第四章 アリス=エーゼルク 2.敗北
焼けているかのような、痛みすら超えた熱のような感覚が斬られた個所を中心に全身へと駆け巡っていく。傷が内臓にまで届いているということはなさそうだが、だからといってこのまま放っておけば確実に死に至るだろう。
――いいや。
そもそも、僕はいつの間に斬られた?
地を舐めながら、僕は足りない頭で必死に考える。
ついさっきまで僕が押していたはずだ。入れることのできた有効打は一つだけだが、それでも相当な重傷を負ったはずなのだ。それこそ、今の僕のように立っていられないほどに。
とはいえ、ずっとこのまま地面に寝そべり続けているわけにもいかない。立たなければ。立って、反撃を――。
目前に見えた勝利を掴むため、僕は悲鳴を上げる体を無視して立ち上がろうとする。
立たないと……。
期待してくれたのだ。
応援してくれたのだ。
背中を押された。ならば、立って彼の前に立ち、続きを――。
「くだらん」
しかし、レオル=エーデルフォルトはさきほどと全く同じように、三度その言葉を繰り返した。
繰り返して、そして――。
僕の腹に、不快な異物感。
「え、ぁ……ッ?」
喉の奥から漏れ出る呻きのような何か。それと共に吐き出される鉄さび臭い液体が僕の視界に入った。
腹の中に何かを刺しこまれた……。
いいや、考えるまでもない。これは……これは……っ。
「生命力だけは一人前のものを持っているようだ。よもやそれほどの出血に加え、内臓まで貫かれたというのにまだ息をしているとはな」
彼の言葉によってようやく事態が把握できた。
僕の腹に突然生まれた異物感の正体。双剣の片割れがの身体を地面に縫い付けたのだ。
自覚した瞬間、これまで――この人生で感じたこともないほどの激痛が僕を襲った。
「ぎ、が……ァあああああああああああああああああッッ!」
もはや声の体を成していない絶叫を上げながら、地面をのたうち回ろうとする。だが、この体はいまレオル君の剣によって地面に縫い付けられてしまっている。長物が体を貫通しているというのに、それも考えず動こうとすればどうなるか。答えは簡単だ。まるで脳に直接痛みの信号を送られたかのような、直接的で、鮮明で、明瞭で、単純な激痛があった。
その痛みから逃れようとして体が意思とは無関係に跳ね、それによってまた傷口を抉られる。傷口が抉られればまた体が反射的に蠢き、そしてさらなる激痛が僕の脳を襲う。脳から発せられた痛みの信号が全身へと行き渡り、さらに体がビクビクと跳ねまわってしまう。
知らぬ間に、すでに決闘場には大きな血だまりができていた。
「ふん、重傷を負ってなお降参せぬか。いや……ただ言えないだけか? ならばしばしチャンスをやろう。降参したくば、地にその頭を擦り付けてエルザに手を上げようとしたことを詫びよ」
「が、ぁ……ぐっぅうううあああああああああああああああああああっ!」
「喚くな。その汚い声をエルザに聞かせるな。あいつは俺の誇りだ。本来なら彼女は、お前のような騎士の何たるかも分からないような男が言葉を交わすことすら許されないのだぞ」
「だ、まれ……っ!」
「ほう?」
苦し紛れに放った僕の弱々しい反論が、どうやら彼の癇に障ったらしい。
彼は目を眇め、不快げに口の端を蠢かせると、僕を刺した方の剣とは別の物を大きく掲げ、
「やめ――っッ」
観客席からのアリス様の静止など無視して、躊躇いなく僕の胸に突き立てようとした。
「ぁ、ああああッッ!」
これまでで最も黒く濃密な殺意を感じ取った僕は、激痛も無視して近くに落ちていた直剣を振るってその一刀を防いだ。
闘技場に響き渡る金属と金属が激突する高音が僕の耳朶を叩き、防御の成功を知らせてくれた。が、現実は甘くない。
レオル君はすぐに狙いを変え、迷わず僕の腹を突き刺した。
「…………ッ! が、ぅ……ぐふ、ぉ……ッッ?」
真っ赤な――否、赤黒い、汚らしい色をした液体がだぼだぼと漏れ出ていく。
「リオン君! いや、嫌だやめてッッ! お願い、もうやめてッ!」
意識が遠のいていく。
痛みという感覚が消えていき、やってくるのは虚脱感や倦怠感、そして寒気だ。
死というものを身近に感じる。
これまでやってきた命のやり取りの中で感じたものとは全く異なる、いっそ異質とさえ言えるほどの気配。
一秒、一秒と意識が遠のいていく。生の世界から切り離されていく。
ぽつり、ぽつりと地に雫が落ちる音がした。やがてその音は大きくなり、次第に滝のような音へと変じていった。雨滴が僕とレオル君の二人を濡らす血溜まりが滲み、広く広く流れていく。
