↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

あなたの帰りを待つのを、今日でやめます

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/27

 亮介が帰ってきたのは、私の誕生日が終わる二十分ほど前だった。


「まだ起きてたんだ」


 靴を脱ぎながら、彼が言った。


 私は食卓の前に座っていた。残った料理は、もう冷蔵庫に入れてある。小さなケーキも、箱に戻した。


「電話、見なかった?」


「見たけど、店うるさくて。何かあった?」


 私は膝の上で手を重ねた。


「今日、一緒にご飯食べる約束だったよね」


 亮介は腕時計を外しかけたまま、こちらを見た。


「ああ、ごめん。急に誘われてさ」


「今日が何の日かは?」


「分かってるって。誕生日でしょ。おめでとう」


 彼は上着を椅子の背に掛け、冷蔵庫を開けた。


「腹減った。何かある?」


 私は、その背中を見た。


 二週間前、二人で予定を確かめた。外に食べに行こうと言ったのは私で、平日だし家でゆっくりしようと言ったのは亮介だった。


 料理を作るのは嫌ではなかった。食べたいものを聞いたら、私の作るハンバーグがいいと言ってくれた。少し嬉しかったくらいだ。


 彼が取り出した保存容器の中には、そのハンバーグが二つ並んでいた。


「これ、温めていい?」


「待って」


 亮介が振り向いた。


「私、亮介に言いたいことがある」


「今? もう眠いんだけど」


「今、言いたい」


 彼は容器を持ったまま、面倒そうに息を吐いた。


 私は食卓の向こうの椅子を見た。そこには上着が掛かっていて、彼が座る場所はなかった。


     *


 一緒に暮らそうと言われたのは、付き合って一年半が経った頃だった。


 高瀬亮介は、私と同じ学年で、IT企業の営業をしていた。共通の友人の集まりで知り合ったとき、私が帰る方向を覚えていて、駅の乗り換えが少ない店を次の食事に選んでくれた。


 医療機器商社で営業事務をしている私の話も、よく聞いてくれた。


「病院相手だと、急な注文とか多いんじゃない?」


 私が大変だったと言う前に、そう聞いてくれる人だった。


 同棲を決めたとき、私は二十四歳で、亮介は一人暮らしをしていた。更新に合わせて少し広い部屋へ移り、そこへ私も入った。


 賃貸の契約者は亮介で、私が同居することは管理会社に届けた。家賃と光熱費は半分ずつ。食費や日用品の費用は、毎月同じ額を共用の封筒に入れることにした。


 家事は、私が料理を担当し、亮介が洗い物とごみ出しをする。洗濯と掃除は、できるほうがやる。


「美月の料理、好きだから」


 そう言われると、苦手なことを引き受けさせられたとは思わなかった。


 最初のうちは、帰宅の早い亮介が洗濯物を取り込んでくれたし、休みの日には二人で風呂を掃除した。


 私が切った野菜を、彼がフライパンで炒める。味つけを聞かれて、分量を答える。しょっぱくなると、二人で笑った。


「次、俺が作るから」


 彼はそう言って、翌週には本当に作った。


 だから、少しずつ変わっていったときも、今だけだと思った。


 先に減ったのは、洗い物だった。


「今日だけ、お願いしていい? ちょっと疲れた」


「うん」


 そのくらい、私だって頼む。亮介の残業が増えていた時期だったし、食後に十分ほど台所へ立つだけなら、それほど大変ではなかった。


 翌日は、流しに食器が残った。亮介が風呂から出たら洗うと思って待っていたが、彼はそのまま寝室へ入った。


 翌朝、彼が顔を洗っている間に、私が洗った。


 ごみ袋は玄関に出しておけば運んでくれた。ただ、部屋のごみ箱を空にしたり、次の袋をセットしたりするのは私になった。


 洗濯機を回せば、終わったときに私がいた。洗剤が少なくなれば、私が気づいた。お風呂の排水口も、冷蔵庫の野菜室も、彼が使っていないわけではないのに、汚れると私の用事になった。


