二十五 愛おしい蕾(3)
再び歩いて門の外に出て雑木林の中に入る。適当な場所で雑魚寝をして、朝を迎えてから帰ろうと宁麗文が提案し、肖子涵もそれに同意した。二人はなるべく奥へ奥へと向かっていく。その途中で肖子涵がぴたりと動きを止めた。
「肖寧?」
宁麗文が振り返ると、肖子涵が彼の方を向いて人差し指を自分の口元に寄せて顎で先を示す。宁麗文は彼と同じように横を見る。そこにあった場所に愕然と衝撃を受けた。
暁蕾が龔飛龍の剣で自分を刺していたのだ。
龔飛龍は彼女の行動に顔を青ざめて剣を奪おうとする。しかし、暁蕾はそれに抗った。
「なんで……暁蕾さん、どうして……?」
悲痛な声を上げる龔飛龍に彼女は笑った。
「やっぱりダメだって思ったの。あたしはあんたの妻にはなれない。あたしは化け物だから、いつかあんたを喰い殺してしまう」
暁蕾は言葉を吐きながらより剣を奥に貫かせる。そこから黒い血が流れて落ちる。龔飛龍は首を横に振って彼女の手を握って止める。それを暁蕾は、逆流して出る黒い血を吐きながら微笑んだ。黒い血が想い人の手に落ちて、そのまま染まる。
「止めないで、阿龍。いい子だから」
「嫌だ……」
「子供みたいなことを言わないで」
「暁蕾さん、やめてくれ……」
暁蕾の手は更に深く刺す。腹に鍔が当たった。立っていられなくなってその場で膝をつく。龔飛龍もすぐに膝をついて手を握る。引っ張ろうとしても彼女はそれを拒んで柄を力強く握った。
「十年前、楽しかった。嬉しかったよ。あたしを出そうとしてくれて、ありがとうね」
彼は首を何度も振り絶望に満ちた目からは涙を零す。暁蕾はゆっくりと目を細めて血にまみれた右手で彼の涙を拭う。龔飛龍の頬にも彼女から出た黒い血がついた。
暁蕾は焦げた茶の双眸を見つめながら、初めて遊郭以外の場所に連れていってくれた日を思い出していた。彼に手を引かれて茶楼で初めて食べた点心に心を奪われ、好きなものが増えた。散歩をして他愛のない話から互いを愛する話を別れる時刻まで交わしていた。
そして、必ず迎える約束に黄金色の髪紐をもらったことを、それを死ぬまでずっと待ちわびていた。
(いつか、本当に迎えにくれると思ってた)
彼女はあの燃え盛った遊郭の中で一度死に、そして邪祟として生まれ変わった。一度は死にきれなかったと絶望し、しかし龔飛龍を守ろうと決意を固めて遊郭を転々として人を喰った。
彼女は初めて得てしまった後悔を抱えていた。それは、最愛の人に酷い嘘を言ってしまったこと。『放火魔』と呼んでしまったことだった。
(あの時の阿龍の顔、忘れることなんてできなかった)
死ぬ最期まで後悔して、そして生まれ変わった後でも後悔した。
彼女はあの日、あの焼けた遊郭の中で発見された黄金色の髪紐を桜綾からもらった。それは、彼女が亡くなる直前に胸に抱えて炎から遠ざけていた。黒く、丸まった姿の遺体を退かして発見された。それは炎に包まれていたはずなのに、塵一つも糸のほつれの一つも見当たらなかったのだ。
(でも。やっと逢えてよかった。また大好きなあんたを待っていてよかった)
目の前で絶望を露にしている、愛する人に子供をあやす様に微笑む。
「あのね、阿龍」
黒く大きい瞳は彼を映す。
「最期に、一つだけ、いい?」
龔飛龍は彼女のその姿に眉を顰めて首を小さく横に振る。
「……そんな……そんなこと、言うなよ。また失いたくない……やめてくれ……」
暁蕾は笑って目尻に涙を溜める。数回咳をしてまた黒い血を吐く。龔飛龍の剣から手を離して彼の頬を優しく包んだ。
「お願いだから、聴いて? お姉さんの望みを叶えさせて」
彼の涙は暁蕾の手を濡らし、彼女は潤んだ目から涙を零す。唇を震わせて息を小さく吐いた。
「口付けをしよう」
声を震わせながらそう言った暁蕾はにっこりと微笑んだ。龔飛龍は首を振れない代わりに涙を更に多く流す。
「してくれたら、あたし。幸せな気持ちで死ねるよ」
宁麗文は瞼を伏せて服を両手で握る。
今更助けることなどできない。彼は暁蕾を守ろうとしていた。しかし、彼女は邪祟で、行方不明事件の犯人だった。そして彼女は龔飛龍の想い人で、彼はようやく暁蕾と逢えた。
それなのに、今の暁蕾は死のうとしている。これがどんなに辛いことか、彼も分かっていた。
肖子涵は一度彼を見下ろしてまた視線を前に戻す。
邪祟と人間は共に暮らせない。それは暁蕾も龔飛龍も分かっていた。
龔飛龍はそれでも一緒にいたかった。
暁蕾は分かっていたから、死ぬのだ。
龔飛龍は「嫌だ」と繰り返す。暁蕾は微笑むばかりで、頬をずっと包むだけだ。
「もう時間がないの。お願い」
龔飛龍は泣きすぎて頭がおかしくなりかけていた。このまま夜が明けてしまえば暁蕾は消えてなくなる。その前に彼女は彼の剣で貫かれたまま出血多量で消えてなくなるだろう。
龔飛龍はしばらく躊躇い、意を決したように瞼を伏せて、鼻を何度かすすって、彼女を抱き締めた。彼の腹に自分の剣の柄が触れて、頬から手が離れた暁蕾の腹に鍔が食い込む。彼は身を離して彼女の両頬に両手で包んだ。泣きすぎて動けなくなった頬を無理やり動かして微笑んで、目を閉じた暁蕾の唇に自分の唇を合わせた。
目を開けた彼女はまた笑って涙を流す。彼女のつま先が崩れ、塵が舞い始めた。
「ありがとう。阿龍」
脚、太もも。
「あたし、幸せだよ」
だらりと垂れ下がった指、腕。
「ずっと忘れないで」
腹、胸。自分で刺した彼の剣は音もなく塵の上に落ちる。
「ずっと愛してるよ」
首、そして、頭。
暁蕾の綺麗な長い髪も塵になった。龔飛龍の手には黒い血と塵がついた。彼の手はだらりと垂れ下がり、そしてへたり込む。引き攣らせたままの頬に涙を流しながら微笑んでいた。服に被さった塵の山を見て、その中に隠れている紐を見つける。それはかつて、彼女へ贈った黄金色の髪紐だった。
龔飛龍は空を見上げて涙を止める。黄金色の髪紐を握り締めて鼻をすすった。
夜空には丸くて白く輝く、綺麗な月が微笑んでいた。




