第四章 アリス=エーゼルク 1.リオンvsレオル
敗北を知って、屈辱を噛みしめて、それでも僕を支えてくれる人がいた。背中を押してくれる人がいることがこんなにも身体を軽くするだなんて、今までの僕は知らなかった。
ゴトゴトと音を立てながら石造りの道路を馬車が進む。
窓から外を流し見る。鈍色の重い雲が太陽を覆い隠している。雨が降る前特有の、肌にまとわりつくような湿気が僕とアリス様の間に漂す。鼻腔をくすぐるのはカビのような臭い。
まるで不吉なことが起きる予兆のような気がしてならない。
「……雨、降りそうね」
「そう、ですね……」
アリス様もなにかいやな予感がするのか、平素よりも言葉の歯切れが悪いように感じられた。
あの日。
ベッドにもぐるアリス様と話したあの日から、ずっとこんな調子だった。
天気も、僕も、アリス様も。
いったい何がどうなって、こんな、歯車が噛み合っていないかのような毎日になってしまったのか、僕には皆目見当もつかない。
レオル君との戦いが近いことが原因なのだろうか。
違うだろう。
ただ、あまり深く考えない方がいいと思う。
今は目の前の敵に集中するべきだ。
レオル=エーデルフォルト。
『瞬閃』の異名を持ち、ここリアルタ王国の全土にその名を轟かせる若き天才騎士。彼と戦ったのは士官学校入学後の最初の大会と、そして最後の大会でだけだが、彼の実力は文字通り身をもって経験している。
彼は――『瞬閃』は化け物だ。
剣技だけで言えば僕と同等。それに加えて『瞬間加速』という、名前の通りの瞬間加速能力。一瞬にして己のトップスピードに到達できる力。そして、その一瞬に限ってだけ身体能力が倍以上とすることができる。
炎を出すわけでも時を止めるわけでもない。その原理はただの加速でしかない。しかし、彼の剣技がその力を数倍に押し上げてしまう。
近距離だろうが遠距離だろうが関係ない。一瞬にして敵との間合いを詰め、反撃を許さぬほど疾く鋭い一閃でもって敵を切り伏せる。よしんば一刀目を防いだところで、二刀流である彼は必ず、態勢が崩れ隙の生まれた瞬間を二の太刀にて喰う。
「……っ」
僕の能力をもってすれば二の太刀も防げる。逃げに徹すれば十手、二十手と刃を交わすことも可能だろう。だが、そんなことに意味はない。
勝つのだ。
背中を押してくれた誰かに報いるために、僕は勝たなくてはいけない。
会場に着いたのか、荷車を引いていた馬がその歩みを止めた。
僕はゆっくりと深呼吸をすると、馬車を降りてアリス様に向き直った。
「じゃあ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。……が、頑張ってね」
「はいっ」
そう答えておきながら、僕は身にまとわりつく不安を払うことができずにいた。
☆ ☆ ☆
控室ではひたすら心を落ち着かせることだけを考えていた。
決闘場へ向かう道ではひたすら自分が勝つビジョンだけを思い描いた。
そして、今――。
「なんだ、逃げずに来たのか。この双剣に弱者の血を吸わせたくはないのだが……仕方ない。お前を殺してすぐに刀身を洗うとしよう」
「相変わらず弱い人間には冷たいんだね」
「それは違うぞ。俺は、戦う理由を見出していない者が尊い決闘の場に立つことを嫌うだけだ」
目の前には赤い騎士服を身にまとったレオル君の姿が。
二人の視線が悪意を伴ってぶつかり合う。
僕とレオル君の間に、相手に対する礼儀や敬意を重んじる空気は存在しない。
あるのはただ、剥き出しの敵意と害意。目の前の敵を叩き潰すという最も原初的な衝動。
「エルザに手を上げようとしたことを、地獄で悔いろ」
「先に僕の主を汚したのはそちらだ。その落とし前は必ず付けてもらうよ」
互いが己の得物を手に取る。僕は直剣を右手に、レオル君は双剣を翼のように携えて。
「行くよ」
「こちらのセリフだ。構えろ」
右足に力を込め――、
僕らは同時に駆け出した。
☆ ☆ ☆
一歩目を踏み出し僕が一番初めに感じたそれは、体の芯から震え上がらせるかのような剣気、そして殺気だった。
五メートルはあった彼我の距離を一瞬にして詰められる。そこにリュージさんが見せたような技巧は存在しない。ただの速度。たった一瞬、瞬きにも満たない刹那の間に、彼は己の限界以上の身体能力を発揮することができる。その近接最強の能力でもって、僕を間合いの内に収めた。
振り抜かれるは僕から見て左斜め下から放たれる大振りな――それでいて目にも留まらぬ速度でもって放たれる斬り上げ。
空気を裂く鋭い音が僕の鼓膜を震わせる。その狙いはおそらく頸動脈であろう。一太刀でもって僕の命を刈り取るつもりだ。迫る刃――それを、僕は一歩身を引くことで難なく躱した。
しかし、レオル君の攻撃はそれで終わりではない。
続いて放たれるは左方の剣の疾く奔る刺突。その切っ先が向かうは心の臓。容赦なく、情け無用で繰り出される一撃。並の騎士ならばこの二撃目にて胸を穿たれていたであろう。しかし僕は違う。僕だけは違う。
