もう少しだけ
坂上先輩が修学旅行に旅立ってから、毎夜私の様子を窺い、男性との接触が無かったかを確認するメールが届く。
先日、瀬尾君とばったり遭遇をした事を素直に報告しようか、非常に悩んだ。伝えれば、十中八九面倒な事になる。坂上先輩は自身の命の危機に、大いに焦るだろう。旅先で気を揉ませるのも忍びない。
しかし、だからと言ってここで秘密を作ってしまえば、何だかやましい事があるようだ。私は誤解の無いよう、見掛けて挨拶しただけで会話らしい会話も無かった、という事を正直に伝えた。
『そうか、分かった』
そのときの先輩の返信も、この程度だった。先輩も挨拶程度では何も言わないようだ。挨拶は人として基本であるし。――――――――そう、安易に考えた昨日の私はなんて浅はかなのだろうか。先輩に聞きたい。
一体『何が』分かったのですか?
「坂上先輩に頼まれて迎えに上がりました!」
目の前で、天使が微笑む。逸る気持ちの為か頬は上気しており、決意の眼差しでキリッと表情を引き締めていても、愛らしさしか感じられない。声も、少年にしては高いボーイソプラノで、やはり彼は天使なのだと納得する。
用事があるから、と教室で蜜と別れ、一人下校しようとする私を校門で待ち構えていたのは、いつか見た天使。新堂譲君だった。
新堂君は使命感に満ちた表情で私を庇うように斜め前を歩き、周囲を警戒していた。ちょっと待て、一体私は何から狙われているんだ。どこからともなく刺客が姿を現すとでも言うのか。
新堂君の目的は私が男性と接触するのを阻む事である、と相互確認し、それならば普通に隣を歩いても問題無いだろう、と説得してなんとかその怪しげな行動を改めてもらう。
隣を歩く新堂君の身長は私とそう変わらなくて、金色の髪がふわふわと風に揺れる様子が視界に映り込む。この辺りで有名な私立中学の男子生徒の制服を着ているので、間違いなく男の子のはずだが、見れば見るほど天使と呼ぶに相応しく、失礼ながらやはり女子生徒の制服を着ても問題無いと思ってしまった。
「なんか、ごめんね。わざわざ家まで送ってもらっちゃって…」
「向田さんが謝られるようなことではありませんし、気になさらないで下さい。坂上先輩のお願いとあらば、お安い御用です」
新堂君はそう微笑んでくれるが、どう考えても、先日の私のメールでの報告が原因だった。きっと先輩は、ヒロインと仮定されている私が男性と接触する事を恐れ、新堂君を下校時の見張り番として寄越したのだ。
しかし、それでは新堂君も危険な男性の一人では無いのか?新堂君が私に好意を抱く可能性など万に一つもないだろうが、少なくとも先輩は自身の後輩である新堂君も、攻略対象キャラの一人として私への接触を警戒していた。
「あ、どうして僕が向田さんに近付くのを先輩が許して下さったのか、という事が不思議なんですよね?」
すると、私の疑問を察してくれたらしい新堂君が、確認する。いつも坂上先輩と一緒に渡っていた私の家へ続く橋を、今日は新堂君と渡りながら、彼の話に耳を傾ける。
「じ、実は……」
新堂君は林檎のように頬を赤く染めて口籠る。何だろう、この可愛い生き物。仮にも女子である私だが、とてもじゃないが太刀打ちできそうもない。
「………すっ、好きな女の子が、出来まして……」
「ええ!」
恥ずかしげに俯く新堂君に、私は思わず声を上げる。天使が恋!い、いや、天使のように見えても、彼だって人間の男の子だ。そういう事もあるだろう。………ん?ちょっと待って、攻略対象キャラである彼が好きになる女の子、という事はもしかしてその子がヒロインなのではないだろうか。
「ねえ、新堂君。相手の女の子って、今何歳?」
