ある攻略対象者の独白
坂上俊希のお話です。読まなくともあまり差し障りはありません。
坂上は一言も喋りません。
その世界に何とも形容しがたい違和感を覚えたのは、物心つくかつかないか、という年齢のときの事だった。何かが違うな、と思った。『前』はもっと………そう考えたところでいつも思考が停止する。頭が真っ白になって呆然とし、何を考えていたのかも忘れてしまった。その為、母にはよくボケっとしている子どもだったと、未だにからかわれる。
その『何か』の正体に気付いたのは、四歳のときの事だった。風邪をこじらせて入院する事になったのだが、その際多くの既視感に襲われた。決定的だったのは、点滴用の針を刺しても泣かない事で看護師に褒められ、慣れてるから平気、と答えたときだ。そのとき、母が苦笑しながら言った。
『何言ってるの。身体だけは丈夫で、点滴なんて初めてでしょうに』
そんなはずはない、と思った。毎日注射と点滴を繰り返していたはずだ。褒めてくれる看護師にも違和感を覚えた。違う、看護師という人は、もっと悪戯っぽくからかってくるはずだ。頭の中を多くの疑問符が飛び交う。何かがおかしい、そう思うのに答えを掴めない。ぐるぐると考え込み、更に熱が上昇して倒れたその日。そうして目が覚めた俺の中には、今の俺ではない記憶があった。
その記憶の中の俺は、十代中頃の少年で、けれど、その年の少年にしては小柄で線の細い印象だった。ベッドに腰掛け、足をブラブラと揺らし、詰まらなさそうに窓の外を見ている。まるで、恨むように妬むように。
『なぁに黄昏てんのよ、若人が』
そういうとき、決まってからかうような口調でそんな彼の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜる人がいた。あの場所は病院で、その記憶の中の彼はそこ以外の世界を知らず、その人だけが『外の世界』への足掛かりだと思っていた。
それ以後、記憶は目まぐるしく蘇り、それが所謂『前世の記憶』と呼ばれるものだと気付いたのは小学校に上がってからだった。
小学校に入学すると、記憶の中の自分自身がより鮮明になり、その自分が感じた感情も今の自分のものとして実感出来るようになっていた。記憶の中の彼は限りなく自分に近しい誰か、だった。
彼は生れ付き病弱で、人生のほとんどを病院の中で過ごしていた。思うように動いてくれない身体をいつも悔しく思っており、その感情に共感していた俺は、全力で駆け抜ける事が出来るこの身体に涙が出そうなほど感動した。
前世で出来なかった事を、全てやり遂げてやろうと思った。小学校に入学すると皆勤賞を目指して、毎日喜んで登校した。同級生と机を並べる光景が新鮮で、授業を楽しんだ。動き回れる身体が嬉しくて、体育では人一倍張りきった。毎日はキラキラと輝くようで、新しい喜びの発見ばかりだった。
そんな中で、その記憶が衝撃的な事実をもたらしたのは、小学校の卒業も間近に迫った頃の事だった。
前世の記憶の中に、不思議な看護師がいた。不思議、というのは随分オブラートに包んだ表現で、有り体に言ってしまえば変な看護師だった。
馴れ馴れしく図々しくて、度々彼のそばに寄って来ては、彼の事をからかって遊んだ。自称オタクをこじらせた看護師は、勤務時間外でも暇を見つけては彼の所へ現われ、いかに二次元の世界が素晴らしいかについて語り聞かせた。しかし、それに興味を抱こうにもその看護師は相手の好みに合わせるという事をしない人で、一押しされたのは私立高校が舞台の女性向け恋愛シュミレーションゲームだった。ヒロインである女の子が男性キャラを恋愛的な意味で落としていくのである。
看護師は少年であった彼に特にお勧めだというソフトと攻略本を押し付けた。彼はからかわれているのだろう、と自覚しつつも一応勧められたからには試してみよう、と攻略本の登場人物紹介の欄を読み込み、早々に挫折した。何が楽しいのかさっぱり分からなかった。そのときの記憶が、不意に蘇ったのである。
