ルイーズ
母の冷たい眼差しを、わたしは物心ついた頃から知っていた。
長女のシャロンが笑えば母も笑い、末っ子のローラが泣けば母はすぐに抱き上げる。けれどわたしが同じように笑っても泣いても、その顔に映るのは苛立ちか嫌悪の色ばかりだった。
「ルイーズ、あなたはどうしてそうなの」
その言葉に具体的な意味はない。ただ、わたしがわたしであること自体を咎める響きだった。
理由を最近知った。亡き父方の祖母に、わたしが似ているのだ。
このことは親戚が集まった時、話題になるから小さい時から知っていた。だけどそれが疎まれる原因だとは‥‥‥
子爵家の出の母を侯爵家の嫁として祖母が育てたそうだが、それが厳しくて恨んでいるとか‥‥‥
だから、母にとってわたしは存在そのものが不快なのだろう。
今でこそ、こうやって母の気持ちを分析できるけど、子供の頃は辛かった。
屋敷での暮らしは、息苦しかった。
使用人たちでさえ、母の意向を汲んでわたしを軽んじた。シャロンやローラが部屋を散らかせば「お嬢様、すぐに片付けます」と微笑むのに、わたしが同じことをすれば「ルイーズ様、またですか」と舌打ち混じりの叱責が返ってくる。
食卓でも同じだった。ローラがパンを落とせば笑い話になるのに、私が少しでもスープをこぼせば睨みつけられた。
その度に、胸の奥で何かが硬く縮こまるのを感じた。
「どうして、わたしだけ……」
夜、自室の小さなランプの灯りの下で、誰にも聞かれないように声を抑えて泣くのが習慣になっていた。
わたしがつぶれずに、ちょっと僻みっぽいかもしれないけど‥‥‥それなりに育ったのは、読書のおかげだと思う。
皮肉なことに読書を好むことがまた母に嫌われる要因になったみたいだけど‥‥‥・
まぁ読書のおかげでいろいろな世界。いろいろな人間。いろいろな考え方を知ることが出来たのは良かった。
だが、子供の頃、どうしようもなく孤独に押しつぶされそうになる瞬間があった。姉と妹が母に抱きつく姿を横目に見ながら、わたしも同じように甘えたいと願う気持ちを押し殺すのは、まるで自分の喉を両手で締めつけるような苦しさだった。
その日、いつもより悲しい気分で庭を歩いていた。
今日はわたしの誕生日だ。なにもない誕生日。自分が愛されていないことがよくわかる日だ。
わたしは十七歳になった。
母の部屋に顔を出せば嫌味を言われる、姉妹と過ごせば心を傷つけられる。だからわたしは、いつも一人で庭を歩いた。草花に話しかけ、小鳥のさえずりを聞くことだけが、わたしを「わたし」でいさせてくれる時間だった。
その時、泣き声が聞こえた。
見ると、塀の向こうに小さな男の子がいて、泣いていた。服は上等だ。刺繍が凄い。だけど泥だらけで、頬には涙の跡がある。
わたしは門から走り出てその子のそばに行った。門番はわたしがひとりで外にでることを止めない。
これは後でわかったことだが、そもそも姉も妹も一人でいることはない。従って一人ではたとえ庭であろうと歩き回ったりしない。
わたしはと言うと、そもそも専属がいない。いるけど、わたしのそばにいない。だからわたしは一人でうろうろする。
門番にはわたし、このルイーズを一人で表に出してはいけないと言う通達は来ていない。両親も執事も想定外ってことね。だからわたしは一人で外に出ていた。
とにかく、わたしは小さな男の子のそばに行った。
「どうしたの?」
わたしはしゃがみ込み、できるだけ優しく声をかけた。
母のような冷たい眼差しを向けることはしたくなかった。わたしがされてきたことを、誰かに重ねたくなかったから。
子供はすすり泣きながら「お母さんとはぐれた」と訴えた。震える肩を見て、わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「大丈夫。わたしと一緒に探そう」
そう言って手を差し伸べると、小さな指がぎゅっとわたしの手を握った。その温もりは、どんな言葉よりも真実だった。わたしは必要とされている。そう思えたのだ。
その子と大通りに向かっていると、慌てて駆け寄ってきた若い男がいた。背が高く、目元は子供とよく似ている。兄なのだろう。
「エドワール!」
「お兄ちゃん!」
再会の抱擁を見て、わたしは安堵の息をついた。
けれど次の瞬間、その兄の視線がわたしに向けられた。
「君が助けてくれたんだね」
深い声だった。驚きと感謝が混じった響きに、わたしは思わず目を伏せた。
