二十七 巣立ち(1)
小鳥の囀りに宁麗文は目を覚ました。胎児のように横に丸まっていて、顔の向けた方向をぼんやりと見る。そして何回か瞬きをして視界を明瞭にさせる。そこには知っている男の、瞼を閉じて眠っている顔があった。宁麗文は綺麗で薄いその唇を見て、琳玩での口付けを思い出して身体を仰け反る。壁に思いきり頭をぶつけて両手で抱えながらうつ伏せになって悶えた。
琳玩での任務中の閨房はやや広めの寝台で寝ていたので、ここまで密着するほどではなかった。宁麗文はあの日以来、肖子涵と顔を近付けてしまうとどうしても口付けのことを思い出してしまって、まともに見られなくなってしまったのだ。
(なんっ……どうっ……!?)
どう言えばいいのか分からないまま横になって蹲っていると、その音で起きた肖子涵が片肘を立てて宁麗文を心配そうに見る。
「……おはよう」
彼からの声に宁麗文も頭を抱え、真っ赤で涙を堪えながら「おはよう……」と返した。
二人は起き上がってそれぞれ着替えを済ませて剣を佩く。宁麗文はその間もあまり肖子涵の顔を、それも唇を見ないようにしていた。両手で顔を覆いながら籠る熱を逃がすことに苦戦する彼に、肖子涵はどう声を掛けていいのか困っていた。
宿を出て橙花坊を過ぎる。門の下をくぐって桂城から出て、二人は御剣で江陵へ戻った。
宁麗文はそのまままっすぐ青天郷を通って邸宅に帰り、肖子涵も招いて中に入った。宁浩然の元へ行こうと書室に向かっていると、途中で宁雲嵐と会った。
「おかえり。任務はどうだった?」
「ははは……」
宁雲嵐は浅く笑う弟に怪訝な顔をしながら視線を上にずらす。その先の肖子涵に口元を上げた。
「麗文と帰ってきたのか」
「はい」
「それで? お前たちは今からどこに向かうんだ?」
宁麗文はそれに「父上に会いに行くよ」と返す。宁雲嵐はその答えに苦笑した。
「父上はまだ体調を崩してる。前からそうなんだ」
「そうなの? 本当に珍しいね」
宁麗文は片方の肩を壁に押しつけるようにしながら腕を組む。目を閉じて溜息を吐きながら頭を振った。
「だから今更書室に行っても無駄だ。元々四年前に肖子涵殿と関わるなって言われてたんだから、余計に行っちゃダメだろ」
「えっ」
肖子涵は驚いて声を漏らす。見開いた目を幾度か瞬かせて隣にいる彼を見た。宁麗文も呆れ笑いを浮かべながら彼から顔を逸らす。
(そういえばそうだった……忘れてた)
宁浩然はしつこいほどに、特に宁麗文に「肖子涵と関わるな」と釘を刺していた。その理由は分からないが、それを聞いた宁麗文は余計に反抗心を見せて彼と共にいてやると心の中で決めていたのだ。
宁雲嵐も困り笑いを浮かべて「それに」と言葉を続ける。
「世長会でもまともに出られないんだから、俺が代わりに進行する羽目になった」
「どちみち今は出席数が少ないんだからいいんじゃないの?」
宁雲嵐は壁から離れてあさっての方向を見る。その顔は疲れが溜まっているように見えた。
「まあ、次期宗主たちが欠席し始めたのは仕方ないとして。お前も理由は分かってるし、どうにもならないだろ。でも現宗主たちは普通に出席してる。……一部を除いてな」
「一部? どこの?」
宁雲嵐はそのまま肖子涵に顔を向ける。宁麗文は彼に続いて肖子涵を見て、向けられた本人は微かに眉を上げた。
「あんたんとこの、洛陽肖氏が欠席続きなんだ。何か知ってるか?」
「いえ」
宁雲嵐はまた長い溜息を吐いた。
「……そこもだけど、闊獅石氏も欠席が多くなった。だからその辺りの邪祟の情報が分からない。あんたに聞けば分かると思ったんだが……どうしようか……」
宁雲嵐の手が自分の頭を支えて、顔はぴくぴくと動いている。まさに疲労困憊、その言葉が似合った。宁麗文は苦笑してその疲労に疲労を重ねている彼をもう一度見上げる。
「あのさ。私たち、これから旅に行くんだ。だからしばらく江陵には戻らないよ」
「……は?」