ふと、窓の外を見た。そのときは夜の九時を回っており、外はすっかり真っ暗だった。対して自室には電気が点いており、カーテンも締めていなかった為に窓には自身の顔が映り込む。
見慣れたはずの自身の顔が、誰か別の人物のように見えた。徐々に子どもらしさが抜けてきている面立ちの中で、目付きの悪さが気になった。将来の為に勉強に励むのは良いものの、視力が落ちて目付きが悪くなり、遠くを見ようとすると自然に睨むようになってしまっていた。調子の悪いときはピアノの楽譜も見えにくく感じる。
そこで、気付いた。ピアノ、それを教えてくれた両親、目付きの悪さ、そしてこの『名前』。
『坂上俊希』―――――――俺は、看護師のあの人が教えてくれた、乙女ゲームの攻略対象者だった。
一つ思い出せば、芋づる式で様々な記憶が蘇った。俺が攻略対象者である乙女ゲームの舞台は高校であり、俺が二年生のときに一年生のヒロインと出会う。音楽室でピアノを弾いていると、そこに教科書を忘れたヒロインが現われるのだ。
攻略本の登場人物紹介の欄にしか目を通さなかったが、所々看護師に熱く語られた所だけよく覚えていた。その中には、今の俺の命の危機を知らせるものまであった。
『ま、そんな感じで結果としてヒロインに振られると死んじゃう場合がある訳。製作者鬼だよね。イケメンに恨みでもあったのか』
そんな感じってどんな感じだ。思わず自分の記憶にツッコミを入れてしまった。肝心な所が抜けている。興味がなく聞き流していた前世の自分を恨んだ。
俺は死にたくない。せっかく、今度こそ健康な身体に生まれたのだ。これまで大病を患う事もなく、風邪さえ滅多に引かなかった。俺には、やりたい事がまだまだ沢山ある。前世で叶わなかった事にどんどん挑戦していきたい。いずれは医者になって俺のような子どもの助けになり、そうやって生き抜き、死ぬのは年老いてからで十分だ。
だからこそ、この世界がゲームの世界である、という突飛な状況に戸惑うよりも、確実に生き抜く為の対策に心血を注ぐ事に決めた。
ヒロインに振られれば死ぬかもしれない。それならば、絶対にヒロインに振られないようにするしかない。
生きる為の手段は、あっさりと定まった。俺は、自身が死なない為にヒロインに俺を選ぶよう頼み込み、間違っても他の男に気持ちを寄せないように見張る事にした。
そうして知り合ったヒロインが、向田要だった。一目見た印象としては、どこにでもいる普通の女の子、という感じだった。細身で平均よりも高めの身長、染めてない髪は肩までの長さで毛先が少し跳ねている。顔立ち自体は釣り気味の目元など、意思の強そうな印象だが、その表情はいつも少し困ったように緩んでいる。
『………分かりました。死なれては私も寝覚めが悪いですし、そのくらいの事なら協力します』
要は明らかに困り果てた様子ではあったものの事情を説明し、必死に頼み込めば彼女に他の男が近付かないよう、そばに付いている事も許容してくれた。
要は良い奴だった。何かと俺に呆れた様子を示すものの、けして見捨てる事はなく、最後には仕方がないですし、と言って受け入れる。母親作だと言う絶品のお弁当を分けてくれるし、俺の夢を笑わないでくれた。こちらの我儘で、勝手な言い分を彼女に押し付けている事は理解していた。だからこそ、困ったような表情の多い要が、時々零すように笑ってくれるとほんの少し心が晴れた。
『初めて数学と分かり合えるような気がしました………』
要の勉強を見てやると、素直に感心して頷きながら話を聞く。理解をすれば顔を輝かせてお礼を言う彼女が可愛かった。俺の周りには、何故か強気で強引な女性が多いので、要の反応は新鮮だった。
始めはただ死にたくないばかりに要の動向を監視していた。彼女が男と関わり、間違っても相手を好きにならないように。けれど、いつしか単純に要と過ごす時間自体を楽しく感じるようになっていた。仕方が無いなあ、とでも言うように苦笑して受け入れてくれる彼女のそばは、思いの外居心地が良かった。
