三十一 戦争(2)
「肖……肖寧、助けて! たすっ……肖寧! 肖寧!! 蜘蛛!! 蜘蛛っ、蜘蛛がっ!!」
青から白、黒へと顔色を変えながら宁麗文は肖子涵にしがみつく。その間にも蜘蛛は彼の顔へと近付いていた。身体が拒絶反応を起こして手で払おうにも震えが止まらない。
「ぎゃあああああ!! 来るな!! 肖寧、肖、助けて!!」
「宁巴、落ち着け。今取るから……動くな、取るから、宁巴」
「取って取って取って! 取ってくれよお!!」
宁麗文は蜘蛛がいる方向とは逆に顔を背けて彼にずっと抱きつく。肖子涵はそれに身を硬くしながらも蜘蛛を素手で取って向こうへと放り投げた。
「宁巴。もう取った。取ったから……」
「本当? 本当に取った? 嘘じゃない?」
半べそをかきながら宁麗文は肖子涵を見上げる。頷いて彼の、蜘蛛が乗っていた肩を叩いて目を向けさせた。宁麗文はいないことを確認して安堵の溜息をついてから彼から身を離す。鼻をすすってから目尻に溜まった涙を拭った。
「ありがとう。君がいなかったらきっと気絶してたよ……」
「そんなに蜘蛛が苦手だったか?」
宁麗文は青ざめた顔のまま肖子涵を見上げる。
「琳玩で玥さんと戦った時に、私の背中に大量の蜘蛛がいただろ。その後床で潰した時の感触で……ううっ」
両腕を抱えて身震いをしてまた泣きそうになる。肖子涵は思い出してから瞼を閉じて首を少し傾げた。「そういえばそうだった」と思い返して彼を可哀想な目で見る。
宁麗文はあの時、背中に張りついた蜘蛛を追い払おうとして背中で床に着地した時に大量の蜘蛛を潰して、そこから出る体液に恐怖を植えつけられてしまったのだ。羽織っていた外衣がそれの犠牲になっていたが、背中にその感触が残っていた彼は立ち直れるほどの気力がなかった。それ以来蜘蛛を見つけてしまえば、大小関係なしにあの日のことを思い出して気を失いたくなるのだ。
「森には虫もいるんだったな。そりゃあ蜘蛛もいるか……最悪だ……」
泣きかけながら腕を擦る手を肖子涵がそっと剥がす。それまで俯いていた宁麗文は顔を上げた。
「あなたの嫌なものは全て見せない。あなたの好きなものだけを見せる」
瞬きをしてぽかんと口を開ける宁麗文は、次第におかしくなって口元を緩める。
「何を言ってるんだ。そんなことできるのか?」
「できる」
「どうやって?」
肖子涵は彼の目をただじっと見る。宁麗文は首を傾げて見上げたままだ。
「それは……」
何も言えなくなった彼に宁麗文はまた笑った。ひとしきり笑って息を吸って吐く。肖子涵は下唇を軽く噛んで瞼を閉じた。
「そんな難しいことなんて言うなよ。でも、私の嫌いなものは見せないでくれるんだろ?」
「ああ」
「だったら、私も君の嫌いなものを見せないようにする。私だけじゃ不平等だろ。こうしたら平等になるんだし、私にも君の好きなものだけを見させてくれよ」
肖子涵は瞼を上下に軽く揺らしながら微かに口元を上げる。宁麗文はその顔を見て更に口角を上げて、目を弧にして彼の腕を軽く叩いた。
「そろそろ戻ろう。二人も心配してると思う」
「湯一鳴はそうではないと思うが……」
宁麗文は軽く笑う。
「湯一鳴はそうじゃなくても、汪仔空はそうだろ? 最初の時とか、散歩をしてる時にいっぱい話をしてたんだけど、とてもいい子なんだよ。彼が好きになるのも納得だ」
肖子涵は瞬いて、そして「そうか」とだけ返事をした。
歩きながら周囲に警戒する二人はその後も話をする。一度間が空いて宁麗文は汪仔空と話していた内容を思い出していた。
(そういえば、いつも恋の話ばっかりしてたな。肖寧もそういうのとかに興味でもあるのかな?)
