気付かなかった可能性
先輩のメールは嫌いだ。
夏休みに入り、厳命された通り、我ながら律義にも出掛ける際には坂上先輩に報告している。さすがに近所のコンビニやスーパーに出掛けるくらいなら面倒なので隠しているが、駅の方や買い物など『お出かけ』と称せる場所に行く場合は連絡するように、という先輩の言いつけを一応守っている。
けれど、私はその際のメールのやり取りが非常に苦手だった。
『そうか。楽しんで来いよ。気を付けてな』
蜜と遊びに言って来ると報告した際の返信がこれである。先輩も、蜜や女の子と遊びに行く場合は特に何も言わない。中学の友達と集まるときなど、男の子が一人でもいるなら俺を殺す気か!?と慌てふためいた電話が掛かってきたものだが。
さて、何故快く見送ってくれるこのメールがこうも苦手なのか。理由は単純にして明快。
メールだと先輩が普通の人に見える。
あの、リアルな坂上先輩の残念さを目の前で実感しなければ、普通に気遣いの出来る人から思いやりを受けているようで、非常にむずむずするのだ。何だか無性に恥ずかしい。普段の先輩は、自身の生命維持に必死で、恥ずかしい台詞を大声で叫んでしまうような人なのに。
私は、二度三度深呼吸を繰り返してから返信を考える。何度も書きかけては何度も消して、中々書き上がる気配がしない。普段は何も考えずに返信しているのに!
『行ってきます』
結局私は、悩み抜いた末にそんな一言しか送る事が出来なかった。
蜜のニヤニヤ笑いも好きではない。
彼女がその表情をするときは、大抵坂上先輩の話題でからかう事を目的にしているからだ。
「最近、坂上先輩とはどーお?」
今日も可愛い蜜が、甘えたように私を見上げる。胸の下で切り替えのある、ふんわりと広がる花柄のワンピースを着て、その上にカーディガンを羽織っていた。足元は少しヒールのあるサンダルを履いており、甘すぎるくらい可愛い格好が蜜にはよく似合う。
ジーンズ地のショートパンツにTシャツ、電車内での冷え対策に薄手のパーカーを持っているだけの私とは大違いである。羨ましいなあ、とは思うのの、こうは成れないとも思う。私には可愛過ぎて無理だ。良いんだ、私はパーカーへ万感の信頼を寄せいているから。
「どうって?別にどうもしないけど」
「デートとかは?」
「デートって……心配性な坂上先輩が付き添ってくれてるだけだよ」
私は呆れたように口にする。蜜とは振り返るタイミングや、何気ない思考の流れ、忘れ物をするタイミングまで同じほど気が合うのだが、こういう何でも恋愛に結び付けたがる所だけは、共感できない。もっとも、私も他人事なら多少面白がったかもしれないが。
「甘いなあ、カナちゃんったら。男女が一緒に出掛けるっていうのは、もうそれだけでデートなんだよ」
「そういうもの?」
だとしたら、なんてデートのハードルは低いのだろうか。私の視界に他の男を映さないようにと、目をギラギラと光らせて歩く坂上先輩相手でもデートなのか。そこに愛も恋も、存在してはいないのに。
「カナちゃんは頭が固いなあ」
楽しそうに笑う蜜に、私は首を傾げたままだった。
二人でショッピングモール内にあるお店でランチを済ませ、適当に買い物を楽しんだ所で本屋に入る。その買い物とは、ほとんどが所謂ウインドウショッピングだったが、蜜と一緒にあれ可愛い、これも可愛い、と言い合うのはすごく楽しかった。
本屋では入り口で別れ、お互い好きなように本を見るのが私と蜜の常だ。蜜は、外ではその容姿に似合う恋愛小説などを読んでいるが、実際はかなりの漫画好きだ。それも、少年漫画を好む。本人曰く、漫画なら何でも好きらしい。
私も漫画は好きだが、最近は活字が多い。今日の目当ては、読みたかった小説の文庫版が出たらしいのでそれである。読みたいなあ、と思いつつも躊躇っていた所だったので、文庫版が出ると知って嬉しかった。ハードカバーは高くて中々手を出せないのだ。
まず一番に目当ての文庫本を手に取り、新作をチェックする。いくつか粗筋と序章だけ読んで次に欲しい本の目星を付けてから、蜜を探して漫画コーナーに移動する。
すると、すぐに少年漫画のコーナーで蜜の姿を見付け、声を掛けようと思ったのだが、彼女のそばに見知った男の子がいる事に気付いて思わず足を止めた。谷原哲也だ。
相変わらず愛らしくニコニコ笑う蜜に対し、谷原君は困ったような様子だった。蜜に何かの本を押し付けられて戸惑っているようだが、やがて押し切られるようにそれを受け取る。腑に落ち無さそうな顔のままレジに向かう谷原君を、蜜は手を振って見送っていた。一度振り返った谷原君は、戸惑ったままながらそれに手を振り返す。
「蜜、今の谷原君だよね」
「カナちゃん。そうそう、さっきそこで会ってね。漫画を読んだ事無いって言うから、あたしのお勧めを押し付けてたの。人生変わるから!って」
「それは………ちょっと困っただろうね」
堅物優等生の谷原君と漫画、うん。似合わない。読んだ事がないというのにも納得だ。
「まあ、谷原君、困ってたけど嫌そうではなかったね」
「基本的に良い人だしね。何か勧めたら、いつもきちんと感想くれるし」
「え、これが初めてじゃないの?」
蜜は、何度かね、と微笑んで答える。
谷原君と言えば、取っつきにくいほどの堅物だと言われている。真面目一辺倒で、親しく話している人もあまり見かけない。そんな彼が、どうしてクラスも違う蜜と関わるようになったのだろう?