そんな様子さえ、さすがヒロインだな、と感心していた。俺は彼女がヒロインであると、全く信じて疑っていなかったのだ。だからこそ、
『私は、ヒロインではありません』
そう、彼女から根拠を持って断言されたとき、言葉を失った。そんなはずはない、と口を突いて出そうになった。けれど、俺のその主張は要と違って根拠などない。強く微笑む彼女は、そんな曖昧な主張を拒絶するようだった。
「そんなに気になるなら話しかけてみればいかがですかー?」
要に本当のヒロインだと教えられた音川蜜は、冷めきった目を俺に向けた。いつもどこか楽しそうに目を細めていた音川が、最近ではそういう冷たい表情をするようになった。不満があるなら言えば良いと思うが、何となく彼女は得体が知れず、安易に言葉を紡げない。
「最近、ずっとそうじゃないですか。遠くからカナちゃんを見てるばかり」
呆れたように、音川はわざとらしく溜息を吐く。いつも要を挟んで俺と接していた音川は、一人でいるとこうして不満げに声を掛けて来るようになった。
せっかく要が、音川蜜がヒロインだと教えてくれたのだから、俺は自身の命を守る為に今後は音川の動向に気を付けるべきだろう。音川は交友関係が広く、他の攻略対象者とも仲が良いと要から聞いていた。それなのに、俺はあれからも要の様子ばかり伺っているのだ。
音川には答えず、廊下から要の様子を窺っていると、不意に彼女がこちらを振り返る。しかし、要はすぐに目を逸らすと立ち上がり、こちらに近付く事無く教室を後にした。
「あ、鈴鹿」
音川がまるで要の後を追うように人垣から離れた人物の名前を呼ぶ。攻略対象者の一人であり、テレビでもよく見かける若手俳優の鈴鹿伊織だった。
「知ってますか、先輩。最近彼がやたらとカナちゃんに構うんですよ。カナちゃんの事をじっと見つめている事もありますし」
それには俺も気付いていた。こうして離れて要を見ていると、彼女を見ている鈴鹿の姿も自然と視界に入る。
「カナちゃんの事、気になってるとか?俳優であれだけの美形です。好かれて悪い気になる女の子なんて、早々いないでしょうね」
音川が、まるで訴えかけるように呟く。そんな事を言って、何をどうしたいのだ。
「先輩はそれで、良いんですか」
良いも悪いも、要はヒロインでは無い。俺の命を左右する訳でもないのなら、彼女の動向に口出す権利も理由も俺には存在しないのだ。
音川の言葉に答えず、ただ無言で要の立ち去っていった方向を見詰める。廊下の突き当りまで歩いて行くと、屋上へ向かう階段を上っていった。屋上は閉鎖されているのに、階段なんて登ってどうするのだろう。
ぼんやりとそう考えていると、突然音川に胸倉を掴まれた。
「あー、もう!貴方はいつもそう!健康で随分大きくなったと思ったのに、中身はちっとも変わってない!ちゃんと言ってくれないと周りは分かんないんだって教えたでしょうが!!」
突然の事で、音川が何の事を言っているのかさっぱり分からなかった。俺は、彼女にそんな事を教えてもらった記憶などない。俺にそんな、強気に説教をする人物は『あの人』くらいで―――――
「思った事はちゃんと言いなさい。周りは、カナちゃんは、耳を傾けてくれる。抱え込まれる方が、周囲は哀しいんだから」
音川蜜は、戸惑っている俺の背に回り込むと強引に背中を押す。その強引さに戸惑いながらも流されて、そういえば彼もこんな風に背中を押されていたな、と妙に懐かしく思った。
読んで頂きありがとうございます。
要視点にのみ意識して書いてきたので、非常に書きにくかったです。無くても良いように思いますが、次のお話に続く為にある方が分かりやすいかな、と思ってしたためました。
予定ではあと二話で終わります。そうなるとちょうど二十話で完結なので、なんとかそこで収めたい所。