二十二 戸惑う晩夜(2)
それから玥は客が来たと宁麗文を置いて部屋を出ていった。結局次に話される『本番』は明日に回され、それがいいと思いつつもまた聞かされる羽目になるのかと憂う気持ちに襲われる。宁麗文は熱さでどうにかなりそうな頭を冷ますために精一杯両手で扇いでいた。
「本当に……私もやるのか……?」
そのまま顔を両手で覆いながら悶々と想像してしまって自分で自分を拳で殴った。もう何もかもやりたくない、任務を放棄したいと願ったのはこれが初めてだった。
宁麗文はよろよろと立ち上がって真っ赤に真っ赤を重ねた拳の跡を押さえながら部屋を出る。自分の部屋に戻って寝台に顔と腕を投げ出して頭をもみくちゃにしながら声にならない声を出す。息を荒らげながら寝台から顔を上げてくるりと身体を返して天井を見上げる。頭の中ではまだ玥が言っていた『前戯』の説明が残っていた。
「……もう……どうすればいいんだよ……」
上を向きながら溜息をついて前を向く。閉じた戸には鳳凰が飛び、桃の木がそびえ立ち、広大な河が流れる様を描いた、豪華絢爛とも言えるような、派手な彫りが施されている。元より静かで質素な好みがある宁麗文にとって、このような派手な作りは眩しくて眩しくて見ていられない。顰めっ面をしながら戸からそっぽを向いて腕輪を右手で触りながら今後のことを考えていた。
(とりあえず、もし客が取れたとして……行為に及ぶ前に予め手刀かなんかで気絶させて、安全な場所に避難させよう。龔飛龍はこっちに来るのかな。桜綾さんに事情を話してたんだから、そのうち来るか……)
そしてまた顰めっ面を、それもまた彫りを深く刻んだような苦い顔をしながら腕輪を触る手を止める。
(男と、かぁ〜〜……嫌だ、嫌すぎる……そもそも私も男なんだよ、なんでこっちが女役なんかしなきゃいけないんだよ! ふざけんな! 任務が終わったら絶っっっ対江陵に帰って籠ってやる! もう二度と琳玩になんか来るか!)
心の中でひとしきり罵ってから起き上がって眉間を揉んで溜息を吐く。まだ玥は客の相手をしているようなので何をすればいいのかすらも分からない。立ち上がって暇つぶしがてらに桜綾の元へ行こうと戸を開ける。
「きゃっ」
「ん?」
目の前にいたのは小柄な女三人だった。宁麗文が瞬きをして立っていると、彼女たちは彼を見上げて頬を赤らめた後に「ねえ、やっぱり……」「そうよね……」とひそひそ話し始める。
「えっと……」
宁麗文がどう声を掛けようか迷っていると、一人の一重でややつり目の女が口を開いた。
「君が子麗よね?」
「はい?」
急に源氏名を呼ばれて変な声を出してしまう。ふと我に返って「はい、そうです」と答えると三人は顔を輝かせた。
「本当に綺麗!」
「姐さんより綺麗じゃない?」
「バカ、姐さんの方が綺麗よ。この子は可愛げのある綺麗。それにしても背が高いわね。あなた、何を食べたらそんなに大きくなれたの?」
次々と出てくる称賛の声に宁麗文は頬をぴくぴくと動かしながら愛想笑いを浮かべるしかない。
「あっ、紹介が遅れちゃったわね。私は翠蘭。この子は妃紗麻。で、この子は叶青よ」
頭を横に二つくるんで結んでいる、最初の一重の少女は翠蘭と呼び、彼女の隣の、茶髪を高くまとめて白くて小さい花を髪飾りとして挿している少女を妃紗麻と呼ぶ。そして彼女のまた隣には叶青と呼ばれている、頭を下に綺麗にまとめている少女がいた。彼女たちはそれぞれの色の服を身にまとっていた。
三人のうち、妃紗麻は目を輝かせながら彼の前にずいっと踏み出す。宁麗文は戸に手を掛けたまま少し後ずさった。
「あなた、昨日からここに来たって本当?」
「え、ええ……まあ……」
「姐さんから聞いたよ。人に言えない事情があるんだってね」
(玥さん……)
宁麗文は口元をぴくぴくと動かしながら彼女に対して呆れていた。
確かに『男』だと素性を明かすわけにもいかないし、かといって彼の周りに妓女だった人などは存在しない。つまるところ彼と関わりのある人間のほとんどがちゃんとした家の生まれなので、自ら身体を売るために遊郭に入った女はいないのだ。そのためこの場において適切な説明の仕方が見つからない。だから彼は言葉を濁してそう言ったのだ。
