無は存在せず、すべては変化の連鎖であり、時間は幻想である
子供の頃、宇宙が無限であると知ったとき、私は強い違和感と恐怖を覚えた。
終わりのない空間に、自分がぽつんと浮かんでいるような感覚。
底の見えない海の真ん中に放り出されたようで、
どこにも境界がなく、どこにも「止まりどころ」がない。
その圧倒的な広さの前で、
「すべてが無であるほうが自然なのではないか」
と感じた。
自分自身の存在さえ、
“ある”より“無である”ほうが自然に思えるほど、
「存在している」という事実が重く、不思議だった。
成人してから、
私は別の問いに行き着いた。
「有る/無い」という二分法そのものが、
そもそも誤っているのではないか」
私たちは当然の前提として、
世界を「有るもの」と「無いもの」に分けている。
しかし、
その分け方こそが、
矛盾を生み出しているのではないか。
もし「無」が本当に存在するなら、
それは完全な非存在でなければならない。
だが、
そのようなものを、
私たちは一度でも観測したことがあるだろうか。
石を隠しても、
石はどこかに存在している。
人が死んでも、
身体は分解され、
成分として残り続ける。
消えたように見えるものは、
存在が失われたのではなく、
観測との関係が断たれただけではないか。
ここで、「無」を定義し直す必要がある。
「無」とは、
存在しない状態ではない。
「無」とは、
観測されていない状態であり、
構造化されていない状態である。
有と無を分離し、
対立させて定義しようとするから、
世界は矛盾だらけに見える。
だが、
有と無を一つの連続体として観測すれば、
矛盾は著しく減少する。
この視点から見れば、
宇宙とは「創造されたもの」ではない。
宇宙とは、変化の連鎖そのものである。
私たちがビッグバンと呼んでいるものも、
一度きりの始まりではなく、
圧縮と展開の一局面にすぎない。
生と死、
創造と消滅は、
実体ではなく、
状態変化に付けられたラベルである。
断絶は存在せず、
あるのは連続だけだ。
時間についても同様である。
時間は、
世界に内在する実体ではない。
実在しているのは、
配置、関係、密度、状態の変化だけだ。
私たちは、
その差分を切り出し、
便宜的に「時間」と呼んでいる。
変化があるから時間があるのではない。
変化しかない。
時間とは、
変化を理解するために
人間が設定した座標にすぎない。
結論として
「有る/無い」という概念は、
世界を説明するためには粗すぎる。
より矛盾の少ない見方は、
すべては常に「有る」
という立場である。
そしてそれは、
最初の爆発から続く
変化の連鎖にすぎない。
この立場では、
創造も消滅も必要ない。
特別な始まりも終わりも必要ない。
神的な介入も仮定する必要がない。
ただ、
連続する変化があるだけだ。