「肖寧とも久しぶりに会ったんだし、まだ話し足りないこともあるんだ。これを父上に言いに行こうと思ったんだけど、せっかくだし兄上に今言おうと思って」
宁雲嵐は頭から手を離して何度も瞬きを繰り返し、宁麗文と肖子涵を交互に見る。
「は!?」
宁氏の邸宅の中で、宁雲嵐の声が響き渡る。二人は彼の大声に耳を塞ぎながら、特に宁麗文が顰めっ面をした。
「ちょ、うるさいな」
「うるさい言うな! 急にそんなことを言われても困る。というかそれを父上や母上に言ってみろ! どう返ってくるか分かるだろ!」
「それも考えて今言ったんだよ。ていうか兄上にしか言えないし、父上は倒れてるし、母上に言ったらどうなるかも分かるし。一番マシなのは兄上だから言ったんだ」
「それを父上と母上に言うのが俺なんだろうが! これ以上心労を重ねさせるな! 自分で言え自分で!」
続けて出る宁雲嵐の大声に宁麗文は両手でずっと耳を塞ぐ。そのうち宁雲嵐の人差し指が彼の額をぐいぐいと押し始めた。
「いいか? お前が自分から言わなかったら俺がどれだけ言われるか分かってるのか? 一人で怨詛浄化に行く度に俺に『あの子が一人で行くのになんで着いていかないの?』とか言われるんだよ。お前なあ、俺だけじゃなくて、お小言もらってでも母上にも一言言ってから家を出ろよ。父上と俺だけだと分からないだろ。母上だってお前の口から言わないと分かってくれないし、俺を介したら俺が責任を負うことになるんだよっ!」
「痛い痛い痛い! 分かった、分かったからでこに指を押しつけるな! あと声も大きい! 耳が死ぬだろ!」
「なんならお前の鼓膜も破ってやろうか!」
「やーーめーーろーー!」
宁兄弟が肩を上下に揺らしながら猫背姿で睨み合う。両耳から手を離した肖子涵が気まずそうな顔で誰かいないか辺りを探していた。それに気付いた兄弟は我に返って空咳をする。
「……とにかく、自分から言ってこい。俺は忙しいんだからこれ以上手を煩わせんな」
「分かったってば……」
宁麗文は押されてできた赤みを擦りながら溜息をつく。宁雲嵐はそのまま滅法へ向かい、二人の脇を通って去っていった。肖子涵は彼の後ろ姿を見送ってから宁麗文の顔を見る。その顔にはまだ気まずさが残っていて、宁麗文は浅く笑ってから「ごめんな……」としか言えなかった。
「いや、構わない。ただ、宁雲嵐殿とこういった会話もするのかと思っただけだ」
「それにしても君、相当気まずそうな顔してたぞ……いつもああいう感じじゃないからな? 本当だよ?」
宁麗文と肖子涵はまた廊下を歩き始めながら、今度は深緑のいる部屋へ目指す。途中で宁麗文は重い息を吐いた。
「はあ、憂鬱だ……」
「何がだ?」
宁麗文は首に手を当ててそのまま手の方向に首を曲げる。瞼を伏せて手を離して振り返る。首を傾げる肖子涵に少しだけ眉を顰めた。
「母上に言うことだよ。昔から何かと心配されるんだ」
「身体が弱いからか」
「それもそうなんだけど、なんだろう……違う意味も入ってくるのかな。どこへ行くにしても私が死にに行くような顔で見送ってくるし、ちょっと離れただけで色々と聞かれたりもするんだ。よく言えば溺愛だけど、悪く言えば束縛だ」
肖子涵は何も言わなかった。宁麗文は苦笑を浮かべて「こういうのだから嫌なんだよ」と続ける。
「だから怨詛浄化ばっかりでほとんど家に帰りたくなくて。帰ってきても報告書をまとめて父上に提出して、青天郷に遊びに行く。で、また依頼が来たらそこに行く。……それでずっと過ごしてきたよ」
「それが余計に心配される理由なのでは……」
「まあ、そうだね」
二人が会話をしているうちに宁麗文がふと歩みを止めた。看板には『信善』と書かれている。ここが目的地である深緑のいる部屋だ。
「母上」
戸を叩いて呼ぶと中から深緑の声が聞こえた。宁麗文は肖子涵を見て頷き、彼も同じように頷いたのを見て戸を開ける。