肖子涵は黙った彼に目を向ける。口を開こうとした時、先に宁麗文が口を開いた。
「ねえ、肖寧」
「なんだ」
「君って好きな人とかいる?」
それを聞いた肖子涵の足が止まった。一歩、二歩のところで宁麗文も立ち止まって振り返って首を傾げる。
「肖寧?」
肖子涵は彼の顔を見て視線を逸らして俯く。
「……なぜ、その話をする?」
宁麗文は一つ瞬く。
「汪仔空と話をしてたんだ。まあ、恋の話だよ。せっかくだし、君にも好きな人はいるんじゃないかなって」
また口角を上げる彼に肖子涵は瞼を何度も瞬かせて、それはまるで何かに迷っているような仕草をする。宁麗文は彼の前に立って顔を下から覗いた。
「どうした?」
「……」
肖子涵は小さく息を吸って吐いた。小さい声で、微かに震わせながら呟く。
「……いる」
宁麗文はそれを聞いて顔を輝かせた。
「へえ、いるんだ! どんな子? 君が好きって言うんならその子はきっといい子なんだろうな」
にこやかに笑う宁麗文に肖子涵は違う方向に視線を逸らした。
「俺と正反対の人だ」
「正反対?」
「人に優しくて、たまに面倒なこともあるが……それでも愛おしいと思っている」
宁麗文は小さく噴き出して口元を拳で押さえる。
「なんだその子。面白いじゃないか。どこに住んでるんだ? もしかして私も知ってる子? でも、女の子の知り合いなんてほとんどいないな……」
宁麗文は片肘を支えてそのまま顎を支える。ぶつぶつと呟く彼の前で肖子涵は頭を振った。
「あなたもよく知っている」
「私もか? じゃあ誰なんだろう」
「いつか分かる」
宁麗文は小さく口を開けて顎から手を離し、瞼を瞬かせて首を傾げた。肖子涵の想い人は彼も接したことがあるという。宁麗文はこれまでのことを思い出していくのだが、中々それに該当する人物は出てこなかった。
「もう行こう。二人が待っている」
肖子涵は溜息を吐いて彼の前を通って歩き始める。宁麗文も我に返って「待ってくれよ」と慌てて着いていった。
穴ぐらに戻ると湯一鳴と汪仔空は肩を寄せあって眠っていた。宁麗文と肖子涵は互いに頷いてからそっとそこから出る。
「やっぱり、ずっと緊張してたみたいだ。そりゃそうだよな」
肖子涵も頷く。顔を楠塔森の入口に仰ぐと急に眉を顰めた。
「肖寧? どうしたんだ」
「──待ってくれ」
「え?」
肖子涵は穴ぐらから離れた場所で札を取り出した。それに霊力を込めて瞼を閉じる。その後に札は塵になって地面に流れ落ちた。つまり、彼は伝達術を使ったのだ。宁麗文も少し眉を顰めて彼の元へ行く。
「何があったんだ?」
「北武で騒ぎがあった」
「は? え、だ、誰からの連絡だよ」
肖子涵は宁麗文の顔を見る。
「湯皓宇からだ」
二人は急いで穴ぐらに戻って湯一鳴と汪仔空を起こす。急に起こされた二人は戸惑っていた。
「北武に騒ぎがあったらしい。とりあえず、君たちはここにいて」
「え、ほ、北武に?」
汪仔空が驚いて声を出す。その顔はまた白が見えた。
「お父様とお母様は? 皆は? ど、どうなってるの?」
「分からない。状況を把握してくる」
肖子涵は先に穴ぐらから出た。宁麗文も出口に向かいながら振り返って「そこで待ってて」と言って出ていった。残された湯一鳴と汪仔空は互いに顔を見合せてただただ戸惑いながら何も言えなかった。
外に出た二人は御剣で北武へ向かう。見えたところから赤と黒煙が見えた。
「まさか」
肖子涵が声を漏らす。そのまさかだ。宁麗文は顔を白くしながら「早く行こう」と進んでいった。
