第四章 アリス=エーゼルク 3.真実
複数人の怒声のような、多分に焦りが混じった声が遠くから聞こえてくる。それはまるで夢のようで、全く現実感のないものだったけれど、
「お願い! この子を……リオン君を助けてください! お金ならいくらでも出しますからッッ!」
声をガラガラに枯らして、泣きそうな声で叫ぶ誰かがいて。
僕はようやく、深い闇の底にあった意識を呼び起こすことができた。
「アリス……さま……」
「リオン起きたのッ? 大丈夫? 私よ。しっかりしてっっ!」
担架か何かの上に乗せられてどこかへ連れて行かれているらしく、ごとごとと振動が返ってくる。麻酔をしているのか、体が揺れても傷口が痛むことはなかった。
涙や鼻水でグチャグチャになった顔のアリス様が僕を上からのぞき込んでいた。
「よがった……よかった……っ!」
彼女の反応から、僕がどうやら死の淵にいるらしいことが分かった。
「まだ油断はできません! 施したのは応急処置だけで、本格的に能力で治療するためにも一度こちらで預からせていただきます」
「お願い、します……」
アリス様の声は途切れ途切れで、いつものような覇気も、僕が大好きな不遜な様子も、何もなかった。
やがて僕はアリス様と別れて治療室のような場所へ運び込まれた。
それからのことはほとんど覚えていない。
数人の医療系の能力者たちが僕の周りにやってくると、青い光のようなものに包まれて僕は眠ってしまった。
☆ ☆ ☆
どれくらいの間寝ていたのだろう。
起きればそこは、もう見慣れた僕とアリス様の部屋だった。
アリス様がよく一人で昼寝をしてしまうダブルベッド。その真ん中を、今日は僕が陣取ってしまっていた。
意識は不明瞭で、寝ぼけているのか、まだ僕がこの部屋にいることに現実味がない。近くからすぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえてくるのでそちらを見たら、アリス様がベッドに突っ伏して眠っていた。
……ずっと、こうして僕の側にいてくれたのだろうか。
嬉しさは、ある。
けれどそれ以上に罪悪感の方が大きかった。
僕をここまで心配してくれて、僕が頂点へ行けるようにどこまでも協力してくれて。なのに僕は、彼女に報いることができなかった。アリス様を侮辱した男に一矢を報いることもできなかった。
「…………」
体の調子はいい。
だけどもう、動こうとは思えない。
もう、戦う気が起きない。
あんな敗れ方をして。騎士として否定され、主を貶められ、何もできなかった男が、いったい何のために戦うというのだろうか。
ああ、そうだ。彼の言う通りだ。
僕には、何もない。
矜持も、信念も、誇りも。
戦う理由だってない。
だってそうだろう? 僕がこれまで努力を続けられたのは楽しかったからだ。戦いが、修業が、楽しかったのだ。
けれどもう、楽しくもなんとも思わない。
これから努力を続けようとも、そこには苦痛しかないと分かってしまった。
もっと早く気付くべきだった。そうすれば、多くの人の厚意を無駄にすることもなかった。
僕は立ち上がって荷物をまとめようとした。
もう僕に、この場所にいる資格はないから。何も残せない、何も返せない愚鈍な男が、こんな素晴らしい場所にいてはならない。
ふとんを端に除けて、震える足を床におろした。相当な間眠ってしまっていたのであろう、しばらくはまともに歩くことすら難しかった。が、それもすぐに慣れて、僕は幽鬼のような足取りで歩き始める。ここに持ってきたのは服くらいだから、荷造りにそこまで時間がかかることはないだろう。
カバンを横において、いそいそと帰り支度を進めていく。
「どこ……行くの……」
背後からそんな声が聞こえた。
ああ、僕が大好きな人の声だ。
あの時――レオルがアリス様を侮辱した時に、僕は気付いたのだったか。
自然に、そのフレーズが思い浮かんだ。
僕は彼女のことが大好きで、無様にも恋心を抱いていて、そして愛してしまっていた。
こんな矮小な存在が、あんな可愛くて、優しくて、強くて、気高い女性に恋をしてしまった。
なんと滑稽なのだろう。
僕は自嘲気味に口の端を吊り上げると、すぐにそれを直してアリス様に向き直った。彼女は僕のすぐ後ろに立っていて、泣きそうな顔をしていた。瞳にたまる涙を見て、僕は彼女を泣かそうとしているのだと気付く。なんて最低な男なのか。
けどだからこそ、僕はここにいてはいけない。
「ちょっと、旅行です」
「いや……」
「あはは、すぐに帰りますよ」
「うそよ」
「うそじゃ……」
「嘘に決まってるでしょッ。分からないと思ったのッッ?」
声を荒げた拍子に小さな雫が舞った。
「なんでなの……ずっと諦めて来なかったのに……ここまでずっと一人で頑張ってきたのに……なんで今になってやめるのよ! アタシがいるって言ってるじゃないッ! 一人じゃないって……アタシがお前を支えるって……っ!」
叫んでいるうちに感情が堰を切って溢れ出していく。
その姿はまるで癇癪を起す子供のようで、それでいて自分の息子を鼓舞する母親のようでもあった。
「アタシは……アタシは……っッ!」
僕が立ち上がると、彼女は僕の胸に顔をうずめて、小さな拳で何度も何度もこの空っぽな胸を叩いた。
「ずっと見てたのに……ずっと応援してたのに……助けられたのに……。なんで……? なんで諦めるの……っ」
レオルにつけられた傷はもう能力者の力と治癒力でもって完治させられたのだろう、どれだけ殴られても痛みはなかった。体に、痛みはなかった。
だけど、彼女の拳から伝わってくる想いが、気持ちが、感情が、どうしようもなく僕の心を締め付ける。何もない僕の胸を叩く彼女の拳は、これまで受けたどんな攻撃よりも痛かった。
泣きそうになる。死にたくなる。
それら全てを我慢して、僕はこう言った。
「だって僕には、」
――向いてない。
そう言おうとした。
だけど、だけど。
そんなちっぽけで空っぽな、価値のない言葉は。
「ぁ、あ……っ」
彼女の口から洩れた赤い血と困惑の声によって、簡単に堰き止められてしまった。