 ある朝、出勤前に洗面台を拭いていると、亮介が後ろから鏡を覗き込んだ。


「まだ? 俺も髪やりたい」


「拭いてるだけ。すぐ終わる」


「それ、夜でよくない?」


 私は布を絞った。


「夜にやったら、夜の私の仕事が増えるだけだよ」


「そんな、仕事って」


 亮介は笑った。私も曖昧に笑って、その場を空けた。


 初めてきちんと話したのは、同棲して八か月ほど経ってからだった。


「二人とも働いてるのに、平日、私だけ座るの遅くない?」


 私が言うと、亮介はテレビを消した。


「そう? 気づかなかった。ごめん」


「洗い物、亮介の担当だったよね」


「うん。最近、疲れてて」


「私も疲れるよ」


「分かった。ちゃんとやる」


 彼はその夜、食器を洗った。翌日は、私が何も言わなくても風呂を掃除していた。


「これでいい?」


「ありがとう」


 私が言うと、彼は満足そうに頷いた。


 一週間ほど、楽になった。


 それからまた、流しに皿が残るようになった。


「明日でいいじゃん」


「朝、私がお弁当作るとき、使うんだよ」


「じゃあ、そのとき一緒に洗えば?」


 私は持っていた布巾を畳んだ。


「亮介のお弁当も、作ってるんだけど」


「無理に作らなくていいって。俺、買うから」


 その日から、彼の弁当は作るのをやめた。


 翌週、亮介が、最近昼代かかるな、と言った。私は聞こえないふりをした。


 私が二十五歳の秋、風邪をひいて仕事を休んだ。


 食べるものはあった。朝、亮介が出勤する前に頼むと、帰りにゼリーと飲み物を買ってきてくれた。ありがたくて、玄関まで受け取りに行った。


「寝てていいのに」


 亮介はそう言った。


 私はベッドに戻り、少し眠った。目が覚めると、寝室の扉が開いていた。


「美月。ご飯どうする?」


「冷凍のうどん、ある」


「何つければいい?」


「棚のつゆ。水で薄めて」


「どのくらい?」


 私は枕元の携帯電話を取った。調べて伝えようとして、手を止めた。


「瓶に書いてあるよ」


「そっか。起きられそう?」


 彼は扉に手を掛けたまま、私を見ていた。


「まだ熱ある」


「俺の分だけでいいから、作れない? 今日、昼も麺でさ」


 私はしばらく返事ができなかった。


「帰りに、亮介のご飯は買わなかったの?」


「家にあるかなと思って」


「じゃあ、あるもの食べて」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


 亮介は、分かったよ、と言って扉を閉めた。


 しばらくして玄関のチャイムが鳴り、亮介が受け取りに出た。配達員に礼を言う声のあと、焼き肉弁当の匂いが寝室まで入ってきた。


 注文できるんじゃない、と私は思った。


 私が作れなくなったら、ちゃんと自分で用意できるんじゃない。


 熱が下がってから、その話もした。


「あれは、もう絶対にしないで」


「ごめん。そこまで悪いと思わなくて」


「熱があるって、言ったよね」


「だから、悪かったって」


 亮介は冷蔵庫を開け、私が食べなかったゼリーを出した。


「こういうの買ってきても、駄目なんだな」


 私は彼の手元を見た。


「買ってきてくれたのは、ありがとう。でも、それとご飯を作らせようとするのは別でしょ」


「分かったよ。もう頼まない」


 彼はゼリーを戻した。


 それからしばらく、私に、体調どう、と聞くようになった。洗い物も再開した。私は、今度こそ伝わったのかもしれないと思った。


 けれど、二十五歳が終わる頃には、食器洗いはまた私の担当のようになっていた。


 亮介は、やってくれと言えばやった。ただ、私が作った夕飯を食べている間に、彼の顔色を見て、今日の皿を洗ってもらう相談をしなくてはいけなかった。


「言ってくれればやるのに」


 彼はよく、そう言った。


 言わずに食べられる夕飯が、目の前にあることには気づかなかった。


     *


 二十六歳の誕生日は、金曜日だった。


 二週間前の日曜、私は亮介に、夜は空けておいてほしいと頼んだ。


「月末でもないし、大丈夫。家で食べようよ」


「お店じゃなくて?」


「次の日も休みだし、ゆっくりできるじゃん」


 その、ゆっくり、のために私が何をするのか、一瞬考えた。


 でも、年に一度のことだった。彼と楽しく過ごしたかった。


「じゃあ、亮介はケーキ買ってきて」


「了解。何がいい?」


「小さいのでいいから、いちごの」


 彼は携帯電話のカレンダーに、私の目の前で予定を入れた。


 木曜日にも、私は帰宅時間を聞いた。七時には出られると言われ、私は八時頃に食べるつもりで買い物をした。


 金曜の仕事帰り、スーパーで挽き肉を買った。朝のうちに切っておいた玉ねぎと混ぜて、手で形を整えた。


 七時半に、サラダを冷蔵庫へ入れた。


 八時に、最初のメッセージを送った。


『今、どのあたり?』


 既読はついた。


 八時半に電話をかけた。出なかった。


 九時を過ぎた頃には、事故や急な仕事のことを考え始めた。何もなければいい。約束より、まず帰ってきてほしい。私は何度も携帯電話を見た。