それも、蜜の社交性の成せる業なのだろうか。蜜は明るく気さくで、それでいて周囲をよく見ている。気付けば誰とでも仲良くなってしまうのだ。いつの間にか坂上先輩ともアドレスを交換していたし、蜜らしいと言えるのかもしれない。
それに、よく考えてみれば、こういう事は初めてではない。蜜はよく誰かと二人で話し込んでいる。例えば、明るく見えてもその実、心の内側には誰も入れようとしない、攻略対象候補者とも。瀬尾君とはよく教室で話しこんでいるし、鈴鹿君とも時々屋上へ上がる階段の陰で世間話をしているようだ。中学生の新堂君こそ学校が違うのでよく分からないが、蓮見先生のところにも放課後に質問に行ったりしているし、私が避ける事に成功している柔道部の攻略対象候補である榊誠先輩と話しているのも見掛けた事がある。イケメン好きだから絡んできちゃった、とおどけていた。実際、他の人達を極力避けている私と違って、蜜は誰とでも仲良くしている。やっぱり蜜の方が、余程ヒロインみたいだ。
ん?
唐突に、正体の掴めないもやもやとした違和感が私の胸を襲う。これは、何だろう。何か、すごく気持ち悪い。物事の道理の歪みに気付いてしまったときのような気持ち悪さ。まるで、無実の人間が裁かれる小説をみているような、そういう不当さへの不快感に似ている。
「坂上先輩の言ってた攻略対象の人達って、最初取っつきにくかったり、色々抱えてたりするけど、皆良い人だよね。皆が幸せになれれば良いのに………皆と話してると、余計にそう思ってきちゃった」
蜜はそう、晴れやかに笑う。何の陰りもなく、どこまでも愛らしい笑顔。その唇が紡ぐ言葉は、どこまでも優しい。まるで、正義のヒロインのように。
ちょっと待って。ちょっと待ってちょっと待って。あれ?よくよくよく思い出してみれば、攻略対象者と接触する際、いつも蜜が私のそばにいた。瀬尾君や鈴鹿君のときも、蜜が避けたり、私が蜜を遮ったりしなければ蜜と接触していたはずだ。谷原君のときも、私達は極近くで並んでいた。どちらが谷原君とぶつかっても、おかしくはない。
「―――――ねえ、蜜。そう言えば、私が坂上先輩と出会った日、蜜は何をしに特別棟に行ってたの?」
私の唐突な質問に、蜜は不思議そうな顔をする。首を傾げたまま、それでもあっさりとその答えを口にした。
「音楽の教科書を音楽室に忘れちゃってたから、それを取りに………っあ!そうか。もう少し早ければカナちゃんと坂上先輩の出逢いシーンを見れたんだ!」
惜しかった!と心底悔しそうにする蜜に対し、私は冷や汗が止まらなくなっていた。初めて気付いた可能性が、段々と現実味を帯びて行く。私がいなければ、攻略対象者とされる彼らと出逢っていたのは、いつだって蜜だったのではないだろうか。私と蜜の感性は似ている。同じタイミングで同じものを忘れてしまうくらい。
坂上先輩だって、私が先に行っていなければ、同じように教科書を忘れていた蜜をヒロインだと思ったはず。
そうだ、そうだ。坂上先輩が私をヒロインだと認定したのは、私があのタイミングで忘れた教科書を取りに行ったからだ。それが、ほんの数分ずれていただけで、その対象は蜜になる。
坂上先輩の言い分を私は少々いい加減に捉えている。だからこそ、今頃気付いたのだ。私がヒロインであるという根拠など、無いに等しいのだと。
「カナちゃん、大丈夫?顔色悪いよ?」
心配する蜜に、私はなんと答えたのだろう。家に帰って呆然とする私に、その間の記憶がない。窓を開けただけの熱気の籠る自室で、私の携帯電話がメールの着信を告げた。
『夏祭りとか、好きか?』
坂上先輩からのメールを確認して、何故だか胸が潰れてしまうんじゃないかと思った。
読んで頂き、ありがとうございます。
今回の話、そして今後の話をどのように受け止めて頂けるのか、と思うと少々怖いです。ただもう、決めた流れに載せて展開していくだけですので、最後まで頑張ります。そんなに長くするつもりもありませんので、テンポよく物語を動かせていけたら、と思います。
そして、この話までに引くはずだった伏線を引き忘れている事に気付きました。笑えない……今後捻じ込むか、無くても話が流れている=不要なものだった、と割り切ってスルーしようと思います。ハハッ