二十二 戸惑う晩夜(1)
夜が明けて朝が来た。宁麗文は起きてすぐに飴を舐めて噛み砕く。そして声の調子を確認してから着替える。どうやらこの飴は噛み砕いても効果を発揮するようだ。昨日は自分の女声に慣れずに少々どもった口調でいてしまったが、それも順応性が高いからだろうか、段々と慣れてきていた。
胸に詰めものを詰め直して身なりを確認してから部屋を出る。玥はまだ寝ているようだったが、宁麗文は試しに戸を少し叩いてみた。すると部屋の中から「どうぞお」と気の抜けた彼女の声が返ってくる。宁麗文は少し咳払いをして口を開いた。
「おはようございます、子麗です」
戸を挟んで挨拶すると、中から戸が開かれた。前を見ても誰もおらず、下を向くと眠たげに這いずりながら手を戸に掛けていたのだろう、起き抜けから服が乱れ胸がやや露出しており、這いずっていた脚は脱げてしまっていたのか尻がぎりぎり見えるか見えないほどまで伸びているという、妖艶な姿に変わっている玥がいた。宁麗文は彼女の顔と身体を見て急に顔が熱くなるのを感じて慌ててそっぽを向く。玥は笑いながら「そんな赤くなってちゃこれからどうするのさ」と起き上がって彼に背を向けて自分で着直して部屋を出て戸を閉めた。
「ご飯、食べに行こっか」
眠気の飛んだ彼女の言葉に頷いた。
昨日寄った玥のお気に入りの茶楼にて朝餉を食べて遊郭に戻り、二人は彼女の部屋へと入る。部屋の中はほとんど物が置いておらず、寝台と卓のみという意外と質素なものだった。宁麗文が顔を右往左往へと動かしていると、玥が口角を上げる。
「なんも置いてないでしょ。あたし、元々そんなに物を持ちたくないんだ」
「それはなぜですか?」
「だってぐっちゃぐちゃだと婆さんに怒られるもん。そんなの嫌でしょ。だから必要最低限の物しか置いてない」
玥は卓に座って片目を閉じる。彼女らしい返答宁麗文は苦笑を浮かべるしかなかった。彼女は卓から離れて宁麗文を招いて二人で卓を挟む。
「それじゃ、お勉強しよっか」
玥は両手をぱんっと音を鳴らすように合わせてにっこりと笑みを浮かべる。宁麗文はきっちりと膝を合わせて「よろしくお願いします」とお辞儀をした。
「うん、まずは基本的なところから入るんだけど。子麗って遊郭のこと、どこまで知ってる?」
「えっと……」
宁麗文はこれまでの記憶を呼び起こす。漢沐熙が話していたこと、龔飛龍が話していたこと。二人の説明でしか知らないことばかりで、もしかしてこれよりも難しい話があるのだろうかと身構えてしまった。
「……女性が、男性に簡単な仕事をさせられるってことぐらい……」
彼の答えに玥は瞬きをして、そして急に笑った。卓を掌でバンバンと叩きながら笑い転げる彼女に宁麗文は驚いて口を開けたまま唖然とする。
「あー、そういうことね。誰が教えたのか知らないけど、あんたはすっごく勘違いしてる。はあ、面白い。そんな子いるんだ」
「勘違い?」
玥は目尻に溜まった涙を指で拭ってからまた口を開く。
「まあ、簡単な仕事って言ってもあれだね。あたしみたいな慣れてる人には簡単だけど、あんたみたいな生娘にとっては難しいかもね」
宁麗文はその説明にますます分からなくなって、目をぐるぐると回しながら考え込む。いつの間にか肩に力が入っていたようで、玥が立ち上がって彼の後ろに立って両肩を手で叩く。そのまま後ろから耳打ちをするように囁いた。
「仕事ってのはね、裸ん坊のままで相手と身体を合わせるってことだよ」
「はっ……」
宁麗文は「裸」と「身体を合わせる」という言葉でようやく理解した。それは閨という行為だ。
宁麗文はそれほど知識はなくとも、今まで青天郷の酒場や茶楼で飯を食っている時に主に男からちらほらと閨の話を流し聞きしていたのだ。最初は分からなかったものの、聞いて得なくてもいい知識を得てしまうようになってきては段々と心の中で「なんて話をここでしてるんだよ!」と顔を赤くしながら呆れていた。だがしかし、遊郭と青楼に関する知識は全く無に等しかったので、まさかこの場でこんな簡単に種明かされるとは思わなかったのだ。
(は、は、はははは──はだかっ、裸で身体を合わせる!? なんでっ……なんでそんな恥知らずなことをここでしてるんだ!? 龔飛龍と龔宗主はなんて任務を私に押しつけたんだよっ!)
