三十二 児を持つ母(2)
汪仔空は目を腫らしていた。それでも涙は止まらず、いっそ枯れてしまってもいいと言わんばかりに泣き続けていた。二人が来たのを湯皓宇が見て眉を顰めながら無理やり笑う。その目にはまた涙が浮かび上がっていた。
「……ごめんな、巻き込んで」
その言葉はかつての秦麗孝と同じだった。それを聞いて宁麗文は鼻の奥が熱く痛くなって目を閉じて頭を横に強く振った。
「巻き込まれたんじゃない、私たちが無理やり入ったんだ」
また心の中に後悔が多く生まれる。
この二つの世家の事情に深く入らなければこうはならなかった。湯一鳴を一度神呉へ帰さなければ彼は今も生きていた。
死にたくなるほどの罪悪感が立ち込めて、宁麗文は自分の胸元を強く握り締める。
「ごめん……」
湯皓宇は頭を振った。そして弟の亡骸と彼の想い人を共に起き上がらせる。目を閉じたままで動かない湯一鳴をゆっくりと自分の腕に移した。汪仔空はそれでも離れずに、彼の首元に顔を埋めたまま抱き締める。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私が湯連杰に近付かなかったら、死ななかったのに」
しゃっくりをしながら、鼻をすすりながら首を横に振ってまた奥に顔を埋める。
「お願い……お願いだから……阿鳴、起きて……生きてなんて、なんで言ったの」
宁麗文と肖子涵もその場でしゃがみ込む。湯一鳴の顔は苦痛に喘がず、ゆっくりと微笑んだままだ。しかし日に焼けていたはずの顔色はもう元には戻らない。
「汪仔空……」
宁麗文が声を掛けても、彼女は顔を上げない。どうすることもできずに肖子涵を見るが、彼も何も言わないまま頭を振った。湯皓宇は瞼を揺らしてまた溢れた涙を頬に一筋流す。
「俺が、無理に剣を持たせていればよかった。そうしたらこんなことになんてならなかった」
一つ震えながら息を吸って弱々しく吐く。
「汪仔空も、ごめん。俺の責任だ」
小さく呟く湯皓宇の声に汪仔空がゆっくりと顔を上げる。下唇を強く噛んで、眉と目元を酷く歪めながら、しゃっくりを上げながら頭を振る。
人の責任ではない、自分の責任だと強く思っている。自分のせいで愛おしい人を死なせてしまった。自分が出しゃばらなければ今も生きて、もしかするとまだ一緒にいられたのかもしれない。その責任はそれほど強く重いのかを痛いほど分かってしまった。
宁麗文は汪仔空の自分を責めていた言葉を思い出していた。
「汪仔空。君は悪くない」
宁麗文は彼女の元で膝をついて続ける。一度湯一鳴を見て、また彼女を見る。
「だけど、湯皓宇も湯一鳴も悪くない。皆、悪くないんだ」
「……それじゃ、なんで阿鳴は死ななきゃいけなかったの……」
それに宁麗文は言葉に詰まった。汪仔空は視線を下に向けて自分に嘲笑う。
「……分かってたわよ。私がこの子に迫ったせいで、この子との子供を身に宿した時点で……私が阿鳴の人生に枷をつけたの。私のせいなのよ、全部……」
それに眉を顰めて、少しだけカチンと頭にきた宁麗文が大声を上げる。
「そんなことっ……そんなことを言うな!」
それに彼以外の全員は驚いて一斉に顔を見る。注目された宁麗文は言葉に迷って視線をあちらこちらに促してからまっすぐ汪仔空を見る。
「この前言ったことを忘れたのか? 自分のことを悪く言ったら、湯一鳴はどう思う? 全力で愛している人の前で自虐するのはやめろよ」
汪仔空はあの穴ぐらの中で、宁麗文と二人で話していたことを思い出す。一度瞬いた彼女の瞼の裏には優しい顔をして笑いかけている湯一鳴がいて、黒色の目が潤んでいく。
「君は迫ったとか言うけど、彼にとってはどうだと思う? 君に『生きて』って言うのはなんでだと思うの? 湯一鳴は君のために言ったんだ。君との離れたくない繋がりを断ちたくなくて、君に生きてほしくて言ったんだろ。それを自分のせいだって言うなよ。湯一鳴が怒るだろ」
「……でも、私が出なかったら、死ななかった……」
それに湯皓宇が代わる。
「それでもあのクソ野郎は止まらなかったんだ。あんたが言わなきゃ、あいつは今でも暴虐の限りを尽くしてたし、被害も抑えられなかった。すぐに駆けつけられなかった俺が悪いんだ」
弟の肩を強く握りながら俯く湯皓宇に、汪仔空は瞼を伏せて涙を二粒ほど流してから開く。
しゃっくりを一つ、少し間を開けて息を吸う。
「ううん。大丈夫」
そして湯一鳴から身を離して立ち上がる。彼女以外の三人はその涙の跡を強く残した顔を見上げるが、汪仔空はにっこりと笑った。
「私、言ってくる。お父様とお母様に、阿鳴との子供がいるってこと」
宁麗文は一度瞬いて立ち上がった。肖子涵も彼が立ったのを見て隣に並ぶ。