「?十四か、十五だと思いますよ。私立の女子中学の子で、今三年生だと言っていたので」
新堂君の答えに拍子抜けする。ヒロインの年齢は坂上先輩の一個下だと言っていた。それならば、その女の子はヒロイン候補から外れるだろう。
「すごく素敵な子で、すごく好きになってしまって、だから坂上先輩は向田さんに近付いても良いとおっしゃったんだと思います。僕が向田さんに惹かれる事は無いと思って」
その説明を聞いて納得した。私なら、その状況でもまだ新堂君を警戒するだろう。しかし、坂上先輩はああ見えて純粋で初心だ。人を好きになる心は、永遠だと信じているのかもしれない。私もそうであれば良いとは思うけれど。
しかし、ここが本当に乙女ゲームの世界だとすれば、新堂君は随分シナリオから逸脱してしまっている事になるのだろう。ヒロイン以外の女の子に恋をしたと言うのだから。けれど、彼も生きているのだ。いくら天使のような容姿をしていても、泣き、笑い、怒り、喜ぶ、私と同じ意思を持つ一人の人間なのだ。どんな女の子に心惹かれるかなんて、誰にも決められるはずがない。
「どんな子なの?」
好奇心が刺激されて尋ねれば、新堂君は顔を真っ赤に染めながら、けれどこれ以上なく幸せそうに教えてくれた。
「凛として、綺麗な子です。……あ、容姿の雰囲気は少し音川さんに似ているかもしれません」
「蜜に?」
「はい、お人形さんみたいな子で」
蜜は文句なしの美少女だ。ふわふわのロングヘアも相俟って、お人形さん、と評するに相応しい容姿をしている。そんな蜜に似た、おそらく美少女と新堂君。とても可愛らしいカップルになれる事だろう。
「可愛くて、華奢で、小さくて、でも行動や考え方は坂上先輩みたいで……」
「それって良いの!?」
ちょっと待って欲しい。え、行動や考え方は、って事はつまり中身が坂上先輩みたいって事?見た目蜜なのに?え、それって絶対にしてはいけないコラボでしょう!
「格好良いんです。真っ直ぐで、強くて、一目で憧れました。彼女のようになりたくて、彼女の隣に立つに相応しい男になりたいと思いました」
私の動揺を余所に、新堂君は切々と語った。放課後の帰り道、新堂君は夕日の向こうを見据えるような目をする。その横顔を見て、ああ好きなんだなあ、と素直に納得した。
「彼女が『落ち込む人間は嫌い』と言ったんです。『落ち込む暇があるなら改善する努力をしなさい』と。僕は今、とても弱くて情けない人間で、そんな自分が嫌いでした。けれどもう、嫌う事を止めます。強く、なります」
新堂君は、はっきりと断言した。その横顔に迷いは無くて、そんな彼を可愛いなどとはちっとも思わなかった。彼は芯の通った、格好良い男の子なのだ。
「彼女にだけは、恥じない自分でいたいから」
彼の真っ直ぐさが羨ましかった。同時に自分を恥じた。固い決意で自分自身と向き合っている新堂君に対し、私は自分の弱さから逃げ続けていた。ただ、自分が可愛くて。好きな人にさえ、不誠実である事を許してしまっていたのだ。
新堂君の、どこが弱いものか。本当に弱いのは、私のような卑怯でずるい人間の事を言うのだ。
「何か、すみません。語ってしまって……」
新堂君は恥ずかしそうな顔で、すぐにいつものように俯く。彼の誠実さを見て、理解した。今のままでは、私のこの感情を『恋』と呼ぶ資格もないのだと。我が身ばかりが可愛い私の、何が恋か。
「………ううん。聞かせてもらえて、良かった」
私も彼の強さが欲しい。憶病で卑怯な私だけれど、せめていつだって真っ直ぐな坂上先輩に恥じない私でありたい。その為には、このまま気付いてしまった可能性について、口を噤み続ける事は出来ない。
せめてこの心にある感情を『恋』と呼ぶ為にも。