驚きと困惑で身体を震わせている宁麗文に玥はいたずらっ子のように笑った。
「本っっ当に何も知らなかったんだね! あは、あははははははは!」
「うう〜……」
「もう、面白すぎる! あんた、そんなんで今までどうやって生きてきたの? 純粋無垢すぎるよ。よく男たちに狙われなかったね?」
玥は上を向きながら笑って壁に移動し、腕をつけて今度は俯きながら腹を抱えて笑う。宁麗文は顔を俯かせて徐々に赤くなりながら膝の上の拳を握り締めることしかできなかった。玥は満足するまで笑って振り返り、彼にまた質問を投げる。
「じゃあ、どうやって身体を合わせるのかってのは知ってる?」
「……何も……」
ウキウキといたずらを仕掛けるような声の調子の彼女は宁麗文の隣に椅子を動かして座る。彼はまともに顔を見ることができず、彼女の座っている場所と逆の方向に顔を向ける。その顔色は耳まで真っ赤になっていて、まるでゆでダコのようだった。玥はまた笑いながら卓に腕をついて彼の顔を覗き込む。それでも宁麗文は彼女から逃れようとそっぽを向いた。
「あんた、そのままじゃいくら美人でかわいくても客の一人や二人も取れないよ? それでもいいの?」
宁麗文は元々任務のためにここに潜入しているのだ。だから客を取る取らないは関係がないが、彼女に不審がられないようにするにはそうしなければならない。しかし閨についての知識はこれ以上入れたくはなく、むしろ忘れ去りたい。現実逃避として青鈴の作った手料理や春が作った山査子の飴を思い出して、閨という行為の作法を聞かないように必死に耐えるしかなかった。
しかし、現実というのは無情なものだ。これ以上何も聞きたくない宁麗文の気持ちを目の前の玥という女は察して汲み取ってはくれないだろう。ここではもう、諦めてすんなりと現実を受け入れるしかないのだ。
「よおし、玥お姐さんが教えてやろう。指南書はあるけどそれすらも見たくなさそうだからね、今日は口で説明してあげる」
玥はまた椅子を動かして彼と卓を挟んで肘をついてから顎を支える。宁麗文は少しずつ赤みが取れてきた顔をゆっくりと上げる。
「まずね、いきなり身体を合わせるんじゃないんだよ。前戯って言って、最初は唇同士……いわゆる口付けだね。それを始めとするんだ」
「く、口付け……」
宁麗文は説明を聞きながら昔のことを思い出す。あれは十三の頃だ。当時彼は珍しく体調がよく調子に乗って廊下を走っていた。どこに行くかも後先も考えずに、ただひたすらに走っていたのだ。ちょうどその先に青鈴が彼の前を歩いていた。宁麗文は彼女を呼ぼうと走ると服の裾を足で踏んでしまい、「あっ」と不意に声を出して彼女を振り向かせてしまった。そしてそこで二人同時に転んでしまって一瞬だけ唇を合わせてしまったのだ。
まあ、不本意で起こってしまったことなのだから、これは事故となる。宁麗文はあの後必死に謝り、その後も青鈴と気まずい時間を過ごしていた。しかも悲しいことにその場に居合わせた家僕が深緑に伝えて彼に「元気だからといって走り回るな」とこれまたこっぴどく叱られたのだ。
その記憶を思い出して玥の前でも気まずすぎる表情を浮かべる。
「口付けはしたことある?」
「……昔、事故で……」
彼女は大きな目で瞬きをして「あらら」と声を零す。宁麗文は両手で顔を覆いながら恥を感じていた。
「まあいいや。事故でも口付けは口付け。それで、相手に自分を触ってほしいって胸元に猫みたいに擦り寄ってねだるんだよ。それはもうね、あまぁい声で。いける? 甘い声出せる?」
「あ、甘い声……?」
宁麗文は困惑しながら玥の説明を聞く。彼女は頷いてにっこりと笑う。
「そのうち分かるよ。それで、相手を誘いに誘って触らせるの。といってもね、いきなり胸とかじゃないんだよ。首筋とか掌とか、太ももとか足とかね。これは自分でくすぐったいって思えるところに手を置かせて触らせるんだ」
いやに艶かしい玥の声に段々と頭から湯気が出そうなほどにまた熱くなり、下唇を噛みながら俯いていく。
「また顔赤くなってる。少し刺激が強かったかな?」
「い、いえ! そんなことないです! 決して!」
宁麗文は慌てて顔を上げて強気に出る。玥は目を見開いて片方の口端を上げた。
「いいぞ、その調子! まあ、触らせるって言っても、がっつり触ってもらうんじゃないの。触れるか触れないか……本当にくすぐったい! って思えるぐらいにやらせてあげてね。そしたらそのうち自然と声が出ちゃうから、わざと声を抑えるの。相手がそれで興奮しちゃうからね。相手をいかに焦らせに焦らせて、獣のように……こう、がおーっ! ってなるところまで続けるんだよ」
玥は途中から手で説明をし、獣が襲いかかるような手の形も真似て加える。宁麗文は余計に戸惑うことしかせず、身を硬くしながらまた口を噤むことしかできない。
「これが前戯。何か質問はあるかい?」
「……ないです……」
「ふふ、そんなに顔赤くしちゃ何も言えないよね。じゃあ、次は本番だよ」
玥はまた瞬きをしてから片目を瞑る。宁麗文は赤い顔のままダラダラと汗をかき始めた。
(まだあるのか!? しかも本番だって? 今のでもう頭いっぱいなのに、これ以上聞いたらおかしくなっちゃうよ!)
心の中で自身の頭を抱えながらしゃがみ込んだ宁麗文は段々と俯き、そして遂に卓に額をぶつける。いよいよ頭から本当に湯気が出てきてしまい、玥はまた大笑いをしながら手を叩いていた。