「今言わないと、私のお腹が大きくなった時には遅いから。言って、北武汪氏と神呉湯氏の縁を繋げてくる」
汪仔空は振り返って邸宅へと進んでいった。宁麗文は彼女と湯皓宇を交互に見て、彼は困ったように小さく笑う。
「あの子に着いてってくれないか。俺は阿鳴を連れて神呉に帰る」
それに肖子涵が小さく頷いた。
「分かった。湯連杰の件に関しては江陵で裁判が行われるだろう。宁巴が宁雲嵐殿に連絡すればすぐに手配される」
「えっ、私が言うの……」
宁麗文が困り顔で肖子涵を見る。彼はその顔を見てまた頷いた。
二人が汪氏の邸宅に着いた頃、門の中に汪俊杰と汪夫人、そして真ん中に汪仔空が立っていた。二人が門の中に入ればちょうど彼女が両親に口を開くところだった。
「お父様、お母様。私、阿鳴との子供がいるの。私、彼との子供を産みたい」
泣いて声を枯らした彼女ははっきりと伝える。汪夫人は顔を青ざめて口元を両手で覆い、汪俊杰は顔を顰める。
「湯氏との子供なんて……」
汪仔空はきっと反対されると分かっていた。
神呉湯氏の宗主は湯連杰だったのだから、その息子たちももしかしたら暴君かもしれない。それに孕んだとなればきっと彼女は湯一鳴という男に強姦に近い形で迫られてできたのかもしれない。だからこそ愛娘の身を案じている。それも分かっていた。しかし、彼女はその言葉を振り切って強く続ける。
「今でも湯氏との関係は悪いのは私でも分かる。でも、阿鳴と湯皓宇は違う。あの人たちは私の味方でいてくれた。それを、宁麗文も肖子涵も知ってくれている」
三人の親子は宁麗文と肖子涵に顔を向けた。二人は頷いて少し歩いただけでまた止まる。汪仔空はもう一度両親に向き直った。
「阿鳴は私を愛してくれていた。私も、あの子を愛している。だから産みたいの。産んで、北武汪氏と神呉湯氏の縁を繋ぎたい。もう喧嘩なんてやりたくない。二度とこの惨劇を繰り返したくないの」
青ざめていた汪夫人はしばし躊躇い、瞼を伏せて唾を飲む。息を深く吸って吐いて、意を決したように瞼を上げて汪仔空の肩に片手を置いた。
「分かりました」
それに汪俊杰が驚く。汪夫人は彼に顔を向けて見上げる。
「あなた。この機に神呉湯氏との対談を進めましょう。もう既に湯連杰は宗主からの座から退いた。次の宗主はあの暴君の息子である湯皓宇です」
「それは分かっている。しかし、彼もまた湯連杰と同じになるのではないのか。先程のは礼儀正しいと思っていたが、しばらくすれば化けの皮が剥がれるだろう?」
「ならない。湯皓宇は強い人で、阿鳴を強く想っていて、民のこともちゃんと考えているわ。それにこの戦争だって、彼なりに止めようと必死になっていたのよ」
父の言葉に娘が答える。肩に手を置かれたまま彼に身体を向ける。
「あの人はしっかり者で、そして責任感が強い。だからお父様、湯皓宇……いえ、湯宗主との対談をお願いします」
娘の、先程は悲観に暮れていた瞳とは違う、強くこの先を見据えた力強い眼差しをしていた。汪俊杰はその目を見て少し顎を上げ、そして頷く。
「分かった」
そして息をついてまた吸う。
「阿仔」
「はい」
「お前は必ず子を産みなさい。そして育てなさい」
汪仔空の真っ黒な目が揺れ動く。そして小さく潤んだ。汪俊杰は目を細めて優しく微笑む。
「北武汪氏と神呉湯氏の導となりなさい」
汪俊杰の手が汪仔空の空いたもう片方の肩に置かれる。彼女は小さく開いた口を一文字に結んで、力強く頷いた。両親の手がそれぞれ離れて、そして宁麗文と肖子涵を見る。門の近くにいた二人は急に目線を向けられて思わず背筋を伸ばした。
「宁麗文」
「はい」
「宁雲嵐に連絡し、湯連杰を送致させなさい。そして後日訴訟を起こすので、それも伝えておくように」
「承知しました」
汪俊杰は口元を少し上げて「阿仔を守っていただき感謝する」と締めた。二人は拱手をして門の外へ出てそのまま北武を出る。門の内と外にはまだ戦争の遺骸が残されていた。宁麗文はそれを見てまた瞼を揺らしたが、肖子涵がその目を塞いだ。
「見たくないものは見せない。御剣をして河の外へ行こう」
目を塞いだ肖子涵は宁麗文を自分の目の前に立たせて手を離す。宁麗文は揺らしていた瞼を開けて彼を見上げた。
「……うん」
その後の宁麗文は残りわずかの霊力でまともに御剣ができず、瞼をきつく閉じて肖子涵の胸の中にいたまま、彼の御剣で河の外へ出た。楠塔森の近くに降りてすぐに伝達術で宁雲嵐にことの顛末を手短に伝える。その後すぐに彼からの了解の返事をもらった。
「これからは私たちが介入しても仕方がない。後は彼らの行く先を見守ろう」
肖子涵は頷いて彼の手を引いて歩き出す。宁麗文も手を引かれながら俯きかけた顔を上げて歩き始めた。




