二十四 嘘吐き(3)
暗い夜の中にいる。それは血にまみれた草原でいて、その中でも一等黒いものがあった。宁麗文が目をこらすとそれは黒い影だった。
彼の目の前には誰かが立っている。見上げれば黒い人は見開いた目で宁麗文を見下ろしていた。その目は絶望に染まりきっていた。
宁麗文はそれに向かって何かを言う。言っているのは確かなのに自分の声が聴こえない。黒い影は顔を歪めながら涙を流していた。
(なんで泣いているんだ)
宁麗文は冷静にその様子を見る。それでも自分の口は止まらず、影は頭を振って拒絶を表していた。宁麗文の両腕はその両腕を掴んで首元にその手を寄せる。黒い影はまた目を見開いて、瞼を震わせながら宁麗文の首に手を掛ける。大きく分厚い手は彼の細い首をいとも簡単に掴んだ。ギリギリと音が鳴り、宁麗文は苦しくなる。
それでも、なぜか笑みが零れた。それは、この人に殺されたいと、心の底から願っていたから。それが、今叶ったのだから。
息ができなくなって次第に視界が歪んでいく。浅くなった息が完全に止まって、そのまま暗闇の中へ閉じ込められた。
一度咳をして目を見開く。
(違う)
さっきまでのは夢。しかし、今は現実。宁麗文は誰かに首を絞められている!
宁麗文は喉から出る空気にもがき苦しながら絞めている何かを掴んだ。それは細くて滑らかな人の肌で、彼はその腕を掴んで抗いながら目をこらす。ばさりと彼の顔周りを隠すように長い髪が落ちる。暗闇の中に浮かび上がるのは宁麗文より派手な顔つきの──。
(──玥さん!)
「なんだ、あんたやっぱり男だったんだね。通りで陽の気がすると思ったんだ」
「……あぅ……」
宁麗文は口を開きながら言葉を出そうともがく。しかし玥はそれを止めるようにまた手に力を入れた。そして彼の鼻の先まで顔を近付ける。
「あんた、なんのためにここに来たんだ? まさか趣味で入ったわけじゃないよね? 誰かに言われて来たんだろ?」
「……うっ……ぐ……」
「あんたが仕事する初日からずーーっと同じ男と過ごしてたけど、あいつって協力者? だから最近いろんなところにいて誰かの話に加わってたんだね」
(肖寧……っ! 余計なことをして! 後で叱ってやる!)
宁麗文は肖子涵へ余計な調査方法に対する怒りを出しながらも、今はそれどころではないと焦る。今はこの目の前にいる玥から逃げることが最優先だ。
「ねえ子麗。知ってるかい? 蜘蛛は自分より弱い奴を巣に貼りつけて食べちまうのさ」
玥は大きくて丸い目を優しく細める。
「あたしはそうやって人を喰ってきたよ。時には客を喰ったし、時には寝ている二人をまとめて喰った」
宁麗文は突然の告白に目を見開いた。やはり、犯人は彼女だったのだ。そして彼女は死んでいたはずなのにこうやって生きている。
であれば、この人物は『人間』ではなく『人間になった妖』だ!
(クソっ……どうして腕輪が反応しないんだよ!?)
宁麗文は両手で彼女の両腕を剥がそうと力を込める。しかし、彼より弱いはずの玥は首に掛ける力を更に強めた。
(死ぬっ……苦し……っ)
「あんた、もしかして修士様? だからこんなに陽の気が溢れてるの? ふふ、美味しそうだね」
玥は更に顔を近付ける。鴉のような黒髪が彼の顔の周りに、更に簾のように覆う。不明瞭な視界の中で宁麗文は目元を顰めた。
(このまま終わってたまるか!)
唇に唇が合わさりそうになった時、宁麗文は額を思いきりぶつけた。それに玥は反動で少し顔を反らす。その隙に宁麗文は彼女に向けて唾を吐いた!
「ぎゃあっ!」
ふっと首に掛かった力が抜けて喉から肺へと空気が通る。宁麗文は息を深く吸った。
「肖寧!」
天井に向けて彼の名前を呼んだ瞬間、窓から厚い外衣を羽織る肖子涵が脚から飛び込んでその勢いで玥を戸に向けて蹴り飛ばし、そのまま守るように彼に覆い被さる。宁麗文はいくらか咳き込んで上半身を起こして二人で彼女を見る。
玥は戸ごと廊下に投げ出され、乱れた髪をそのままにふらりと立ち上がった。髪をかきあげれば黒い目がこちらを笑うように細まる。
「いったいな。女に優しくしろって言われなかった?」
玥は髪を後ろに投げて宁麗文に掛けられた唾を腕で乱暴に拭う。乱れた服は直すこともせず、そのまま二人に襲いかかる!
