メモリートラベルシステム
「おっかしいなあ……確か、ここに入れたと思ったんだけど」
来週の初めに予定を入れた引っ越し契約のため、私は印鑑を探していた。宅配便や仕事ではインク式の簡易な印鑑を使っており、実印を使うのは久しぶりだった。半月前から、引っ越しに使うから探しておかないと……。そう思っていたのだが、先延ばしをした結果、結局ぎりぎりになってから探すはめになっているのだ。『滅多に使わないもの』が入っている文具入れに入れた、と高をくくっていたのもあった。
ところが、蓋を開けてみれば木の印鑑は文具入れにはなかった。ぐちゃぐちゃと乱雑に入っていたペン類をすべてひっくり返してみても、印鑑は見つからなかったのである。そこから、印鑑の大捜索が始まった。
印鑑だから……と、簡易金庫も確認したがそこにもない。もしかして、実家? と、思い母に連絡をしたもののチャットの返事は、大学卒業した時に渡したわよ、というメッセージのみ。見当もつかずに途方に暮れて、今に至る。
「参ったな~。印鑑なしじゃ受け付けてくれないよね?」
今のボロアパートには大学時代から暮らしていた。初めてのボーナスの額が思いのほか良かったことをきっかけに、もう少し住みやすい家に引っ越すことを決めたのだ。不動産屋で特に気に入った物件を見つけ、必ず契約するから……と、ボーナスが入金される月末まで不動産会社に待ってほしいとごねたのが半月前のことである。これを逃すと、いい物件は見つからないかもしれない。焦った私は印鑑を探すため、MTS──メモリートラベルシステムのサービスを利用することにした。
メモリートラベルシステム、通称MTSとは、最新の記憶再生装置である。利用者の身体から細胞を採取し、その細胞の中に刻まれた記憶から、過去を振り返ることが可能なサービスだ。従来、身体から記憶を取り出すには、脳に直接電極を差してアクセスしたり、催眠術を使って記憶を引き出したりすることが主流だったが、このMTSが開発されたことで、身体の細胞を少し取るだけで記憶をさかのぼることが可能になった。現在、主流になっている記憶の振り返り方法である。
印鑑大捜索の翌日、私はMTS提供の店舗に来ていた。店のスタッフからシステムの説明と所要時間、副作用などの説明を受けて、必要書類にサインをする。その後、看護師によって、いくつかの部位から細胞が採取された。記憶が展開されている間、MTSについてのパンフレットを読んで、待つことにする。
『MTSはほかの記憶再生装置よりも、侵襲性が少なく、副作用の発生も低頻度のため、安全な記憶再生装置です』と、書いてあった。副作用も聞いた限りでは、細胞採取時の出血や終了時の記憶の混乱など大したことはないもので、今まで薬の副作用にあたったことのない私にとっては縁のない話だ。
「お客様、準備ができたのでお部屋へどうぞ」
直近の記憶を振り返るサービスコースを選択したため、記憶展開の用意はすぐにできたらしい。スタッフに呼ばれた私は、白い部屋に置かれている、ゆったりとしたカプセルに入り込む。カプセル内に充満してきた睡眠導入ガスを嗅ぎながら、私は記憶を振り返る旅に出る。
肝心の印鑑の記憶はすぐに見つかった。それは入社式に母と会った時の記憶の中にあり、母から実印を受け取った私は入社の書類と共に箪笥に印鑑をしまっていたのだった。
「なんだ、タンスの引き出しに放り込んでいたのか。てっきり、文房具入れに入れたと思っていたのに、見当違いだったわけね」
自分の思い出そうとした記憶は曖昧にもかかわらず、MTSで見る記憶は鮮明なことがとても不思議に思える。こんな風に、自分では覚えていない記憶で、でも身体の中に残っている記憶があるのかもしれない……。そう思うと、好奇心が芽生えはじめた。ここからさらに過去を振り返ることができるのだろうか? 短い記憶再生のコースだったが、おかしなことがあればスタッフがシステムを止めてくれるだろう。そう思いながら、私は出来心でさらに過去を振り返ってみることに決めた。
インパクトのあった記憶は仕事で上司に叱責された時の記憶である。それは些細なミスだったものの、上司が見つけなければ大きな事故に発展するミスだった。自分がしでかしたことの大きさに、当時は泣くほど悔しかったのだが、記憶の中の上司は怒っているだけではないことがわかる。今の私なら、上司と同じように熱く語ってしまうだろうな……と、思った。