 九時二十分、亮介から返事が来た。


『飲んでる。先食べて』


 私はその短い返事を読み直した。


 心配していた自分が、急に恥ずかしくなった。


『今日、一緒に食べる約束だったよね』


 返事はなかった。


 私はハンバーグを一つ皿に盛り、自分で食べた。


 ソースがいつもより少し甘かった。彼の好みに合わせて、ケチャップを多めに入れたからだ。


 十時になる前に、駅前の店へ行った。売り切れていると思ったケーキが、一つだけ残っていた。


「ろうそくは、おつけしますか」


 聞かれて、いらないです、と答えた。


 家に戻り、箱を開けた。いちごは、真ん中に三つ載っていた。


 その横で携帯電話が光った。母からの、おめでとう、だった。


 私は、お母さんありがとう、と返し、次の文を打った。


『明日、少し帰ってもいい?』


     *


 亮介は、冷蔵庫の扉を閉めた。


「分かった。何?」


「私、この家を出る」


 保存容器が、食卓に置かれた。


「何、今日遅くなったから?」


「今日だけの話じゃない」


「だったら、何で今日言うの」


「今日、もう無理だと思ったから」


 亮介は上着を別の椅子に移し、ようやく座った。


「だから、悪かったって。会社の先輩に誘われたんだよ。断りにくいの、分かるだろ」


「誕生日だからって言えなかった?」


「そんな、彼女が待ってるからとか、言いづらいじゃん」


 私も仕事をしている、と言いかけた。


 今まで何度も、その言葉から話を始めた。


「私と約束したことは、どうでもよかったんだね」


「そうは言ってないだろ。明日どこか行けばよくない?」


「明日埋め合わせるって連絡することも、できたよね」


「飲んでるときに、そこまで考えないって」


 亮介が時計を見た。


 私は、彼がいつこちらを向くのか、ずっと待っていた。テレビを見終わるまで。仕事が落ち着くまで。機嫌がよくなるまで。


 今日も、誕生日が終わりそうになるまで待った。


 三年付き合って、一年半、一緒に暮らした。明日になっても、たぶん私は、彼の機嫌を見ながら話をする順番を待つ。


「別れたい」


 言うと、亮介が顔を上げた。


「は?」


「同棲も終わりにする。明日は実家に帰って、荷物は日を決めて取りに来る」


「ちょっと待てよ。何でそうなるの」


「家事のことも、風邪のときのことも、何度も話したよね」


「それ、今関係ある?」


「あるよ。全部、同じだったから」


 彼は口を開きかけ、手のひらで顔を擦った。


「分かった。明日ケーキ買うし、ちゃんと話す。それでいいだろ」


「ケーキは買った」


「え?」


「私が。亮介が買ってくるって約束したものを、私が買いに行った」


 台所の冷蔵庫を、彼が見た。


「もう、亮介の分は用意しない。ご飯も、明日の予定も」


「……怒ってるから、そう言ってるんだろ」


「怒ってるよ」


 私は頷いた。


「でも、酔ってないし、考えて言ってる」


 亮介が黙った。私は立ち上がり、冷蔵庫からケーキの箱を出した。


「今日、ハンバーグだって知ってたよね」


「知ってたけど」


「飲み会で何か食べなかったの?」


「つまみばっかりだったから」


「そう」


 彼は食卓の保存容器を見た。


 私は箱から皿へ、残してあったケーキを移した。自分のために買ったのに、帰ってくる人と分けようと、まだ半分残していた。


 フォークを一本出して、座った。


「それは、食べていいの?」


 亮介が、ハンバーグを指した。


「食べれば。今日の分までは、もう作ったから」


 私はケーキを口に入れた。


 スポンジに、冷蔵庫の冷たさが残っていた。


     *


 翌朝、亮介が起きる前に、私は三日分の着替えと仕事に必要なものを鞄へ詰めた。


 彼の上着は椅子に掛かったままだった。食卓の上に、空の保存容器があった。


 洗わずに家を出た。


 駅へ歩く途中、亮介へメッセージを送った。


『実家に行きます。荷物を取りに行く日と、費用の精算については、明日連絡します。昨夜話したとおり、別れるという気持ちは変わりません』


 電車に乗ってから返事を開いた。


『とりあえず落ち着けよ。今日の夜、帰ってくる?』


 私は帰りません、と返した。


 母には、昨夜、別れ話をしたことを伝えていた。玄関を開けると、洗濯物を干しているところだった。


「おかえり。ご飯食べた?」


「まだ」


「パンあるよ。お父さん、ジャムどこやったか知ってる?」


 居間から父の返事がした。私は靴を脱ぎ、荷物を二階へ運んだ。


 出る前に母へ連絡しておいてよかった。一から話さなくていいことに、助けられた。


 翌日、私は退去の予定を亮介へ送った。


 次の土曜日に衣類と本、その翌週に残りを運ぶ。今月分の家賃はすでに折半して払ってあるので、そのまま。光熱費は最後に荷物を出す日までの日数で分け、請求が届いてから精算する。


 家電は、私が持ち込んだ小さな掃除機と炊飯器を引き取る。二人で買った洗濯機と冷蔵庫は亮介が使う。こちらも折半した家具を私が引き取ることにして、購入額と今の使用年数を見ながら、差額を決めた。


