かまって欲しい
「ねぇ、ちょっと愛……離れてよ」
「いやだ」
いくら引き剥がそうとしても、愛は私の背中にぺったりと張り付いたまま離れてくれない。
この調子でもう既に十分以上が経過していた。流石にこの体勢で勉強するのも疲れてきた頃だ。時折胸に伸びてくる手を跳ね除けるのにもそろそろ嫌気が差してきた。
長かった夏休みも終わり、季節が秋の色を見せ始めた頃。私と愛は数ヶ月後に迫った受験に向けて、日曜日の今日も勉強に勤しんでいる。
はずなのだが、愛は何故か勉強せずに私に抱きつくのに熱心だ。首筋の匂いを嗅いできたり、自分の胸を腕に押し付けてきたりとやりたい放題。これでいて今のところは私よりもずっと成績が良いのだから腹が立つ。
「ああもう! 勉強しないと落ちるよ!」
「受験生に落ちるとか言っちゃいけないんだよ」
実力行使に出て腕ずくで引き離そうとするが、小柄な割に異様に強い力でぎゅうっと抱き付いてくる。痛い、痛いって。
結局疲れるし痛いだけなので諦めて、勉強に集中しようとする。いちいち付き合っていたら冗談抜きに落ちてしまう。
今度は髪を指で梳いてきて、顔を埋めてくる。苛立つ気持ちを抑え、ふーっと息を吐いてテキストに集中。古文単語を覚えなければいけないのだ。おおとのごもる。をさをさ。はづかし。
その時、また私の胸に向けて指をわしわしさせながら手が伸びてきた。
「てい!」
「ぐえっ」
後頭部を思い切り後ろに向けて投げ出す。すると思った以上にクリティカルヒットしてしまったのか、愛は悲鳴を上げて畳の上に仰向けになった。両手で鼻を押さえ、「うーうー」と左右に転がる。
「ご、ごめん。しっかりして」
シャーペンを置き、慌てて愛の横に移動する。少しコツンと当てるくらいのつもりだったのだ。怪我させちゃってたらどうしよう。
「ひどい」
しばらく転がった後、ようやく落ち着いたのか上半身を起こす愛。鼻の先が少し赤く腫れている。
「匂い嗅いでただけなのに」
「ちょっ……う、うぅ……ごめんってば」
色々言いたいことはあるが、今回は私に非があるので素直に謝る。いや、あるよね?
無いような気がしてきたが、口を噤む。これ以上はきっと何を言っても無駄だ。
「これは何かお詫びをしてもらいたい」
「嫌です」
黙っていたら調子に乗ってきたのできっぱりと拒否し、テキストの置かれたテーブルの前に座り直す。「うー」と不満げに背後で唸る愛。気にせずに古文単語の勉強に戻る。かしづく。いときなし。いとほし。
「ねえってば〜」
懲りもせずに、再び愛は背中に張り付いてくる。むぎゅむぎゅという感触がうざったい。ついでに何かいい匂いが思考を遮ってくる。
「小春」
耳元で聞こえるウィスパーボイス。
「こーはるっ?」
顔を覗き込みながら、満面の笑み。私は完全に無視。
「小春ぅ」
今度は妙に色っぽい声で名前を呼んでくる。握ったシャープペンが折れるのではないかと思うほど、右手に力が篭った。ぷるぷる震えている。ぷるぷる。
「だああああ! さっきから何!? そんなに私に落ちて欲しいの!?」
遂に耐えきれなくなり、床を思い切り蹴って立ち上がると愛を見下ろす。
愛は口をぱくぱくさせ、珍しく驚いたような表情を見せた。それもそうだ。今まで私はどんなに触られても頭を撫でられても匂いを嗅がれても首筋に唇をつけられても怒ってこなかったのだから。
しかし、勉強の邪魔をされるのは話が違う。
「そ、そんなつもりじゃ」
「じゃあ何!? どんなつもりなの!?」
滅多に大声を出さない喉が痛み出す。危険信号だ。
「だって」
「だってごほっげほっ……だって何!?」
イガイガとした痛みが喉を苛む。咳払いをして、愛の前に腕を組んで乱暴に腰を下ろす。
愛はいつになく真剣な表情でじっと私の瞳を見つめている。目尻に薄っすらと涙が滲んでいた。
そして震える口元を動かして、言葉を絞り出すように、
「だって、最近構ってくれないじゃん」
「……はぁ?」
何を言い出すかと思えば、そんなこと。
私も愛も受験生なのだから構っている暇が無いのなんて当たり前だ。それに構っていて受験に失敗したら元も子もないだろう。
「昔はもっとこう顔を赤くしてさ、抱きつき返してくれたりさ」
「ちょっ、記憶を捏造しないで!」
抱きつき返してはいないが、確かに昔はもうちょっと反応してあげていたのは事実かもしれない。でも繰り返すようだが、私たちは受験生なのだから今そんな余裕は無いはずだ。
「もっと構ってよー!」