眠ろう――寒さに震えながらそう決めた直後。
腹に刺さった二本の剣が、不意にガタガタと震えだし、僕の腹の中にある臓物や血管をめちゃくちゃに掻き回し始めたのだ。
手放しかけていた意識が無理矢理僕を生の世界に引っ張り上げた。引っ張り上げて、僕に死さえも生ぬるいと思えるほどの仕打ちを与えてきたのだ。
「ぎ、ぎ…………ッ。ぎ、ぃい……ッ!」
レオル君の顔を見上げようと顔を動かした。すると次の瞬間には、僕の腹を掻き回す双剣の勢いがさらに激しくなり、脳の許容量を超える痛みが体を襲った。
……まさか、僕に顔を見られることすら拒否するというのだろうか。
相変わらずアリス様の声が響いていた。声をガラガラに枯らして、喉から血でも吐きそうな勢いでレオル君に罵声を浴びせ続けていた。
だが、当のレオル君はそれを気にしている風はない。それどころか彼女を横目で流し見ると、ふんと鼻で一つ笑って、
「彼女はお前を誇り高い騎士だと信じていたのではないのか? 仮にも騎士の主ならば、己が剣である男の決闘を無粋な言葉で汚すべきではないはずだ」
そうして彼は吐き捨てるようにこう言った。
「馬鹿を絵に描いような女だ」
そんな風に、アリス様をくだらないものであるかのような口走ったのだ。
頭の中が一瞬にして真っ白になった。
激痛によって制御が聞かなくなっていた体が、小刻みに震えていた弱々しい身体が、一瞬にして軽くなった。
そして――、
「調子に……」
屈辱はやがて憤怒に、憤怒はやがて憎悪へと姿を変える。
「調子に乗るなぁッッ!」
「それはこちらのセリフだぞ。屑」
敵の言葉など耳には入らない。
痛みすら無視して。腹に突き立てられた双剣すら意識の外へ追いやり、僕は構えも何もない、一つとして技術の介在しない突進を行った。
殺す。
殺す殺す殺す。
殺してやるッッッ!
狙うは首。
憎悪と殺意を剥き出しにした、汚らしい、誇りも何もこもっていない『塵の剣』で、僕はこいつを殺すと決めた。
別に僕が軽蔑されるくらいなら構わなかった。
殺されるのも構わない。死にたいわけではないが、しかし騎士と騎士の立ち合いである以上、命を懸けるなど当然のことだ。そこに情けなどあってはならない。それは騎士に対する侮辱で、そんな侮辱を受けるくらいならいっそ死んだ方がマシだとも思う。
そして、情けを与えられて殺されなかったとしても――たとえ騎士としての侮辱を受けたとしても、僕はまだ耐えられた。耐えることが出来たはずだ。
ああ、だけど。
これは、ダメだ。
それだけは、やってはいけなかった。
僕を軽蔑しようが、殺そうが、侮辱しようが、何をしようが構わない。
だけど。
彼女を。
僕が愛するアリス=エーゼルクを貶めたことだけは許してはいけない。
騎士としてではない。一人の男として、絶対に。
「お前は……やってはいけないことをした」
大上段から振り下ろす荒々しい大振り。脳天をかち割って、その汚らしい顔を脳漿でグチャグチャにしてやるっ!
この人生で発したことがないほど純粋で濃密な殺意がレオル=エーデルフォルトへ叩き付けられる。それら全てを涼しげな顔で受け流しながら、彼は先と全く同じ言葉を唱えた。
「『鳴神』」
瞬く閃光。奔る稲妻。黄金の電光が周囲へまき散らされ、その威容をあらわにした。
レオル=エーデルフォルトは黄金の雷をその身に纏い、バチバチと火花が散るが如き異音を発する。彼が握る両の剣もまた金色の雷を帯びており、その刀身は、まるで光そのものであるかのように輝いている。
レオンが纏う雷は秒を経るごとに大きく、鋭く、眩いものへと進化する。
「これが――」
低く、厳かで、誇り高く――そして芯から竦み上がってしまうほどの憤怒があった。
「格の差、だ」
膨れ上がる殺気。これが先ほど僕を斬り捨てた力か。
殺気は感じ取れる。どの方角から、どのような力具合で、何度の斬撃が来るのか、それも全部わかっている。どうやって動けばいいか。
分かっている。分かっているんだ。なのに……、
「『己道・五芒星』」
視界が黄金で染め上げられた。
その黄金を切り裂くかのように、雷を纏った鈍色の軌跡が五芒星を描く。
まさに刹那にも満たない間に放たれた連撃。
視界を染めた黄金が消えた後に残っていたのは、訳も分からず立ち尽くす僕と、まるで双剣を振り終えたかのように残心するレオル君だった。
一秒後。
僕はさらなる鮮血を胴から噴き出して再度地に倒れ伏した。
「矜持も、信念も、誇りも何も持たぬ貴様如きが俺に届くわけがなかろうが。他の騎士にもそうだ。俺には約束があるし、彼らもまた譲れぬ願いや想いを秘めている。」