褒められることに慣れていなかったから、どう返せばいいのかわからなかった。
「たまたま見つけただけです」
そう答えると、彼は微笑んだ。その微笑みに、胸がどきりと跳ねる。
「ありがとう。君のおかげで弟が無事だ」
礼儀として頭を下げただけの仕草に、わたしは不思議なほど心を揺さぶられた。
その後のことは、夢のように思える。
彼──名をアランといった──はわたしに興味を抱いたらしい。再び屋敷を訪ねてきて、改めて礼を述べ、少し話をしたいと花束を差し出した。
彼はわたしと二人になった時、
「ちゃんと言っておかないと誰かに先を越されるから、言うね」と改まると、
「あのね、ひとめぼれだ。わたしはルイーズ嬢、あなたにひとめぼれした」
あーーこれがひとめぼれ。多分わたしもだ‥‥‥・
「わたくしもです」わたしもすぐに返事をした。姉妹と言う名前の邪魔が入らないうちに。
婚約の指輪は、春の陽ざしのなかで小さく灯をともした。
あの日から、わたしは毎朝目を覚ますたびに、胸の底でひとつ深く息を吸う。
誰かに選ばれたこと、しかもそれが「わたしであること」への肯定だと、体の奥にゆっくり沁みこませていくのだ。
わたしは最愛の人に最愛だと選ばれた。そのことをしっかりと自分に理解させるのだ。
アランはよく屋敷に来た。馬車が入って来るとわたしは文字通り玄関まで飛んでいく。
彼は庭を散歩しては花の名前を尋ね、わたしが答えると「やっぱり君はよく知っている」と感心して笑った。読書の話をすれば、彼は丁寧に耳を傾け、彼の感想を語る。
わたしの言葉が、真っ直ぐに届く。たったそれだけが、奇跡みたいだった。
小さな妨害は、最初から散らばっていた。彼が渡してくれた花束。うっかり侍女に渡すとそれがシャロンの部屋に飾られていたことがあった。
侍女が受け取りシャロンの部屋に届けたのだ。姉のシャロンは何気ない顔で言った。
「わたくしにお届けだと思うわ。だってあなたとわたしよ。絶対わたしでしょ」
わたしはそのことを彼に報告した。その後、彼は花束を渡すとき
「愛するルイーズにふさわしい花を持って来たよ」とかならず言った。
次に起きたのは招待状のすり替えだった。アランの遠縁が催す小さなお茶会。
わたしの手元に来た封筒は、誰かが開けていた。わたしはお母さまが見たのねと思って気に留めなかった。
だけど、その時間が書き換えられていた。
わたしが遅れて入室した時、部屋の奥で立ち上がったアランは、まっすぐわたしを見て微笑んだ。
「君が来た。よかった」
「そうやって入って来る姿。お祖母様にそっくりですね」と主催者の夫人も微笑んでくれた。
それだけで、わたしの遅れは「待たれていた時間」に変わる。彼は席を少し詰め、私のカップに香り高い紅茶を注いて、囁いた。
「本当は、君が扉を入ってくるのを想像している時間も好きなんだ。でも、次は一緒に来よう。僕が迎えに行く」
わたしは小さく頷いた。遅れを責める声はひとつもなかった。誰かの視線がわたしの背中を刺すような痛みも、そこでふっと消えた。
噂もあった。「ルイーズは本ばかり読んで無愛想」「踊りの輪にも入らない」。実のところ、半分は当たっている。わたしは本が好きで、人混みは少し怖い。だが、アランは舞踏会の前にわざわざわたしの部屋に寄って、両手を差し出した。
「リズムさえわかれば、あとは僕が合わせるから」
彼の掌は温かく、指はまっすぐだった。音楽が流れ、わたしは一歩、また一歩と床を踏む。ぐるりと回るたび、胸元の細い鎖が小さく触れ合って鳴る。わたしがわずかに足をもつらせると、アランは耳元で言った。
「大丈夫。君の歩幅でいい」
その時、わたしは知った。わたしの歩幅に合わせてくれる人がいる。たぶん、そういうことを“愛する”って言うのだろう。
春の終わり、庭に降る光が少し白くなる頃、少し大きめの“妨害”がひとつだけ起きた。アランが貸してくれた古い詩集が、わたしの机から忽然と消えたのだ。
探し回っているわたしの背で、妹のローラが肩を竦めて言った。
「そんな古臭い汚らしい本をねぇ」
わたしは何も言い返さなかった。だが、アランに報告した。
彼はすぐに騎士団を連れて家に来た。
母はアランを非難したが、アランは引かなかった。
「あの詩集は人類の宝と言ってもいいものです。ルイーズがなくすはずがない。机に置いてあったのがいきなりなくなった。令嬢の部屋に誰かが侵入したというのはこの家の大きな不名誉ですが、隠す必要もない」
