二十五 愛おしい蕾(1)
龔飛龍のその声に宁麗文も肖子涵を眉を顰める。彼女は『玥』という名前であって『暁蕾』という名前ではない。なのにこの男ははっきりと彼女をそう呼んだ。
玥は少しの間だけ唖然とし、我に返って肖子涵に攻撃を仕掛ける。彼はそれをかわしながら後ろで呆然としている龔飛龍に声を掛ける。
「なぜ暁蕾と呼ぶ? 彼女は玥ではないのか?」
「玥? 誰だよそいつ。その人は暁蕾さんじゃないのか!?」
龔飛龍は青ざめた顔で一歩退く。宁麗文は玥に向かって駆け出した。
「ちょうどよかった、今はこの人を倒すのに協力してくれ。彼女が今回の事件の犯人だ!」
宁麗文は玥の背中目掛けて刃を突き立てる。玥の背中に刃が刺さる直前、何かが暗闇の中で鈍く光った。
「やめろよ!」
「なっ……!?」
宁麗文は驚いた。なんと、玥と宁麗文の間に龔飛龍が割り込み、宁麗文の剣先を彼が自分の剣で弾き飛ばしたのだ。振り返った玥も彼と同じように驚き、龔飛龍から一歩ふらつきながら退く。その顔には驚きを表し、色をなくしている。はくはくと何か言いたげにしながらも、玥は眉を顰めて龔飛龍の首筋に鋭い前脚を近付けた。それを見た宁麗文は彼から離れてしまい、そのまま止まってしまう。
「これ以上近付いたらこいつを殺すよ!」
その言葉に宁麗文、肖子涵、そして龔飛龍も全員止まる。玥は彼を人質に取った。それは彼らから逃げるための作戦なのだろう。宁麗文と肖子涵は臨戦態勢を取りながらもこの状況をどう突破するか考えあぐねていた。龔飛龍は何も言わないまま瞼を伏せる。それは玥と肖子涵からは見えない。宁麗文は目線を彼女から龔飛龍に変えた。眉を顰めながら彼の様子を見る。
「……暁蕾さん、あなたは死んだはずじゃなかったのか……?」
彼の沈んだ声に玥の、龔飛龍の首筋に沿わせていた前脚が一度震える。
「なんで、今になってここにいるんだ……あの時、焼かれて死んだだろ……」
その言葉に宁麗文と肖子涵はやっと分かった。十年前の放火事件の犯人の子供は龔飛龍だったのだ。しかし、彼の顔を見るに犯人だとは思えない。
玥は目元を歪める。それは先程肖子涵に見せた挑発に乗った時の歪みではない。別の感情での歪みだった。
「……じゃあ逆に聞くけど。なんであんなにあたしにつきまとってたわけ?」
それに龔飛龍は俯いた。玥はゆっくりと前脚を下ろす。宁麗文はその隙を狙おうとしたが、何かしてはいけないと感じた。彼女たちの後ろにいる肖子涵は廓偲を構える。それに気付いた宁麗文は彼に声を掛けた。
「肖寧。今はやめてくれ。待つんだ」
「……分かった」
肖子涵は宁麗文に言われた通りに廓偲を下ろす。宁麗文も祓邪を下げて玥への攻撃を止めた。
龔飛龍は俯いたまま片手では拳を握り、もう片手では剣の柄を握り締める。その両手は震えていた。
「なんでって……なんでって、あなたのことが好きだからだ。好きだからあなたを買って外に出したかった。好きだから一緒に琳玩を出て二人で生きたかった。それ以外の理由なんてあるかよ」
「……」
「暁蕾さん、なんであの日、自分で自分の遊郭を燃やしたんだ。今までそんな素振りなんて見せてなかっただろ」
龔飛龍は声を震わせながら小さく息を吸って吐く。
「……人を喰った証拠をなくすためにやったのか?」
玥は何も言わない。下唇を噛んだまま、何も言えないままで口を閉ざしている。
「答えろよ!」
龔飛龍は顔を苦痛に歪めて彼女に向けた。彼のその顔を見た玥は息を呑んで瞼を伏せる。
「……あたしは」
その後に続く言葉を龔飛龍は待つ。玥は一歩ずつ彼から離れていく。蜘蛛の脚は一本ずつしおれたように力なく垂れ下がった。彼女の顔は元から白かったものが更に白くなり、そして黒くなる。
「あたしは……本当は、そうじゃなかった。そんなつもりじゃなかった」
玥は両手で自分の顔を覆う。頭を振れば長くて艶のある黒髪が揺れる。
「あんたを守りたかった」
その言葉に龔飛龍の顔は歪みをやめた。徐々に元通りになって、口を少しだけ開ける。彼が玥に近付く。宁麗文は口を出そうと身体を少し前に出すと、いつの間にか隣にいた肖子涵が止める。宁麗文を止めた彼の顔を見ると、肖子涵は首を横に振って二人を見た。
玥は龔飛龍が自分の元へ来ていると分かっていながらも、それを拒否することはしなかった。彼女の押さえた指の間から大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめん。放火魔って言って。犯人にさせちゃってごめん。突き放すようなことを言ってごめん。あんたの気持ちをずっと分かってた。ずっと本気だって知ってた」