記憶の中をさらにさまよってみると、今度は大学の卒業式のときの記憶を発見することができた。両親が、こんなところを見られるなんて思わなかった……と、泣いている。当時は大げさだなあ、と笑ってしまったものだが、今思えば、22年育てた子供の巣立ちだったのだから、両親の感動もひとしおだったに違いない。母の涙を見て、私の目も少し潤んだ。
その記憶から遠ざかり、次に現れたのはどうやら高校時代の記憶のようだった。女子高に通っていた私はセーラー服を着て下校をしているらしい。隣にいる女の子の髪型は同じクラスだったともちゃんのような気がする。懐かしい気持ちで私はその記憶に近づいた。
「それでねー、先輩が意味わかんない感じで怒っちゃってねー」
ポニーテールの女の子は、やはりともちゃんだった。話しているのは部活の先輩のことだろう。ともちゃんが先輩の話をするのは日常茶飯事だったにもかかわらず、その会話の大半は覚えていない。こんなに他愛無い会話も残されているのか。記憶ってすごいな、と思っていたその時だった。
「みぎ、じゃ、ん、どうじ、で、へんだ、なにが、」
突然、聞こえてくる声がおかしくなった。会話が間延びして、声が遠くなっていく。はっとして振り向くと、ともちゃんの姿がぐにゃりと波打って歪んでいた。不安を煽られて周囲を見渡すと、夕暮れの下校道は滲みながら闇に巻き込まれている。道や建物、見える景色の全体がぐちゃぐちゃと揉まれるようにして、世界の色が濁ってがおかしくなっていく。
「何!? なにが起こってるの? やめて! 私の記憶を壊さないで!」
ぐずぐずと混ぜられていく記憶の中の世界は異常だった。このままだと、記憶を振り返っている私ごと世界がおかしくなってしまう。つぶれて何もかもが溶けていく。
壊れそうな記憶の中で、「助けて!」と、叫んだところで、はっと我に返った。
周囲は夕暮れの通学路ではなく、MTSのカプセルが置かれていた白い部屋で、私の周りを白衣の人物たちが取り囲んでいた。MTSの技術者と専任のドクターたちだ。皆、心配そうな顔をして私を覗き込んでいる。看護師がバイタルサインを測定しながら、私に大丈夫ですよ、と声をかけてきた。
「今、私の記憶の中がぐちゃぐちゃになったんです! 何かが私の記憶を握りつぶしてきて!」
震えながら話す私に、ドクターが優しく話しかけてきた。
「だと思いました。今回は少し前にさかのぼるだけということだったので、そのための細胞しか採取していないんです。無理に過去を振り返ろうとして、エラーが出たんですよ」
少しベッドで休ませてもらった後、MTSの店舗を後にした。まさか、自分がMTSのエラーに巻き込まれるだなんて……。思い出すだけでもぞっとしてしまう。私は、サービス内容を無視して、軽率に記憶を振り返ろうとしたことを反省した。
しかし、事件に巻き込まれてしまったようなハラハラする体験をしたものの、印鑑の行方を知ることはできた。これで週明けの引っ越し契約ができる。私は、印鑑は箪笥にある、と忘れないように繰り返しつぶやきながら帰路についた。
***
「しかし、驚きましたね。気が付きませんでしたが、あのお客さんクローンだったんですね」
本日分の採取された細胞を破棄しながら、MTS店舗の技術者が言った。
「みたいだな。コース外の過去を振り返り始めたから、あらかじめ先回りして過去を確認しておいてよかった」
「事故で高校生の時に一度亡くなっていたみたいですね。ご両親がクローンを作ったのでしょうか?」
「最近はクローンを作るときには、良くない記憶を削除してクローンのデザインができるらしいからね。さっきのお客さんも、クローンを作る際に事故の記憶は消して作られたんだろう。お客さんが表現した通り、記憶を握りつぶされたんだろうな。それでMTSでの再生ができなくなった、というわけだ」
「いろいろあるんですねえ……。とりあえず、エラーメッセージをMTSの開発チームにフィードバックしておきます!」
「ああ、よろしく頼むよ」
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