寝支度を整え、電気を消して自室のベッドに入る。真っ暗な部屋の中で浮かび上げるディスプレイをどこか呆けた気持ちで眺めながら、メールを打つ。
『こちらへ戻ったら、少し時間を作ってくれませんか?』
送信して、携帯電話を枕の横に置く。そのまま返信が来ても無視して寝てしまうつもりだった。どんな返信が来ても、迫りくる現実に眠れなくなってしまいそうだったから。
しばらくして、バイブ音がメールの受信を告げた。バイブは二度だけ鳴るように設定してある。心臓が息苦しいほど震えていたが、その二回を耐え抜けば解放されると思って、頑なに目を瞑った。
しかし、二度目のバイブを終えても、三度四度と続けてバイブが鳴り続けた。私は驚いて携帯電話を手に取る。ディスプレイを確認すれば、坂上先輩からの着信を告げていた。相手に伝わる訳もないのに、ベッドの上で身を起こすと居住まいを正し、緊張で息をつまらせながら着信ボタンを押した。
『夜中に悪いな』
坂上先輩は、彼らしいぶっきらぼうな口調でそう言った。
「私は大丈夫ですけど、先輩こそ電話してて良いんですか?」
今は夜の十一時を回っている。普段なら大丈夫だろうが、今の先輩は修学旅行中でホテルだか旅館だかに泊まっているはずだ。こんな時間に電話をしていれば見咎められるだろう。
『ロビーまで降りてきたからな。こんな時間に学校の連中は誰もいないし、大丈夫だ』
「あ、そう、ですか……」
耳元で先輩の声がする。それに妙に緊張してしまった。そう言えば、電話で話すのはこれが初めてだ。動揺し過ぎて、頭が上手く回らない。
「あの、どうしてわざわざ電話を…?」
『改まって時間を作ってくれ、なんて言われたら何かあったのかと心配するだろ』
「心配、してくれたんですか?」
思わずそう問い返せば、当たり前だろ、と本当に当たり前のように言葉が返って来た。そんな風に優しい言葉を掛けられると、勘違いしてしまいそうになる。本当は、先輩から心配される資格も無い癖に。
「いえ、あの、何かあったとかではないんです。驚かせてしまってすみません」
『そうか?それなら良いが、急にどうしたんだ』
「えっと、ご相談したい事が、ありまして………」
もう、引き返せない。引き返してはいけない。私は、言わなければいけないのだ。声が震えないように、と意識すればするほど、呼吸が乱れ、一言口にする度に息を吐いた。
「先輩に、聞いて欲しい事が、あるんです」
変に、思われないだろうか。声の震えに気付かれていないだろうか。パタパタと落ちる涙の音さえ聞こえてしまうのではないかと、そんなはずはないのに無性に不安だった。
『ん、分かった。ちゃんと聞くから、もう少し待っててくれ』
「はい、すみません」
『謝るなよ。それと、あと少しだが、俺が帰るまで絶対に気を抜くなよ』
「はい……はい、気を付けます」
ああ、顎が震える。目頭が熱くて、この爪で掻きむしりたいほど胸が痛い。早く電話を切らなければ、きっといつまでも隠してはいられない。
『じゃあ、要。おやすみ』
「はい、おやすみなさい。先輩」
そして、ようやく通話を切り、私は携帯電話も放り捨てて、頭を抱くとベッドの上で身体を丸めた。
「……ぅ、うう、あ……あぁぁ………」
堪え切れなくなったものが、喉の奥から溢れ出て来た。押し殺そうとしても、喉が苦しくてそれも敵わない。涙は次々と溢れ返り、私の視界をぼやけさせる。
自業自得だった。始めから手に入れていないものを、占有しようとした罰だ。何もかもを正しき姿に戻す為に、必要な事。だから私には、きっと嘆く資格すらない。
だけど、だけどもう少しだけ許して欲しい。もう少しだけ、この想いを大切にさせて欲しい。今週だけで良いから。
私は来週、恋を失う。
読んで頂きありがとうございます。