鼻水をすすりながら泣く玥に龔飛龍は見下ろす。彼は視線をあちらこちらに動かして言葉を探す。下唇を噛んでは開いてを繰り返して、か細い声を出した。
「……俺、こんなに大きくなったんだ。自分で金も稼いだんだよ」
玥は顔を上げて彼を見上げる。暗闇にいるというのに、龔飛龍の瞳には光が宿っていた。
「だから、今度こそ琳玩を出よう。暁蕾さんが嫌じゃなかったら。一緒に生きてくれるなら」
「……阿龍……」
白くて滑らかな肌に透明の涙が零れて顎に滴り落ちる。その跡を龔飛龍は親指で優しく拭った。玥の背中にあった蜘蛛の脚は次々と彼女の背中へ入っていく。龔飛龍は彼女にそっと微笑んだ。
「あたしは化け物だよ。もう十年前に亡くなったんだよ。今更、出るなんて。……遅すぎるよ」
「それでも構わない。あなたを傷付ける奴らは全員殺す。俺があなたを幸せにしたい。そういう願いは叶えさせてくれないのか?」
宁麗文と肖子涵はそれぞれ剣を鞘に納める。龔飛龍は笑って自分の剣を納めた。
「暁蕾さん。俺と、結婚してください」
その言葉に玥はまた顔を顰めて泣き始めた。子供のように、宁麗文がいつもの玥だとは思えないほどに泣いていた。龔飛龍は彼女を優しく抱き締めて背中を叩く。彼が触った背中は蜘蛛の脚のない、普通の人の背中だった。
宁麗文は瞼を伏せて息を吸って吐く。
玥は妖でも元は人間だ。それが十年前、彼女は確かに死んだ。おそらく、彼女は本当に焼き死んでしまって、何かを願い続けて再びこの世に現れたのだろう。そして何人もの妓女と客を喰い殺して生きていた。その理由は彼女本人にしか分からない。
「宁麗文」
龔飛龍は玥を抱き締めながら振り返る。宁麗文は彼の顔を見た。
「今回の任務はこれで完了にしてほしい。俺はこれから琳玩を出るよ」
言葉を吐いた彼の顔はとても穏やかなものだった。宁麗文は肖子涵を見て、また龔飛龍を見る。
「……本当に、いいのか?」
宁麗文からの問いに龔飛龍は微笑んで頷く。玥から身を離して手を繋いだ。泣きすぎて瞼の腫れた彼女は宁麗文を見て苦笑う。
「子麗……ううん、宁麗文って言うんだね。ごめんね、首絞めちゃって」
「……玥さん」
「あたしは玥じゃない。この子の呼んでる通り、暁蕾って言うの。……婆さんたちに言っといて。玥はもう死んだって」
宁麗文は顔を顰めながら口を開く。しかし何も言葉は出てこず、顔を俯かせて瞼を閉じる。
玥、いや、暁蕾は十年前に死んだ。しかし玥という妖として生きている。その玥が死んだと桜綾たちに伝えたとして、また事件は続いていると騒がれてしまうだろう。そこまで考えた宁麗文は頭を振って顔を上げた。
「いいえ、言いません」
暁蕾が目を丸くする。宁麗文はその後に続ける。
「代わりに『身請け話を受け取って琳玩を出た』って言います。そうしたら、この事件は解決に繋がるから……」
肖子涵は言葉に迷い始める宁麗文を見続ける。暁蕾は宁麗文の言葉に微笑んで目尻に涙を溜めた。
「うん、分かった。婆さんが納得するとは思わないけど、そう言っといて。色々ありがとね」
一つ息をついて、また開く。
「それから、そこのあんた」
暁蕾は顔を肖子涵に向けた。彼も宁麗文から彼女へと向きを変える。
「あんた、なんとなくだけど……。ううん、やっぱいいや。言ったら怒りそうだし、また死にたくないからね」
「……構わない」
宁麗文と龔飛龍は瞬きをして暁蕾と肖子涵を交互に見た。二人の間に何か通じるものでもあるのだろうか。よく分からないが、宁麗文は突っ込まない方がいいと考えた。
その後、龔飛龍と暁蕾はその部屋から出ていき、宁麗文と肖子涵はそこにいた。宁麗文は溜息を吐いて右手で頭を搔く。その場でしゃがみ込んで祓邪を床に立てて身体を支えた。
「……予想外だったな」
宁麗文の声に肖子涵は彼を見下ろしながら返事をする。
「まさか十年前の放火事件に龔飛龍が関わってたなんて。玥さんは……どういう願いを込めて生き返ったんだろう」
「生き返ることはできない」
「分かってるよ。妖として生まれ変わっただけだ。でも、今の彼女は人間だったよ」
宁麗文は立ち上がって肖子涵の顔を見た。にっこりと笑って「とりあえず、任務完了だ」と言う。肖子涵も微かに口元を上げて頷いた。宁麗文はすぐに顔を元に戻して彼を睨む。
「それより、さっきの投げ飛ばしたやつは許さないからな」
先程の、肖子涵が宁麗文を抱き上げて別の部屋の寝台に投げ飛ばしたことだった。肖子涵も真顔に戻って彼から視線を逸らす。
「……すまなかった」