 計算を送ると、亮介から電話がかかってきた。


「そこまでしなくても、帰ってきて話せばよくない?」


「戻って暮らすつもりはない。金額で気になるところがあるなら言って」


「そういう話じゃなくて」


「私は、そういう話をしてる」


 亮介はしばらく黙っていた。


「炊飯器ないと、困るんだけど」


「最後の荷物を出す日までは置いておくから。その間に買って」


「美月」


「自分で買えるでしょう」


 電話の向こうで、彼がため息をついた。


「分かったよ。金額は、それでいい」


 最初に荷物を取りに行った日、亮介は台所を片づけていた。


 調理台の上に、洗剤とスポンジの新品があった。流しも空だった。


「ちゃんとやってるから」


 彼が言った。


 私は頷いて、自分の部屋着を畳んだ。


「見てよ」


「見たよ」


「だからさ。もう、あんなことしないって」


 私は手を止めた。


「何をしないの?」


「誕生日の約束、忘れない」


「飲んでるときは分かってたって、言ったよね」


「じゃあ、約束破らない」


「その約束、家事のときも、風邪のときもした」


 亮介が台所のほうを見た。


「でも、今やってるじゃん」


「うん。これからもやってね。亮介がここで暮らすんだから」


 私はまた服を畳んだ。


 彼は少し離れたところで立っていた。私がどの箱から片づけるのか、その指示を待っているようだった。


 頼めば運んでくれたのだろう。


 私は、自分の箱を自分で玄関へ持っていった。


 二度目の引き取りには、父が車を出してくれた。亮介も重い棚を運ぶのを手伝った。


 父は、ありがとうございました、とだけ言った。私は、その言い方に少し泣きそうになった。二人が揉めずに作業を終えてくれたことが、ありがたかった。


 最後に共用の封筒を確かめた。食費と日用品の残金を二人で数え、半分ずつ取った。


「鍵、返すね」


 私は鍵と、最後の費用の確認を書いた紙を並べた。


「管理会社への同居解消の連絡も、お願い」


「分かった」


「光熱費の明細が来たら、写真送って。私が払う分は振り込む」


 亮介は頷いた。それから鍵に手を置いた。


「少し離れたほうがいいのは、分かった。戻りたくなったら言って」


「別れるって話、何度もしてるよね」


「今すぐじゃなくても」


「待ってても、戻らないよ」


 私が言うと、彼は眉を寄せた。


「俺、そこまで悪いことした?」


 私は紙の端を、鍵の下から少し引き出した。受け取った印として、ここに名前を書いてほしいと頼んだところだった。


「亮介が納得しないと、別れられないわけじゃない」


「美月、そんな言い方するやつだった?」


「前も言ってたよ。聞いてなかっただけで」


 彼は私を見た。そのあと、ようやくペンを取り、紙に名前を書いた。


 私は写真を撮り、荷物を持った。


「今までありがとう。これで終わりにします」


 ドアを閉めるとき、亮介はまだ玄関に立っていた。


 翌月、光熱費の精算も終わった。


 私が振込明細を送ると、亮介から、了解、と返ってきた。


 その下に、もう一通、届いた。


『洗濯機の掃除って、何買えばいい?』


 私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 今までなら店で写真を撮って送った。使う量も、回すコースも伝えただろう。彼が困らずに済んだら、自分の用事へ戻った。


『説明書を見て、自分で選んでください。生活の相談には、もう答えません』


 送って、通知を切った。


     *


 実家に戻ってからも、最初のうちは、帰りにスーパーへ寄った。


 夕方になると、今日の夕飯を考える癖が抜けなかったのだ。


 母から、今日は肉じゃがだよ、と連絡が来て、握っていた籠を戻した日があった。


 私の手が空いていることを、私は何度も確かめた。


 仕事で遅くなったとき、家へ連絡した。母は、お疲れさま、冷蔵庫に入れておくね、と返した。私は、先に食べて、の意味を知り直した。


 友人の真帆に会ったのは、荷物を出して一か月ほど経ってからだった。


 高校時代からの友人で、亮介とは大学が同じだった。二人が知り合った集まりを開いたのも、真帆だった。


「紹介した立場で言うのも何だけどさ」


 真帆は注文した飲み物が届くのを待って、口を開いた。


「あいつ、何で別れたか、まだ分かってないと思う」


「何か言ってた?」


「美月が急に結婚を意識しだして、揉めたって」


 私はストローの袋を折った。


「私、結婚の話で揉めたことないよ」


「だよね。家のこと、前に相談してくれてたもんね」


 真帆には、家事のことで何度か話していた。彼女は別れろとは言わず、私がどうしたいのか聞いてくれていた。


「それ、信じてる人いるのかな」


「私は、直接美月に聞くまでは分からないって言った。本人には、二人のことを勝手に説明するのやめなよ、って送ったけど」


「ありがとう。でも真帆が間に入らなくていいよ。亮介が連絡してきたら、私が言うから」


 その日の夜、私は亮介へ一通だけ送った。


『結婚を急いで別れたという説明は、事実と違います。二人の生活で負担が偏り、何度話しても改善が続かなかったことと、誕生日の約束を破ったことが理由です。周りに違う話をしないでください』