少し時間を経て北武の門の下へ降りる。そこには神呉湯氏の兵や門弟たちが剣や弓を持って攻め入れようとしていた。
「やめろ! やめろって言ってるのが聞こえないのか!?」
遠くの方に湯皓宇の声が聞こえる。二人は顔を見合わせて頷いてから彼の元へ駆けた。
既に壊されてしまった門の中へ兵たちが入ってきていた。晴れた日の中、北武の人々は悲鳴を上げながら殺され、そして倒れていた。所々に炎が立ち上がっている。煤の焼けた臭いと熱風が門の中を包んでいく。宁麗文と肖子涵はその悲惨な状態に呆然と立ち尽くしていたが、我に返って湯皓宇を探す。
奇襲を仕掛けられたのだろう、汪氏の門弟たちは出遅れてしまい、焦りながら住民を守ったり門の下まで駆けて湯氏を防ごうと必死になっていた。しかし、あまりにも突然のことで上手く連携が取れていない。
「なんでっ……なんで言うことを聞かないんだ!? 親父、あんた、おかしいよ!」
湯皓宇は自分の部下を峰打ちにしながら父親である湯連杰に怒声を浴びせる。彼は邸宅に続く中心部の高台に立っていて、病に臥していたとは思えないような形相で剣を振りかざしていた。
「おかしくなどない! 阿鳴がいなくなったのはこいつらのせいだ。阿鳴を今すぐ出せ、でなければ貴様らの命はない!!」
低くて獣の唸るような声が響き渡る。奥の汪氏の邸宅から汪俊杰が顔を歪めながら「やめないか」と叫んだ。それを聞いた湯連杰は彼を見て口元を上に歪める。
「今こそ決めるべきだろう! あの河は俺のものだ!!」
「あの河は誰のものでもない。何度もそう言っている。お前は自分のためだけに使いたいだけだろう!」
湯連杰はそれを聞いて鬼のような形相になって汪俊杰へ向かって剣を振りかざす。汪俊杰は咄嗟に自分の剣でそれを塞いだ。
「湯連杰。貴様、これまで何回戦を起こしかけた? 貴様の息子はここにはいない。別のところにいるだろう」
「いいや、ここにいる。では、なぜ俺の息子の剣の位置が分からないのだ?」
宁麗文と肖子涵は双方の宗主の戦いに目を向けながら湯皓宇の居場所を見つけて合流した。彼にはいくつもの擦り傷がついていた。
「湯皓宇、これは一体」
「宁麗文、肖子涵。助けてくれ」
湯皓宇は顔を歪めながら近くの兵を気絶させる。宁麗文と肖子涵もそれぞれ剣を抜いて民衆に襲いかかる湯氏の兵や門弟を気絶させていく。
「俺が親父に嘘を言ったらすぐにバレちまった。あいつが剣を持っていかなかったことを知られてああなったんだ。阿鳴と汪仔空はどこにいる?」
「河の向こうの森にいる。そこの穴ぐらに避難させた。湯一鳴は剣を佩いていないから、こちら側にすぐには来れない」
湯皓宇は顔を歪めながら「クソッ」と暴言を吐く。父親の元へ向かって彼の剣を自分の剣で弾いた。そしてすぐに双方の宗主の間に滑り込み、自分の親と剣を交わらせる。
「親父、いい加減にしろ。汪宗主がこう言っているんだ。阿鳴はここにいない!」
「いるだろう! お前はさっき、何を見ていた? 阿鳴の向かった場所は北武だろう?」
「そんなわけあるか! あんたこそ何を見てたんだよ。俺たちのことなんてこれっぽっちも考えてないくせに、今更父親ぶんな!!」
湯連杰は息子からの罵声にこめかみに二本の青筋を立て、剣を握る手に力を込めた。湯皓宇は下唇を噛みながらそれに耐える。足はずりずりと後ろへ下がっていって汪俊杰の胸元に近くなった時、彼も加勢するように湯連杰に剣を交わらせた。湯連杰はそれを見て「この裏切り者が!!」と湯皓宇に罵声を浴びせた。