今度こそ、僕の意識は闇の底へと引っ張られていく。
「ただの自己満足で、ただ勝ちたいというだけで、一番になりたいなどという矮小な承認欲求を満たしたいだけの半端者が、二度と騎士などと名乗るな」
「ま、って、この、……クソ、が……っ! レオル……エーデル――」
「こうも言ったはずだ……ッッ!」
さらなる怒気と侮蔑を孕んだ声。ああ、この声は、この言葉は……覚えている。
そうだ。最初も、最後も……いつだって、彼はこう言っていた。
「俺の名を汚すな。お前のような愚鈍な男が口にしていいほど、俺の名前は安くない。もう二度と、二度と俺の前に姿を現すな」
それが、最後に聞いた言葉だった。
深いまどろみに身を任せようと地面に頬を付ける。闘技場の地面は少しだけ濡れていた。きっとこれは、雨なんかのせいではないと思う。
▽ ▽ ▽
リオン=クローゼが敗北した。
それはもう誰の目で見ても明らかだった。
だからこの決闘はこれで終わり。
速く激しく波打つ動悸と、心臓の辺りにあるどうしようもない不快感を無理矢理押し留めて、少女――アリス=エーゼルクは敗れてしまったリオンの元へ駆け付けようとした。
体の調子がいつも以上に悪い気がするが、そんなことに構っている暇はない。早く彼の元へ駆け付け、医者に見せなければならない。そして出来るのならば――今度は彼を正面から抱きしめて上げたい。
この前は後ろからしか抱き着いてあげられなかったから。ちゃんと包み込んであげられなかったから。
この敗北は、きっと彼の心に大きな傷を残してしまう。
もしかしたら、もう騎士をやめると言ってしまうかもしれない。
そんなことはさせない。
彼が誰よりも頑張ってきたことは、きっとアリスが世界で一番知っているから。どこかの鈍感バカよりも、きっと自分の方がよっぽど彼を認めて上げているだろうから。
アリスは痛む体を無視してひたすら走る。彼の元へ――。
そうして、会場内の廊下を走り回り、ようやく決闘場へ続く廊下に辿り着いた。出口から光が差し込んできている。普段なら、リオンが試合前に見ている光景に感慨を覚えたりするのだろうが、今はそれどころではない。
一刻も早く、一秒でもすぐに。
肺の中から何かが溢れ出してしまいそうで気持ちが悪い。
だが、もうすぐそこだ。
あと、少し……。
そう思いスピードを上げ、出口を抜けて決闘場へ躍り出た。
そこに。
意識を失ったリオンに向け、さらに刃を突き立てようと双剣を大きく掲げる『雷光の騎士』の姿があった。
何の比喩でもなく、アリスの心臓が一瞬だけ止まった。
そしてすぐに、我に返り。
「お前ェ! それ以上アタシのリオン君に手を出すなァッ‼」
「――断る。このような人の誇りを踏みにじる輩を、俺は許さない」
しかし当の本人に聞く気はなく、無慈悲に刃が振り下ろされた。その頭部へ向かって。
「いやっ、お願いやめ――」
「レオル、いい加減にしなさい! 決闘に私情を持ち込むなど言語道断ですわよッ」
凛とした声が決闘場を席巻した。
それまでレオルが支配していた空間が、一瞬にして金髪の少女の支配下に置かれた。
金髪の少女――レオルの主人であるエルザ・フォン・ルーセントは、その空気の変化に気付いているのかいないのか、淡々と、それでいて威厳溢れる風格で続けた。
「あなたは騎士です。私だけの、騎士。約束したでしょう? 共に頂点へ駆け上がると。それともあの約束を忘れたのですか? 違うでしょう。あなたにここでいちいち弱い者に構っている暇があるとは思いませんわよ」
「お前……黙って聞いてれば勝手なことを……ッ!」
アリスの怒りの抗議も無視して、エルザはなお続ける。そこにはもう、リオン=クローゼも、アリス=エーゼルクも映ってはいなかった。
「それに、騎士が殺めるのは騎士だけです。彼のような弱者を守る――それがこの国の騎士のあり方である――それがあなたの、ひいてはあなたが尊敬するお父上の矜持ではなかったのですか。あなたは……」
反論したかった。
だけど。
「彼とは違うのです。あなたは騎士なのですわよ」
最後の言葉。
それが誰に向けたのでもなく、ただの事実を述べただけだということは誰にだってわかる。
それはアリスですら例外ではない。
アリスは。
一人の少年に救われた少女は。
決闘場の真ん中で、何もできない自分を呪いながら嗚咽を漏らして涙を流し続けた。
すでに、騎士たちはこの場を離れて新たな高みへと歩み始めていた。
止まっているのは、二人だけ。
雨の中、少年と少女だけが取り残された。