 返事は翌朝だった。


『そんなつもりで言ったんじゃない。分かった』


 私は、それ以上やり取りをしなかった。


 新しい部屋を借りたのは、別れて三か月が経つ頃だった。


 職場から歩いて帰れる距離で、広くはなかったが、台所の調理台は前より少し広かった。


 母が、料理やめたくなってない、と聞いた。


「なってないよ」


 私は洗ってもらった保存容器を棚にしまった。


「自分の分なら、作りたい」


 引っ越した最初の晩には、好きな春菊を入れて、卵とじのうどんを作った。亮介が苦手だったので、一年半、ほとんど買わなかった野菜だった。


 鍋を洗い、お茶を入れて、座った。


 時計はまだ七時半だった。


 何をしようかと考えて、本を開いた。数ページ読んだところで、音もなく涙が落ちた。


 恋人がいたことも、楽しかったことも、嘘ではなかった。帰ってくる人がいない部屋に、慣れない夜もあった。


 それでも、誰かの機嫌を確かめずに、途中まで読んだ本を開いていられた。


 私はティッシュを一枚取り、挟んでいた指を外して、ページをめくった。


     *


 相沢直樹と、仕事以外で初めて話したのは、別れて五か月ほど経った頃だった。


 真帆から、久しぶりにみんなで夕飯を食べようと誘われた。六人ほどの集まりで、そのうちの一人が直樹だった。


 勤め先の取引先である病院の、購買課にいる人だった。納品書や請求書の確認で何度か電話をし、急ぎの書類を届けたときに、顔も合わせていた。


「藤沢さん?」


 店の前で声をかけられ、私は頷いた。


「相沢さん。真帆のお知り合いだったんですね」


「大学が同じで。藤沢さんも?」


「私は高校です」


 そこへ真帆が来て、私たちを交互に見た。


「あれ、知ってるの?」


「仕事でね」


 私は答えた。真帆は、そうなんだ、と言って店のドアを開けた。


 席に着いてから、直樹も私たちと同じ学年だと知った。


「ずっと年上だと思ってました」


「僕もです」


 二人で顔を見合わせた。


「それは、ちょっと複雑」


 私が言うと、直樹は、あ、すみません、と姿勢を正した。真帆が横から、それはお互い様でしょ、と笑った。


 直樹は、よく話す人ではなかった。みんなが話している間に料理を小皿へ取り分けたり、空いた皿を端へ寄せたりしていた。


 私が遅れて手を伸ばすと、彼は、これ、まだ手をつけていないので、と取り皿を一枚渡した。


 別れた恋人の話はしなかった。仕事の話も、休みの日にまで申し訳ない気がして、私からは出さなかった。


 近所のパン屋の話になって、私は初めて、彼が自炊をすることを知った。


「パンばかり買ってると、ご飯炊かなくなって。冷凍庫に残ってるのを、たまに全部出して数えるんです」


「あります。それで減らそうと思って、カレー作るんですよね」


「余りますよね、今度はカレーが」


 私は笑った。隣の真帆が、私も、と話に入った。


 帰りは、六人の連絡用グループを作った。またご飯に行こうという、よくある流れだった。


 個別に直樹から連絡が来たのは、一週間後だった。


『この前話していたパン屋、行ってきました。くるみのパン、おいしかったです。教えてくれてありがとう』


 私は返事を打ち、少し迷ってから、送った。


『今度はカレーも余らせずに済みそうですね』


 返ってきた写真には、パンの横に、カレーの皿があった。


『手遅れでした』


 私は声を出して笑った。


 それから二人で会うまでに、もう一度、みんなで集まった。


 直樹から昼ご飯に誘われたのは、そのあとだった。


 私は返事をする前に、今は恋人がいないことと、半年ほど前に長く付き合った人と別れたことを伝えた。


『すぐに誰かと付き合う気持ちになれるかは、まだ分からないです。それでもよければ』


 返事は、翌日の昼休みに来た。


『分かりました。僕は、美月さんともう少し話してみたいです。お昼、一緒にどうですか』


 仕事の電話では呼ばれたことのない名前を、私は二度読んだ。


 会った日は、昼ご飯を食べて、駅前の書店を見て、三時になる前に別れた。直樹は帰りに洗濯物を取り込まないと、と言った。


「乾燥機、ないんですか」


「ないです。部屋干しで、ちょっと油断すると変な匂いがする」


「タオル?」


「そうです」


 その会話がおかしくて、私は帰ってからも思い出した。


 一人で暮らす同じ年の人に、洗濯物がある。当たり前なのに、帰る理由として自分の家事を挙げる人を、私は久しぶりに見た気がした。


 次に会ったときは、直樹が予約した店へ、私が遅れた。仕事の処理が延びたのだ。


 分かった時点で連絡すると、彼は、了解です、先に着いて待ってます、と返した。


「ごめんなさい」


 十五分ほど遅れて着いた私に、彼は水の入ったグラスを寄せた。


「お疲れさま。注文、ゆっくり見てください」


「怒ってない?」


 つい、聞いてしまった。


 直樹はメニューを開きかけた手を止めた。


「連絡もらいましたし。十五分なら、まあ」


「そうだよね」


「一時間とかなら、お腹空いたので先に食べますって言ったかもしれないです」


 笑おうとして、喉がつまった。


 直樹が私を見ていた。私は水を一口飲んだ。


「前の人、私が残業になると、ご飯どうするって聞くことが多くて。それを先に決めてから、仕事しなきゃいけなかったから」


 彼は少し考え、それから頷いた。


「今日は、自分の分を選んでください。僕はこっちの定食にするので」


 彼の指の先には、焼き魚の写真があった。


「それ、おいしそう」


「じゃあ、同じものにします?」


「ううん。私はこれ」


 私は、生姜焼きを指した。


 食べたいものを選ぶだけなのに、少し時間がかかった。


     *


 別れて八か月が過ぎた頃、真帆から誕生日の集まりに誘われた。


『亮介も来る予定。美月が嫌なら、私とは別の日に会おう。直樹たちも呼んでるけど、無理しないで』


 私は、その文を読んだまま少し考えた。


 真帆には、直樹と二人でも会うようになったことを話していた。亮介は、同じ大学の真帆の友人たちと、今も付き合いがあるらしかった。


『行くよ。真帆に会いたいから』


 返したあとで、直樹にも連絡をした。私が前に付き合っていたのは亮介だと、そのとき初めて名前を伝えた。


 直樹は、大学で何度か話したことがある、と答えた。


 まだ付き合ってはいなかった。何度か食事をし、休みの日に出かけ、連絡の間隔が少しずつ短くなっていた。それを、亮介に説明する必要はなかったけれど、直樹を驚かせたくはなかった。