「でもそういう人もいるよね。姐さんも遊郭を転々としてるって言ってたけど、詳しいことは言ってくれなかったし」
叶青の言葉に今度は翠蘭が口を開く。
「そりゃあ私たちだって人に言えないことの一つや二つぐらいあるでしょ。妃紗麻だって身売りに攫われてここに来たじゃない。叶青も親に売られたでしょ。私だって婆さんがいなかったら一生物乞いのままで野垂れ死にしてたわよ。でもそれぐらいしか言ってないし、私たちだって詳しいことは言わないじゃない」
宁麗文は彼女たちの話を聞きながらぼんやりと考える。
この世には理不尽な人生に振り回される人がいること。そしてそれを金の足しにするために悪用する人。親や親戚などの頼れる大人がおらずにまともに生きてさえできない人。彼女たちのような人々がどの地にも存在すると知り、これまでの恵まれた環境に生まれ育ってきていて、自分の想像していた以上の世を知らないままでいたことに大きく己に恥を感じた。
彼が瞼を伏せて何も言わないままでいると、叶青が胸元で両手を振りながら「ごめん!」と謝る。
「急にこんな話しちゃったら悪いよね。私たち、ただあなたと話がしてみたかっただけなの。昨日は皆、お客さんの相手をしてたから会えなくて。最近は忙しいからまた話す機会はなくなると思うけど、できたら仲よくしたいな」
宁麗文は見上げる彼女たちの顔をそれぞれ見て瞬きをする。三人の少女は彼を見上げていながらも輝くように笑みを浮かべていて、彼もまた口角を上げながら「はい」とだけ返した。
……その後も三人は彼の顔を見て黄色い声を上げ続けていた。
そして二日後。宁麗文は奇跡ながら一度も客を取っていない。そして玥はまだ彼に閨での作法を教えていた。桜綾から借りたという閨での指南書も付け加えられ、宁麗文はずっと顔を赤くしたり白くしたりとまるで百面相でもしているかのように顔色を変えながら聞いていた。その度に玥は卓を叩きながら笑い転げていた。
彼女が仕事に向かえば代わりに翠蘭、妃紗麻、叶青が会いに来て、菓子をつまみながらお喋りをする。宁麗文は「むしろ客を取るのよりこっちの方がいいかもしれない」とぼんやりと思い始めてきていた。しかし三人からは怒涛の質問が押し寄せられ、「いややっぱり任務やらなきゃよかった!」と心の中で頭を抱えながら後悔していた。
その日の夕方に桜綾が部屋にいる宁麗文に戸越しに声を掛ける。その時の宁麗文は玥から押しつけられた新しい服を身にまとっていた。龔飛龍に連れられた時の赤い牡丹の刺繍のある服ではなく、彼にとって一番似合う薄緑色の服だった。宁麗文はこの時、今まで慣れなかった淡い赤の服から見慣れた薄緑色の服に着替えることができる安堵感で少しだけ涙が出ていた。宁麗文はそれまで任務について考えていたことをやめて戸を開けて見下ろす。彼より頭一個半分ほど低い桜綾は彼を見上げてから口角を上げて「客だよ」と言った。
宁麗文は心の中で衝撃を受け、返事をしながらも両手で顔を覆いたい衝動に駆られていた。
(嘘だ……来るなんて……嘘だ……)
自分はこれから男と身体を合わせなければならない。その直前までにどうやって気を失わせてやろうかと考える。宁麗文と桜綾は下階に行き、玥と茶楼へ行く道とは違う道を進む。そこにはいくつかの部屋がずらりと並べられており、おそらくここが『仕事』と呼ぶ閨のための部屋なのだろう。宁麗文は牢屋にでも来たような気分でただ案内されるがままだった。
「ここにあんたの客がいる。まあ、悦ばせてやってくれ」
「あ、あはは……」
桜綾は宁麗文の背中を一回叩いてからその場を去った。彼はやはり任務を受けたくなかった、龔宗主と龔飛龍に拳を叩きつけてやりたいと心の中で恨み言を並べながらも、深呼吸をして戸の向こうに声を掛ける。
「失礼いたします」
俯きながら戸を開けて顔を上げる。視界に映ったのは、黒い人物だった。
(んなっ──!?)
宁麗文は口をぽかんと開けて愕然とする。
なぜなら、そこにいたのは肖子涵だったからだ。




