誰もわかってくれない
声が聞こえだした。
悲鳴のような、それとも懇願のような泣き声。
その声は周囲の音をかき消すほど強く。それでいて優花意外には聞こえていない。
優花はその声の向こうに確かに憎悪を感じていた。
言葉の意味は聞きとれない。それでも悪意だけははっきりと伝わる。
優花は爪を噛んだ。聞こえてもどうしようもないなら無視すればいい。
だがどうしても耳について離れない。
優花は小さく唇をかむ。
ここ最近、さまざまな異常事態と対峙してきた。しかしここまで自分の力の及ばない事態に遭遇したのは初めてかもしれない。
「沙依」
いい加減うんざりして、優花は沙依を呼びだした。
沙依は空中からまず頭半分をおずおずと出してきた。
輪切りにされた人の頭だけがさかさまに浮いているように見える。
「すいません、怖くて降りられません」
沙依の泣き言に、優花は目を瞬かせる。
「何が怖いの?」
「あの影にとても、怖いものが、怖いものがいます。だからいや、お願いです呼ばないでください」
しくしくと泣き声を残し、沙依りの頭は再び引っ込んだ。
「ちょっと待ちなさい」
優花は力なく呟いたが、あの様子では沙依が戻ってくることはないだろう。
優花にしか聞こえないはずのあの悪意に満ちた声はどうやら沙依にも何らかの影響を与えているようだ。
優花は不快感をこらえて、声に意識を集中させる。
不快だからと言って、無視していてもはじまらず、むしろより事態を悪化させる可能性が高い。だからはっきりと見極める。
優花は目を閉じ、耳だけに全神経を集中させた。
声はどこで聞いたような、それでいて初めて聞くような、そんな声だった。
遠い異国の全く単語も知らない言葉のように思え、それでいて、あと少しで優花の知っている言葉が聞き取れるようなそんな気がする。
そして、優花はじっとりと冷たい汗をかいていることに気づいた。
どす黒いものに、取り囲まれ、徐々にがんじがらめにされようとしている。
怨嗟の声と思っていたものは徐々に笑い声に変わっていく。
先日見た歪んだ笑みを浮かべた女の顔を思い出した。
そう言えば、よってくるものに明確な意思を感じ始めたのもあの顔を見た直後からだった。
優花は脳裏にその顔を思い出そうとしてみた。
歪んだガラス越しに見たような顔の造作を正確に思い出すのは難しい。
それでも何とかパーツごとに修正を加えて、正しい顔を思い出そうとする。
いつしか声は耳をつんざく笑い声になっていく。
「何をしているの、優花」
襖があいていつの間にか来た母親が怪訝そうな顔をしている。
「ご飯だって何度も呼んでも返事もしない、寝ていたの?」
優花は小さく頷いた。
声は響いている。
脳髄が割れそうな思いを押し隠して、優花はのろのろと立ち上がった。




