第四章 アリス=エーゼルク 4.大丈夫
「…………アリス、様……?」
「え、ぁ……これは、ちがくて……違う、違うの……っ!」
「なんで、そんな……どうして、血が……?」
今まで僕の頭の中でぐるぐると駆け回っていた下らない悩みがすべて吹っ飛んだ。騎士をやめるかどうかなどすでにどうでもよくなった。
そんなことよりも――。
「大丈夫なんですかッ? なんでそんな……いったい何が!」
「だ、大丈夫だから……き、気にしないで……」
「大丈夫ってそんな……口から血を吐いたんですよ……? 大丈夫なわけないでしょっ! 内臓がやられてるのかもしれないんですよッ!」
「大丈夫だって言ってるで――あ、ぐふっッ!」
しつこい僕に怒ったアリス様が叫ぼうとするが、再度の吐血。僕の服を彼女の赤い血が染めていく。
「はぁ……! はぁ……! はっ、がは……ぁッ!」
激しい咳と共に血が吐き出され、彼女はとうとうふらりとバランスを崩して僕の方へ倒れてきてしまった。僕はそれを、半ば反射的に、朦朧としたような状態で抱き支えた。
呼吸が浅く、荒い。触れる肌から感じる脈動がいやに速く、そして強いのが簡単にわかった。体は冷たくて、まるで氷のよう。
「――――っ!」
そしてその瞬間、ようやく僕は我に返った。
「だ、誰かぁ! 誰か来てくださいッ! アリス様が、アリス様が血をッ!」
小さな体を必死に抱きかかえ、扉を蹴破るようにして外に出た。
「お願いです! エイナさん! ライオス! トールさん……誰でもいいから早くっ!」
僕が廊下で喧しく喚き散らすと、エイナさんが急いでやってきた。次いで近衛兵団の団長のトールさんが。
「リオン君、まさかアリス様に何かあったのかッ?」
問いかけてきたのはトールさんだ。確か彼とは、ここに来た最初の日以降話していないような気がする。
いやそうではなく。
今はアリス様だ。
「アリス様が……アリス様が吐血して……! どうしたら……僕、僕……ッ!」
「あ、あぅ……う、ひぐ……っ!」
アリス様は僕に抱えられながら、小さく嗚咽を漏らして泣いていた。
なぜなのかは分からない。だけどそれほどの事態なのだろう。
一刻も早く彼女を――
「クソ……まさかここまで悪化してるとはの……」
しかし、トールさんの反応は、僕が予想していたものとは全く異なるものだった。
「悪化って……悪化ってどういうことですか……?」
おそるおそる僕は尋ねる。
その言い方ではまるで、彼女がこうなることを、これほど苦しむことを知っているたではないか。
僕は訳が分からなくなり、とっさにエイナさんの方を見た。僕の視線に気付いた彼女は、こちらを向くと、悲しそうな目をしてふるふると首を振るだけだった。
なんだ……いったい何があるというんだ……。
「あの……」
どういう感情が原因なのか、僕の声は震えてしまって、まともに聞き取れるようなものではなかった。心なしか息が荒くなっているような気がする。
「ど、どっ……どういう、ことなんです、か……」
「ぁ……な、にも、ない……」
僕の問いに答えるのは衰弱しきったアリス様。
しかし、何もないわけがない。
目の焦点は合っておらず、寒いのか体がぶるぶると震えていた。
僕は助けを求めるような顔でトールさんを見た。
彼は一瞬顔を伏すと、覚悟を決めたように僕の顔を見て、口を開く。
「アリス様はな……」
嫌な予感がする。聞いてはいけないような、聞けば後には退けないような。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。視界が明滅し、なぜか体のバランスがうまく取れない。体を寒気が襲い、頭の中が白く染められていく。身体と精神が乖離していくかのような感覚がある。
「いや、やめて……言わないで……、言うな……っッ!」
本人の懇願も無視して、彼はこう言った。
「もう治らない病気に……不治の病にかかっとるんだ」
――――――――。
「余命はもう――あと一年ない」
その瞬間、僕は訳の分からない絶叫を上げて膝から崩れ落ちた。