アランがそう言っている所へ、執事が本を持って現れた。
廊下の大きな花瓶の影に、置かれていたとか‥‥‥
騎士団は微妙な顔でその古い詩集を見て、
「まぁ、家探しする前に出て来て良かった」と言うと引き上げて行ったが、
「串焼きでも買って下さい」とアランが渡したお金を受け取ると、
「アラン、良かったな」と肩を叩いていた。
その日の夕方、母が珍しく私を呼んだ。窓辺に立ったまま、振り返らない声で言う。
「婚約者に恥をかかせないように」
私は黙って「はい」と答えたが、『あなたがたこそ』と思っていた。
季節はめぐり、婚約披露の夜会。屋敷の廊下には人の気配が多すぎて、息がつまりそうだった。わたしはこっそり庭に出る。夜の草は昼よりも濃い匂いがして、星は思ったよりもずっと多い。足音が近づき、わたしは振り返った。
「見つけた」
アランは笑い、私の肩に軽く上着をかけた。「寒くない?」
「少しだけ。でも、平気」
「平気じゃない時には、平気じゃないって言っていい」
私は、ためらってから言う。「……怖いの。嬉しいのに、怖い。これほど幸せが大きいと、いつかなくなる気がして」
アランは何も言わず、少しだけ考えるみたいに黙った。やがて私の手を取り、掌の中心に自分の親指をあてて、ゆっくり円を描いた。
「じゃあ、約束をしよう。なくならないものに形を与える約束」
「形?」
「毎週、君に手紙を書く。たとえその日会っていても書く。言葉にして残しておけば、君が怖い夜に読めるだろう? それから、困ったら必ず僕に言う。もう出来てるけど‥‥‥確認。君の恐れは、君ひとりのものじゃない」
胸の奥が、あたたかくなった。わたしは頷き、彼の手を握り返す。
言葉という形。わたしがずっと頼ってきたものだ。わたしを救ったのは本だった。ならば、これからわたしを救うのは、わたし宛ての言葉なのだ。
披露の席では、いくつかの視線があった。羨望も、好奇も、ほんの少しの悪意も。シャロンは真珠の飾りを指で弄びながら、笑って囁く。
「おめでとう、ルイーズ。いつまで続くか、楽しみだわ」
わたしはその笑みに、初めて微笑み返した。
「ありがとう。邪魔する人がいないのは物足りないかもね」
アランが隣で、小さく頷いたのがわかった。彼はわたしを紹介する時、
「婚約者は、わたしの最良の理解者で読者です。とてもいい感想をくれます」と言い、会場がどっと笑った。
笑いは柔らかくて、わたしにも届いた。ほんの少し肩の力が抜ける。
夜会が終わる頃、わたしは踊り疲れて、庭の月に向かって深呼吸をした。そこへ彼が来て、そっと手を差し出す。
「最後に、二人だけの踊りを」
音楽はもうない。わたしたちは互いの呼吸だけを拍子に、ゆっくり踊る。右、左。過去と未来。
孤独だった部屋と、これからの家。手の中の温もりが、わたしの歩幅に合わせて、確かにそこにある。
「ルイーズ」
「なあに?」
「結ばれた先に、たくさんの普通の日をつくろう。派手じゃなくていい。朝の紅茶、昼の散歩、夜の読書。君が好きなものが、僕も好きだ。これからも好きを増やしていこう」
わたしは笑った。涙と一緒に笑った。こんな約束を、誰かと交わす日が来るとは思わなかった。
わたしは、彼の胸に額を寄せる。
「わたし、あなたの本になります」
「え?」
「いつでも読み返せるように。書き込みもしていいわ。――でも、破らないでね」
彼は声を立てて笑い、わたしの髪に口づけた。
「もちろん。大切に、読み込むよ」
春の風が、二人の間を通り抜ける。薄い裾が揺れて、月光が縁に集まってはほどけていく。わたしは自分の手のひらを見て、ゆっくり閉じた。そこに刻まれたもの――「君の歩幅でいい」という言葉と、指先の温度と、私自身の鼓動。その全部が、消えずに残る。
婚約は、物語の終わりだと言われることがある。そう、わたしはようやく本の最初のページを開いたばかりだ。
手を取り合って庭を一周する。夜露に濡れた芝の匂い。わたしはゆっくりと彼の肩にもたれ、小さく囁いた。
「――わたし、幸せよ」
「僕も」
それだけで充分だった。この幸せは長く続くだろう。
朝、枕元には一通の手紙が届くのだろう。きっと拙くて、真っ直ぐな言葉で始まるに違いない。
親愛なる、僕の最良の読者さんへ――と。
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