肖子涵は宁麗文の近くに物を置いてすぐに離れ、玥からの攻撃を廓偲で防ぐ。刃と刃が重なる銀の音を向くと玥は肖子涵からの攻撃を腕──いや、黒く光っている鋭利な前脚で受け止めていた。
宁麗文が自分の近くに置いてあるものを見ると、それが祓邪だと気付いた。すぐに立ち上がって祓邪を抜き、玥へ一直線に向かい、彼女はその宁麗文を鋭い脚で貫かんと伸ばす。その直前で宁麗文は床を蹴って彼女の脳天目掛けて祓邪を振り下ろす!
玥は肖子涵からの攻撃を防ぎながら宁麗文へ天井から蜘蛛を呼び起こして彼の身体に這わせる。攻撃をし損じた宁麗文は背中から襲ってくる蜘蛛にゾッと背筋を凍らせて床に転がった。
「宁巴!」
肖子涵は玥へ向けていた圧を一気に掛けて押し出し、彼女が姿勢を崩す。その隙に宁麗文の元へ駆ける。
「クッソ、蜘蛛気持ち悪い!」
宁麗文は頭にきながら床に背中を押しつけて蜘蛛たちを潰す。ぶちゃぶちゃと音が鳴り大量の体液が溢れ出したことにより彼はまた顔を青ざめて羽織りを荒く脱ぎ捨てて立ち上がる。
彼が立ち上がり、肖子涵が玥に背中を向けた瞬間、彼女が背中を見せた彼に鋭く尖った蜘蛛の脚を伸ばす。すぐに気付いた肖子涵は後ろ目で、背中に廓偲を回して攻撃を塞ぐ。また刃と刃が交じるかのような音が鳴り、火花が散る瞬間もあった。
玥は彼の行動に感嘆の声を上げる。
「はあ、中々のもんだね。どんだけ倒してきたの?」
「数えきれないほどに倒してきた」
玥はほくそ笑んでギリギリと肖子涵を押し負かす。しかし彼はそれを上手くかわし宁麗文の腰を抱いて守るように胸の前に引き寄せてから別の部屋へ駆けた。玥はその場で一歩も動かずに数本の脚を伸ばす。片手で宁麗文を抱えもう片手で廓偲を自在に操って彼女からの攻撃を受け流していく。
肖子涵は別の寝台以外の物が置かれていない部屋に入り込み、急停止して抱えていた彼を寝台に投げ降ろしてから勢いをつける。驚いた宁麗文は寝台に寝転がり、背中に壁をぶつけた。
「いった!? 肖寧、後で覚えてろよ!」
宁麗文はすぐさま立ち上がって後を追ってきた玥の後ろへ飛び上がってまわった。彼女は振り向きざまに舌打ちをしてから脚で彼の手を狙う。それに気付いた宁麗文は祓邪の鞘で弾き飛ばした。
「あんたら、二対一で戦うとか卑怯じゃないか? こっちは女なんだ、優しくしてくれよ」
「誰が優しくなんかするか」
肖子涵は低い声で煽る。玥はそれを聞いて片方の目元をわずかに歪めた。そのまま無数の脚で肖子涵へ強く伸ばす。肖子涵はそれらを廓偲でかわして斬り刻んでいく。バラバラと崩れ落ちた脚は瞬く間に塵へと化した。しかし、玥はそれに痛覚を宿らせていないのか、斬られていても平然としていた。
宁麗文は彼女の後ろ姿を見る。はだけて露になっている背中からは無数の蜘蛛の脚が生えていた。黒く艶のある、長い髪が脚の上に被さっていて、それが暗闇に紛れ込んで見えなかったのだ。
玥は瞼を伏せて妖艶に笑いだす。俯かせた顔を肖子涵に向けてから前に垂れた髪を後ろに流した。それを合図に、天井や床、あらゆる隙間から小さな蜘蛛が次々と現れる。宁麗文はまた顔を青ざめながら悲鳴を上げて逃げまわった。肖子涵はそこから動くこともせずに彼女を睨む。
玥が目を微かに見開き、また彼に脚を伸ばす。それを肖子涵が斬った瞬間、外から誰かが飛び出した。
「え!?」
逃げるのに諦めた宁麗文が左手で蜘蛛を殴って浄化させながら見て驚く。それを聴いた玥がふと、伸ばしていた脚を止めた。
肖子涵の後ろの窓から飛び出してきたのは遊郭が嫌いで、宁麗文の受け渡しを終えた以降姿を現さなかった龔飛龍だった。
二人は互いを見て愕然とする。攻撃をやめた彼女に肖子涵は廓偲を持ったまま二人を交互に見た。
龔飛龍は玥に目を見開き、そして口を開く。
「──暁蕾、さん……」
それは震えていて、悲痛の声だった。




