一番の犠牲者はピアノ
坂上先輩のピアノはずるい。
自ら弾くときは私の知らないような、おそらくはクラシックが多く、初めて会ったときのような重厚な音を奏でるときもあるし、繊細で切ない印象の曲やリズミカルで可愛らしい曲を弾く事もあった。私がリクエストすれば、ドラマやコマーシャルの曲も一度聴けばあっさりと弾きこなしてくれた。
ピアノと向き合うときの先輩の横顔は真剣そのもので、一音一音に心を込めている事が伝わってくる。なんて、ずるい。そのときだけは、坂上先輩の不良っぽくて強面の容姿も、生存に全力を懸けて思いきり滑っているその性格も全て忘れて、ただ単純に格好良いなあ、と見惚れてしまう。
これが蜜の言っていたギャップ萌えというものか。なるほど、恐ろしい破壊力である。この人、最近ではお昼ご飯の度に、私のお弁当を物欲しそうに見つめる癖に。
坂上先輩は我が母お手製のお弁当の虜になってしまったようである。確かに我が母ながらとても美味しいので、その気持ちも分からなくはないけれど。
今日も、蜜が昼休みに用事があるという事で私は先輩と二人でお昼ご飯を食す事になり、今は音楽室での食事も終わって先輩がピアノを弾いていた。ちょうど私のリクエストだったドラマの主題歌を弾き終わり、グランドピアノの端から鍵盤側の坂上先輩のそばに回り、拍手を贈る。
「拍手止めろ」
「どうしてですか?聴き惚れたので、素直に表現しているだけなんですが」
「………大したものじゃない」
すると、坂上先輩は眉間に皺を寄せる。一瞬、怖い顔になったので私のチキンハートがビクリと跳ねたが、努めて冷静に観察してみて気付いた。どうやら坂上先輩は照れてしまっているだけのようである。意外と可愛い所もあるようだ。
「小さな頃からピアノを始めていたんですよね」
「母親が一応、ピアニストだからな。物心つく頃には、ピアノが一番の遊び道具だった」
彼は『一応』と言っているが、蜜にその母親の名前を聞いてインターネットで検索をかけたところ、ありとあらゆる記事が見付かった。その夫である坂上先輩の父親についても。どうやら両親共に世界的に有名な指揮者とピアニストらしい。住んでいる世界が違う。
「凄い環境ですよね」
「そうか?俺にとっては当たり前の事だから、よく分からん」
「え、でも前世の記憶があるならそれと比べて凄いとか思いません?それとも、前世も何かそういう特別な家庭だったんですか?」
「いや、たぶんサラリーマン家庭で共働きだったと思うが……」
坂上先輩は気難しそうな表情で言葉を濁す。何やら言いにくい事があるようだ。もしかして、家庭が上手く言っていなかったのだろうか?先輩曰く、ゲームの『坂上俊希』は家庭への反発心から不良行為を繰り返していたらしい。しかし、先輩自身は今のご両親との関係も良好だと言うし、ならば不良化する原因は前世の方にあったとか。
少々気に掛かったものの、他人の事情に図々しく首を突っ込むのもどうかと思い、この話題を終わらせる事にした。
「あと、先輩。ちょっと気になっていたんですけど、先輩は死なない為に私をそばに置いているじゃないですか」
「そうだな。おまえが余所の男に惚れれば俺に死亡フラグが建つ」
蜜辺りがよく使いそうな言葉だが、見た目不良の坂上先輩に『死亡フラグ』という言葉は似合わないと思った。いや、見た目だけは清純な美少女の蜜にも似合いはしないけど。
「それなんですけど、他の人に関わらずに先輩とばかりいれば、私だって鬼ではないので当然他と比べると先輩に情が湧くはずです。その場合って、他の攻略対象キャラの人に死ぬ可能性とかが生まれるんでしょうか?」
私の気付いた可能性を、先輩はすぐに否定した。この世界がゲームの世界であると信じ切れず、暢気に構えている私はさして真剣に捕らえられないので今更その可能性に気付いたのだが、最初から真剣な坂上先輩は当然その可能性についても一考していたようだ。