 店に着くと、真帆が手を振った。席は長いテーブルで、私は亮介から離れたところに座った。


「久しぶり」


 亮介がこちらへ声をかけた。


「久しぶり」


 私は答え、自分のメニューを開いた。


 彼は、集まりの中では以前と変わらなかった。仕事の面白い失敗談を話し、飲み物が足りているかみんなに聞いた。私にも、何か頼む、と尋ねた。


「自分で頼むから、大丈夫」


 彼は一瞬だけ口を閉じ、それから隣の友人に話しかけた。


 食事は楽しかった。真帆が仕事で覚えた妙な略語を披露して、誰も元の言葉を当てられなかった。私は真帆へ贈り物を渡し、ほかの人が選んだ包みを一緒に覗いた。


 直樹は向かい側の、少し斜めの席にいた。目が合うと、軽く笑った。


「この間買った本、もう読み終わりました?」


「まだ半分くらい。直樹さんは?」


「読み終わりました。続きの巻も、買おうと思って」


 前に二人で寄った書店で、それぞれ買った小説の話だった。


「じゃあ、私も早く読もう。感想、話したいし」


「急がなくて大丈夫です。読めたら教えてください」


 少し先の席で、亮介がこちらを見ていた。私は飲み物を一口飲み、真帆の話に戻った。


 直樹は、何かを代わりに言おうとしたり、ずっと私の様子を気にしたりはしなかった。私も、自分の席で普通に話した。


 帰る前、会計を終えて、店の前でみんなを待っていたときだった。


「美月、ちょっといい?」


 亮介に呼ばれた。私は入口から少しだけ離れた、窓の横へ移った。店内に真帆の姿が見えた。


「何?」


「ちゃんと飯、作ってる?」


「作ってるよ」


「俺、最近外食ばっかりでさ」


 亮介は笑った。


「美月のご飯、今さらだけど、うまかったなと思って」


「そう。ありがとう」


 私はそれ以上続けなかった。


 亮介が、私の後ろを見た。直樹が先に出てきた友人と話していた。


「相沢と、連絡取ってるの?」


「うん」


「いつから?」


「前に真帆が開いた食事会から」


 亮介は頷き、手に持っていた上着を掛け直した。


「あのさ。そろそろ、戻らない?」


 私は彼の顔を見た。


「一人でやってみて分かったよ。料理だけじゃないんだなって。洗濯とか、掃除とか、そういうのも」


「うん」


「俺も、あのときはちょっと甘えてた。だから、今度は家事もちゃんと手伝うから」


 窓の内側で、真帆が店員に頭を下げた。私はその姿が出入口へ向かうのを、ぼんやり見た。


「手伝うんだ」


「やるよ。分担決めてもいいし」


「最初に決めたよ。亮介は洗い物とごみ出し。覚えてない?」


「覚えてるけど。だから、今度はもっとちゃんと決めて」


「言われたらやるんじゃ、困るって話もしたよね」


「じゃあ、やること表にするとかさ」


「誰が?」


 亮介が目を瞬いた。


「その表、誰が作って、やってないって誰が言うの?」


「俺がやればいいんだろ」


「だったら今、自分の家でやって。そのために私が戻る必要はないよ」


 彼はしばらく黙った。私は店の入口へ目を向けた。真帆たちが出てきていた。


「私、復縁するつもりはありません」


 そう言って、話を終えようとした。


 亮介の声が、大きくなった。


「もう、相沢がいるから?」


 近くにいた友人たちが振り向いた。


 直樹も、こちらを見た。


「その人のことは関係ない」


「だって、別れてすぐ、こういう集まりに来てたんだろ。いつから知ってたんだよ」


「仕事では、同棲していた頃から。でも、個人的に連絡を取ったのは、別れて五か月後の食事会からだよ」


「俺は、少し離れてるだけだと思ってたのに」


 私は携帯電話を出した。


 亮介とのやり取りは、消していなかった。料金の精算が終わったとき、まとめて保存して、そのままになっていた。


 最初の連絡と、鍵を返した日の写真を開いた。


「これ、亮介が名前を書いた紙だよ」


 画面を、彼だけに向けた。


「同棲解消に伴う精算って、二人で確かめたよね。その前にも、別れる気持ちは変わらないって送った。待ってても戻らないって、玄関でも言った」