しかし声を上げながら、突然愛は私に飛びかかってきた。反射的に逃げようとしたが、背後にはテーブル。
「ぎゃっ」
ゴン、と後頭部を打ち付けてしまい、目の奥で星が散る。
「いたた」
畳に仰向けに倒れて目を開けると、超至近距離に愛の顔が迫っていた。ギョッとして逃げようとしても、頭の左右に愛が手をついているので逃げ場が無い。
愛は今にも泣き出しそうな表情で、
「確かに勉強は大事だよ? 大事だけどさ。小春ったらそればっかり」
言葉が震えている。
つまり、こういうことらしい。
愛は単に私に構って欲しいだけなのだ。愛の事情に私を巻き込むなと言いたい。
でも、その責任は私にもある。
確かに最近、勉強勉強で愛の扱いが適当になりすぎていたかもしれない。私に構ってもらえないといじけてしまう子だってことは知っているはずなのに。
すごく面倒だ。
でも一番面倒なのは、そんな子を放っておけない私自身だ。
「……愛」
「な……にっ!?」
愛の背中に手を回して抱き寄せる。予想通り、チビ––––小柄な愛はとても軽く、私の肩に顔を埋めた。
水泳の時のように足をバタバタさせる愛。「んー!」とくぐもった悲鳴を上げている。
「どうしたの? いつも自分からやってるでしょ?」
つい揶揄いたくなってしまい、耳元で囁く。さっきのし返しだ。愛の耳がみるみるうちに真っ赤になっていく。少し面白い。
足がぶつかって来て少し痛いので、私の足を絡ませると愛はようやく顔をこちらに向けた。訳が分からないというように唇を震わせて、顔を朱色に染めている。
「ど、ど、どうして」
「構って欲しいんじゃないの?」
「そう、だけど、なんでいいいきなり」
「さぁ?」
そう言って、微笑んでみる。愛は蒸気が出るほどに顔を赤くして、電池が切れたように倒れ込むと、顔を私の胸に埋めた。ちょっと。
「……か、勝った」
ただの照れ隠しか、そんな感想を述べてきたのでまた苛立つ。小柄なくせにそんなものを持っている愛の方がおかしいと思う。
「……」
「……」
何とも言えない沈黙。
勢いだけでやってしまったが、こんなに照れられてしまうとこちらまで恥ずかしくなる。
愛が私のことを好きなのは知ってるけど、これじゃまるで本当の意味で「好き」なのかと勘ぐってしまう。……いや、無いな。
今までは抱きつかれるだけだったけど、いざ抱きついてみるとその柔らかさが改めてよく分かる。スイーツの食べ過ぎだろうか。見た目はまったく太ってないけれど、実は危ないのかもしれない。
それに、どうしてこんなに良い匂いがするのだろう。これが女子力か。
それは置いておいて、いつまでもこうしているわけにもいかない。どうにかしないことには、この気まずい空気のまま抱き合うという謎の状況は続くばかりだ。
嘆息。覚悟を決めて、口を開く。
「……私、愛みたいに頭良くないからさ。勉強しないと同じ大学に行けないんだよ」
「えっ?」
愛が驚きに目を丸くする。それもそうだ。だって、これは今までずっと内緒にしてきたから。
癪な話だが、愛は成績がすごく良い。先生からも一目置かれていて、有名私立大学への入学が期待されている。だから大したことのない成績の私が同じ大学に入るなんて夢のまた夢で、寝る間を惜しんででも勉強しないといけない。
でも、最近ようやく模試で合格を狙える圏内にまで入ってきた。だから愛にそろそろ伝えても良いかなとも思っていたのだ。だって。
「私がいないと、寂しがるからね」
「こ、小春ぅ……」
ぶわっと、愛の目から涙が溢れた。マズいと思ったのもつかの間、嗚咽を上げながら私の胸にまた顔を押し付けてくる。ふ、服が。
「ちょっ、愛! ……ったく」
洋服がぐちゃぐちゃになる前に引き剥がそうとしたけど、諦める。どうせ簡単に離れてなどくれない。代わりに頭をポンポンと叩いた。
「ごめ、ごめんね小春ぅ……わ、私何も知らないのに勝手なことばっかり……うえぇ」
「……もう慣れたよ」
「わ、わだし応援するがらあああ」
「……いや、愛が落ちたら元も子もないんだからね?」
あの日から、愛が私の勉強の邪魔をすることは一切なくなった。
二人で同じ大学に入ろうという約束のもと、何とか勉強を続けている。
でも、少し思ってしまうのだ。
ほんの、ほんの少しくらいなら邪魔してくれても良いのに、と。
これじゃ愛のことも悪く言えないな、と真面目に勉強する愛の横顔を見てため息を吐いた。
よし。
「ねぇ、ちょっと小春? これじゃ書けないから離れてよー」
「いやだ」
リハビリ用に書いた短編です。