが、君ならば見つけられるはずだ」
「なにを根拠に……」
「君は私の、弟子だからな」
その言葉を最後に、リュージさんは行ってしまった。
あとに残されたのは、やはり虚無感だけだった。