 彼の視線が、画面に落ちた。


「それでも、別れてないことにするの?」


 真帆が、私たちの少し横に立った。


「亮介。私にも、別れたって言ったよね」


「それは、そのときは」


「美月が結婚したがってるって話のとき。私、本人に聞くまでは分からないって言ったじゃん」


 亮介は口を閉じた。


 私は画面を消し、携帯電話を鞄にしまった。


「料理してくれなくなったから寂しいなら、料理を覚えて。誰も話を聞いてくれなくて寂しいなら、自分の話し方も考えて。私に戻ってもらえば済むことにしないで」


「飯のために戻れって、言ってるんじゃない」


「じゃあ、私が帰ってから何をしていたか、知ってた?」


 彼は私を見た。


「仕事のあと、買い物して、ご飯作って、洗濯して。その間、私が何を話しても、亮介は携帯見てたよね」


「仕事で使ってたんだよ」


「全部?」


 私は彼の返事を待った。


「ゲームしてた日も、友達と連絡してた日もあったよ。亮介のお弁当をやめたあと、昼代がかかるって言ったことも覚えてる」


 真帆は何も言わなかった。少し離れていた友人が、目を伏せた。


 私は息を吐いた。


「私は、亮介が帰ってくるまでに全部終わらせたかったんだよ。一緒にご飯食べて、今日あったこと話して、休みたかったから」


 そのために一人で頑張ったことも、言わなくても分かってもらえると思っていたことも、今なら、続けなくてよかったと分かる。


「でも亮介は、私が用意したものを受け取ったあと、自分の時間に戻ってた」


「……そこまで嫌だったなら、もっと早く」


「言ったよ」


 私は遮った。


「何度も、亮介に言った」


 彼の唇が動き、それから止まった。


 私が何と言えば引き下がるのか、その答えを探しているように見えた。私もずっと、彼に届く言い方を探していた。


「誰と付き合うかも、一人でいるかも、私が決める。亮介を断る理由に、ほかの人はいらないよ」


 私は真帆へ顔を向けた。


「ごめんね。お祝いの日なのに」


「美月が謝ることじゃない」


 真帆は亮介を見た。


「今日は、もうやめよう」


 亮介が私の名前を呼んだ。


 私は最後に、一度だけ彼を見た。


「復縁はしません。生活の相談も、もう送ってこないでください」


 彼は上着を握ったまま、何も言わなかった。


 帰りは、真帆と駅まで歩いた。ほかの友人たちは少し先にいて、直樹もその中にいた。


「大丈夫?」


 真帆に聞かれ、私は頷いた。


「うん。でも、手、震えてる」


 鞄の持ち手を握った指が、冷たくなっていた。


 真帆は私の手に触れ、それから、自分の鞄から小さな菓子の袋を出した。


「さっきもらったやつ、食べる?」


「今?」


「今。駅まで、もうちょっとあるし」


 私は一つもらった。薄い煎餅だった。噛むと、やけに大きな音がした。


     *


 亮介からは、その夜、連絡が来た。


『あんなに言わなくてもよかっただろ。みんなの前で』


 私は返信欄を開いた。


 そして、閉じた。


 朝になると、もう一通、届いていた。


『本当に悪かった。自分のことしか考えてなかった』


 私は、その文を読んだ。


 私が何か返して、彼を少し楽にする必要はなかった。


 保存してから、連絡先をブロックした。


 真帆には、もう返事をしないことだけ伝えた。彼女は、分かった、と答えた。


 直樹と会ったのは、翌週だった。


 前から約束していた、昼の映画だった。終わって外に出ると、日が傾き始めていた。


「この間は、巻き込んでごめんなさい」


 私が言うと、彼は首を振った。


「僕は大丈夫です。話してくれて、ありがとう」


 駅へ向かって歩いていると、パン屋の前に出た。二人で最初に話した店とは別の店だった。


「今日もカレーなんですか」


 私が聞くと、彼は笑った。


「今日は鍋です。さすがにパンは、買いません」


「何鍋?」


「鶏と白菜。あと、きのこ」


「いいな」