彼と戦った多くの騎士が十秒と持たずその美しい剣に捉えられていたが、『人心断聞』を持つ僕だけは彼の剣筋を読むことができた。それは今とて変わらない。膨れ上がり一直線に僕の胸の中心へと向かってくる殺気が、その軌道を教えてくれる。
体を開くことで二撃目も危なげなく躱した。
「――ちっ」
レオル君が舌打ちを打つ。
ここまでの攻防にかかった時間は未だ一秒にすら満たない。
反撃を仕掛けようと一歩踏み出すが、あちらはすでに剣を引き寄せて防御の構えを取り直していた。
迂闊に踏み込めば確実に喰われるだろう。――が、ここで怖気づいているようではいつまでたっても弱いままだ。
僕はレオル君から放たれる質量すら感じさせる圧倒的な剣気を全身に受けながらも、その身を前へ進める。
レオル君が動く。
放つ動作は――その構えと殺気から、双方の剣を使った時間差の刺突と判断。
彼を間合いへと収める直前、僕は『虚刃』と『歪空間』を同時発動。光の屈折によって剣を隠し、僕とレオル君の間にある空間を捻じ曲げその目測を誤らせる。
「こざかしい」
しかし、聞こえてきたのはさしたる動揺を見せない不遜な声。
その余裕を、僕は砕く。
『歪空間』によって生み出した揺らめく空間にこの身を躍らせる。
ただし、真っ直ぐではなくほんの少しだけ斜めへ向かっての直進。
僕の体は、レオル君からすれば水面に映る像のように揺らぎ不確かなものと見えてしまっているだろう。
刺突が二撃放たれる。一撃目のコンマ数秒後に二撃目を。しかし僕はすでにそこにいない。
見当違いな場所へ放たれた刺突を流し見ながら『歪空間』を抜け、レオル君の左方五十センチの所へ出ると、何も考えず体を捩じって直剣を右から左へ一閃振り抜いた。銅を真っ二つに断ち切る軌道だ。
刃が脇腹へと吸い込まれていくかのように進む。が、剣が胴を完璧に捉えるその直前、甲高い音と共に僕の体が後方へと弾かれた。
「ぐっ――!」
――速い。
剣を突き出し、そして引くまでの時間が圧倒的に速すぎる。これが『瞬間加速』。士官学校時代よりもさらに速くなっている。
たたらを踏む僕へ、ここ好機とばかりにレオル君が双剣を振るった。
「や、ば……ッ!」
目に見えぬ太刀。辛うじて殺気を感じ取って剣筋を読もうとするも、ここまで態勢が悪ければ防御などかなうわけもない。無慈悲な斬撃が僕の腹と胸をそれぞれ浅く裂いた。血が尾を引き、その血すら断ち切りながら第三、第四の斬撃が僕を襲う。
僕は体面も何も気にせず、とにかく思いっきり後ろへと飛んだ。地面を転がってさらに距離を取る。流れるようにして立ち上がり、僕は再度直剣を構えた。
レオル君はこの一合で僕を捉えきれなかったことが不満なのか、苛立たしげに双剣に付着した血液を払っている。
「くだらんな。何をしてくるかと思えばただの目くらましか。それだけでも幻滅だというのに、その徹底的なまでの逃げの姿勢。お前やはり、戦いというものを舐めていないか?」
「…………っ」
「答える気はない、か……」
荒い息を繰り返すだけで答えを返さない僕に完全に興味を失ったのか、レオル君はもう一度「くだらん」と口の中でだけ呟くと、ゆっくりと双剣を左右に広げ、まるで翼か何かのように模したそれを、ゆっくりと後方へと引き――、直後。
僕の体が決闘場から消え去った。
「な、に……っ?」
あまりに唐突起きた現象に、あのレオル君がこの試合始まって――否、おそらく、士官学校時代から数えて初めて、動揺をあらわにした。
彼は真っ直ぐこちらへ向けていた体を半身に開き、後方へ引いていた双剣をもとの位置に戻した。
レオル君はかかとを浮かし、不意打ちに備える。
感覚を研ぎ澄ましているのだろう。先ほどまでのような、僕を雑魚としか見ていない目ではなかった。確かな警戒の色がうかがえる。
双剣を僅かだけ引く。
そして、レオル君が僅かだけ左へ動いた。
刹那の後。
彼の脇腹から夥しい量の血が流れた。
☆ ☆ ☆
「ぐ、ふ――ッ?」
レオル=エーデルフォルトの脇腹から夥しい量の血が流れ出た。
僕は彼を刺し貫いた感触をその手に自覚すると、剣を抜いてさらなる追撃の準備をする。
「これ、は――っッ!」
答えない。
「そうか、光の屈折でそこまで……」
バレてしまったが、もう遅い。この傷では戦いないだろう。
これがレオル君に勝つために編み出した新技――『無明御身』。僕の持ち得る魔力の全てを使って周囲の光を屈折させ、完全に世界から僕の姿を消し去ってしまう幻技。
圧倒的優位性。敵の知覚外から攻撃できるという絶対的なアドバンテージ。
卑怯だと言われようが構わない。アリス様を侮辱したその報いは、君に受けてもらう。
だが。
「では次は俺だな」
声。
その一声が引き金だった。
天才が、その牙を剥いたのだ。
「『鳴神』」
直後。
目を焼くような閃光が瞬き、
知らぬ間に五つの切創を胴に受け、僕は地に這いつくばっていた。