「俺もそれは懸念していたが、たぶんない。『あの人』は攻略対象キャラが『振られると』という言い方をしていた。だから、おそらく攻略対象キャラがヒロインであるおまえに惚れさえしなければ、たぶん誰も死なない」
「?それなら、先輩だって私に近付かなければ良かったんじゃないですか?」
「甘いな、恋愛はいつだって思いがけない所から始まるらしいぞ。俺だって一応攻略対象の役を振られているからには、何かの拍子に惚れてしまうという危険はある。おまえに愛される事が一番安全なら、俺はそれを選ぶ」
日々死にたくないと公言するする坂上先輩は、そう神妙に口にした。まあ、私は全く先輩を愛していないけれど。そして今後も愛す予定はなく、また、先輩も私を愛してなどいない。
もしも何らかの不幸な奇跡が起きて、私のせいで先輩や他の誰かが死んでしまっては寝覚めが悪い。だから、先輩のその見解にほっと安堵の息を吐いた。
自身の精神の平和の為には、坂上先輩に協力する事もやぶさかではない。
「分かりました。それなら私も安心です」
要は、念の為私は坂上先輩のそばにいて、その上で誰にも好かれなければ良い。なんて簡単な事だろうか。教室の隅っこで埋もれている系女子の私には容易い。
「おまえまで、思い煩わせて悪かったな」
「いえ、そこまで深くは考えていませんのでお気遣いなく」
まあ、公共の場で端から見ると独占欲丸出しの彼氏のような発言を叫ばれる事だけは、今すぐ止めて頂きたいが。切実に。ええもう、本当に。
「あ、そうそう。もう一つ伺いたいんですが、坂上先輩って私の名前を覚えていらっしゃいますか?」
確か、校門で待ち伏せされたあの日に、お互いに名乗り合ったはずだ。
「覚えてるが、それがどうした?」
「いえ、いつも『おまえ』と呼ばれるので忘れられたかな、と」
実は蜜に指摘されて気付いた。私はどうもその辺にこだわりがないし、『おまえ』と連呼されても特に何も思わないのだが、『もし忘れられてるなら酷いよ。聞いてみなよ』と蜜に言われた為、良い機会だとついでに聞いてみた。
「そうだったか?………気を悪くしたなら、今後は名前を呼ぶようにする」
「いや、どっちでも良いんですけど……」
何だか詰まらない事で文句を言ったようになってしまったかもしれない。私は若干の気まずさを覚え、それを誤魔化す為に屋根を開けたピアノの側板に手を掛けて内部を覗き込む。こんな複雑怪奇なものがピアノの音色を弾きだすのだろうか。不思議である。
しかし、私のそんな事なかれ主義な態度など気にも留めず、先輩は無駄にはっきりとした声で、私の名前を口にした。
「要」
ゴンッ!
衝撃の余り内部を覗き込もうとした拍子に額を側板に打ち付けた。良い音がした。実に痛い。
「おいコラ、楽器は大切にしろ」
咎める坂上先輩へ、声には出せない代わりに私は心の中で叫んだ。
誰のせいだと思っている!
薄々、薄々は勘付いていたのだ。坂上先輩はこんな不良系の容姿である。目が合った途端に怯えてしまっても仕方がない、と思わせるような分かりやすい不良である。しかしそれはきっと見た目だけだった。
先輩はただの『天然』だ!
普通、ここは名字を呼び捨てだろう。校内でどう思われていようと、私と坂上先輩の実際の関係はただの先輩後輩だ。プライベートで親しい訳でも無い後輩を、何故いきなり下の名前で呼び捨てにした!
少しは考えて!同世代に親しい男の子がいない、枯れた私にとって、それはグランドピアノで額を打つほど衝撃だったのだ。
この上顔が赤い事まで知られてしまっては悔しくて堪らないと、ピアノを心配する坂上先輩を無視して顔を隠した。
読んで頂きありがとうございます。
ピアノの心配を一心にする坂上は『こいつピアノに頭打ちつけて何やってんだ?』と怪訝に思っております。