 言ってから、私は彼を見た。


 直樹が少し歩く速度を落とした。


「美月さん」


「はい」


「よかったら、僕と付き合ってもらえませんか」


 私は立ち止まった。


 彼も、半歩先で止まった。


「この間のことがあったから、じゃなくて。今日、言おうと思ってました」


「……うん」


「一緒に食べに行くのも、別々の夕飯の写真が来るのも、楽しみで。もう少し、一緒に過ごしたいです」


 私は、彼と会った日のことを思い返した。


 私が疲れたと話せば、何に疲れたのか聞いてくれた。予定が合わないときには別の日を提案して、私の返事も待った。


 仕事以外で会うようになってから、三か月ほどかけて知った人だった。


「私も、直樹さんと過ごしたい」


 言うと、彼の肩が少し下がった。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 私は笑って、それから聞いた。


「鍋って、今日、二人分にもなる?」


「なります。たぶん、いつも二人分くらい作ってるので」


「じゃあ、一緒に食べてもいい?」


「もちろん。でも、部屋、少し片づけたいので。十分くらい待ってもらってもいいですか」


 私は声を出して笑った。


「スーパー寄ろうよ。その間に先に帰って、片づけてて」


「買い物なら、僕も行きます。そこまで散らかってない……はずなので」


「無理してない?」


「タオルは干してあります」


「じゃあ、それは、そのままで」


     *


 付き合い始めて二か月ほど経った夜、直樹が私の部屋に来た。


 帰りの遅くなる私に代わって、先に着く直樹が買い物をしてくれる予定だった。私は帰宅してから、彼を招き入れた。


「おかえりなさい。お疲れさま」


 廊下に立つ彼が、買い物袋を少し持ち上げた。


「ありがとう。今日、パスタでよかった?」


「はい。玉ねぎ、切ります」


 私は上着を脱ぎ、手を洗った。冷蔵庫を開けかけて、閉めた。


「ごめん。今日、ちょっと疲れた。五分だけ座ってもいい?」


「もちろん」


 直樹は袋からトマト缶を出した。


「サラダの分も切っておきます。麺は、食べる前にゆでますね」


「ありがとう。あとで洗い物する」


「あとで決めましょう。まだ疲れてたら、今日は僕がやるので」


 私は椅子に座った。


 台所から、包丁の音がした。鍋を出す場所を聞かれたので答え、それからお茶を飲んだ。


 五分経つ前に、立ち上がりたくなった。


 何かしていないと申し訳ない、という気持ちが、まだ少し残っていた。私はもう一度座り直し、腕時計を外した。


 直樹が調理台に置いた携帯電話が鳴った。彼は手を拭き、画面を見て、短く返信した。


「今度の金曜日、職場の人に誘われたので、夕飯は別々でもいいですか」


「うん。私は家にいると思う」


「分かりました。次の日、会える?」


 言い方が少し変わって、私は彼を見た。


「会えるよ」


 直樹は頷き、また玉ねぎを切り始めた。


 私は携帯電話を手に取り、金曜日に見たかった映画の配信があるか調べた。


 彼が飲み会へ行く夜、私は私の夕飯を食べる。


 帰ってくるまで食べずにいたり、翌日の機嫌を考えたりする予定は、どこにもなかった。


 数分後、直樹が振り向いた。


「美月さん、麺、どのくらい食べる?」


「お腹空いたから、普通に一人分」


「僕も。二人で二人分ですね」


 棚から出した袋の表示を、彼が確かめた。


 私は立ち上がり、皿を二枚出した。直樹が少し脇へ寄って、私の通る場所を空けた。


「もう休めた?」


「うん。ありがとう」


「じゃあ、サラダ、お願いしてもいい?」


「任せて」


 洗ってあったレタスをちぎる。彼が鍋へ麺を入れる。狭い台所で、二人の肘が一度だけ当たった。


「ごめん」


「こっちこそ」


 私は少し左へずれて、もう一枚レタスをちぎった。


~完~


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。