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恋は思想の彼方に

昇降する男のリビドー

作者: 黒船雷光

 大学からの帰り道。駅の長いエスカレーターに、僕はぼんやりと足を乗せた。

 今日こそは、あの屈辱的な電車での出来事

(脳内会議だけ盛り上がって何もできなかった件)

 を反芻しまいと、虚空を見つめていた、その時だった。


 ウィィィン……。

 一段、また一段とベルトが僕を上階へと運んでいく。

 ふと、視線が数段前方の人物に吸い寄せられた。


(……ん?)


 すらりと伸びた脚。軽やかに揺れる、短めのスカート。

 …短い。かなり、短い。


 瞬間、僕の脳内で再び緊急事態発生を告げるサイレンが鳴り響いた!今度は前回とは違う、もっと原始的で、もっと切実なアラートだ!


『警報! 警報! 前方高エネルギー反応! 視覚情報、解析急げ!』


「うおおおおおおっ!」真っ先に雄叫びを上げたのは、半裸で棍棒を振り回す原始人風の【本能(リビドー担当)】だ!

「見ろ! あれを見ろ悠斗! 神からのギフト! 文明の叡智! 我らが希求する楽園への扉が、いま目の前に!」


「待て待て待て! 貴様、正気か!」

 慌てて飛び出してきたのは、六法全書を盾にする堅物弁護士風の【理性(社会規範担当)】!

「倫理コード第7条! 公共の場における不適切な視線は断固として禁ずる! そもそも、それは犯罪的行為に繋がりかねんぞ!」


「やかましい!」リビドー担当が棍棒を振り上げる。

「神経科学部隊からの報告を聞け! ドーパミン放出予測、計測不能レベル! 報酬系、フル稼働準備完了! これは抗えない『刺激追求性(Sensation Seeking)』の発露だ!見たい! 見るべきだ! 見なければ損だ!」


「損とか得とかの問題ではない!」理性が叫ぶ。

「それは相手の人格を無視した、一方的な搾取だ! 己の衝動を制御しろ! 認知リソースを道徳的判断に振り分けろ!」


「ぬううう…しかし、しかしだ! あの角度、あの無防備さ! これは進化の過程で我々が獲得した、子孫繁栄に繋がる可能性のある情報を…」

 いつの間にか白衣を着て分析を始めた【進化心理学(曲解担当)】が口を挟む。


「黙れ変態学者!」理性が一喝。

「そんなものは後付けの言い訳に過ぎん! それに、前回の一目惚れ分析で学んだはずだ! 安易な『ポジティブ・イリュージョン』や『ハロー効果』は危険だと!」


「今回はイリュージョンじゃない! リアルだ!」リビドーが地団駄を踏む。

「ミリ秒単位の『速い認知』 が告げている! これは見る価値があると!」


「価値の問題ではないと言っているだろう!」

「価値はある! 大ありだ!」

「目を逸らせ! 上を見ろ! 天井のシミでも数えるんだ!」

「いやだ! 下が見たい! スカートの下が!」

「この獣め!」

「人間だもの!」


 脳内は大戦争。


 リビドー軍と理性軍が壮絶なバトルを繰り広げる。

 僕は生唾をごくりと飲み込み、視線をどこに向けるべきか必死に葛藤する。

 見たい、でも見ちゃいけない。見たい、でも捕まりたくない。見たい、でも…。


(そうだ、マインドフルネスだ…!)

 僕は必死に授業で習ったテクニックを思い出そうとした。

 現在の状況に注意を向け、評価せず、ただ受け流す…。


(……無理だ! 雑念スカートしか浮かばん!)


 まさに僕の脳が、リビドーの甘美な誘惑に陥落しかけた、その時!

 エスカレーターが最上段に到着した。

 前方の女性は、何事もなかったかのように颯爽と前へ進み、雑踏の中へと消えていく。


「「あ……」」


 リビドーと理性が、同時に間の抜けた声を上げた。

 勝負、つかず。


 僕は額の汗をそっと拭った。危なかった…。

 本当に危なかった。理性よ、よくぞ耐えてくれた。


(…いや、単に時間が来ただけか)


 安堵と、ほんの少しの残念な気持ちが入り混じる。

 心理学を学べば学ぶほど、自分のコントロールの難しさを痛感する日々。

 悠斗、前途多難である。とほほ…。

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