二十一 遊郭(3)
彼女の手が戸を開けると、そこに広がっているのは人が二人住めるほどの広さだった。宁麗文は口を半開きにしながらおそるおそる中に入る。
「ここはあんただけの部屋だよ。あたしはこの隣にいる。何かあったらすぐ言ってね」
「あ、えっと……ありがとうございます。それで、あの、お名前は……」
女は瞬きをして「ああ」と思い出す。
「あたしは玥。皆からは姐さんって呼ばれてるけど、あんたは好きに呼べばいい」
「玥、さん」
宁麗文は彼女の名前を繰り返し呼ぶ。玥はにっこりと笑って宁麗文を卓の前に座らせた。彼女はそのまま宁麗文と卓を挟むようにして座る。
「それで、なんで子麗はここに来たの?」
宁麗文はその答えに考えあぐねる。本当のことを言うわけにもいかないし、かと言って適当なことを言ってしまえば気付かれてしまった時に面倒なことになってしまう。目をぐるぐると回しながら俯いて考えて、玥は首を傾げて待っている。
「……その……」
「うん」
「ひ、人に言えない事情があって……」
「言えない事情」
「はい……」
元々男で任務のために『女』として騙して入ったこと、そもそも遊郭のゆの字すら知らなかったことを彼女には言えない。玥の表情や態度からしてどうやら協力者ではなく、ただの一般人らしい。そうなれば尚更、自分の身の内を明かすわけにはいかないのだ。
それを踏まえて繰り返し繰り返し考えた結果、宁麗文は『生まれも育ちも正体不明の女』を演じるしかなくなった。ここからどうやって嘘に嘘を重ねなければならないかと難しい顔をする。玥は気まずそうな顔をしている宁麗文を覗いて小さく噴き出して笑う。
「そうなんだ。あたしはね、ずぅっと昔から遊郭を転々としてるんだ。生まれが遊郭でさ、そこから妓女として生きてる。本当は遊郭なんて転々とするもんじゃないんだけどね」
玥は卓の上に上半身を乗せて手の先を卓の向こうの端に投げる。濡れた鴉のような黒い髪はまばらに散ることもなく彼女の肩に流れる。宁麗文はその姿を見て気恥ずかしさを感じて思わずそっぽを向いた。
「もう何度遊郭を替えたかも忘れちゃった。まあ、そういうことさ」
「なぜ、……そんなに遊郭を替えて生活をしているんですか?」
宁麗文は顔をそっぽ向けたまま横目で玥を見る。
「んー……皆さ、あたしのこといじめるんだよ。自分で言うのもなんだけど、あたしってどの遊郭の中でも一等美人だからさ。いろんな客を呼んで一番多く取っちゃうわけ。前の遊郭じゃあ本当は違う子の客だったのに勝手にこっちの客として来るの。そしたらその子が怒っちゃって。『あいつが私の客を取ったんだ』って皆に言い触らしてからいじめてきたの」
「ほんと、嫌んなるよね」と玥は上半身を起き上がらせて片手を振る。長く伸びている瞼を伏せながら頬を膨らませる彼女に宁麗文は顔を向けて少し笑った。
「確かに玥さんはとてもお綺麗です。なぜ皆があなたのことを傷付けるのか分かりません」
宁麗文の言葉に玥は面食らい、そして顔を輝かせた。そのまま卓に身を乗り出して宁麗文の目の前まで近付く。宁麗文は驚いて少し身を引いた。
「あんた、いい子だね! 気に入ったよ。そもそもあたしの身の上話を最初からするのも初めてだ。つまんなかったらごめんね」
「い、いえ」
玥は目を弧にして笑って身を引く。卓の上で腕を組んで「そうだ」と口を開く。
「今日はもう遅いからね、明日色々と教えるよ。お腹も空いたでしょ?」
彼女の言葉に宁麗文の腹は応えるように音を鳴らす。つい出してしまった音に彼は顔を赤くして俯いて、玥は噴き出して笑った。
「今日はあたしと食べよう。この遊郭でじゃあたしが一番だから、きっといいご飯が食べられるよ」
「順位ごとにご飯が違うんですか?」
玥は頷いて立ち上がる。戸の前まで行くのを見て宁麗文も慌てて立ち上がって続いた。部屋を出てまた下階に降りて今度は入口とは逆の方へ行く。宁麗文はどこに連れていかれるのだろうと考えながら彼女の行く先に着いていく。奥に進めばそこには外への出口があった。玥はそこを通って外に出て宁麗文も続いて出る。
その先には茶楼がそびえ立っていた。どうやら遊郭の前後には道が続いており、奥の出口の先には様々な茶楼が並べられている。宁麗文は周りを見回していて、それを横目で見る玥は彼の背中を軽く叩く。
「まあ、順位ごとっていうよりかはそれぞれ食べに行きたいところに行くって感じかな。あたしはここが好きだから通ってるんだ。ご飯奢るからさ、一緒に食べよう」
「嘘ついてごめんね」と玥は片目を閉じて舌を少し出して顔の横で両手を合わせる。宁麗文は口の端を上げて首を横に振った。そのまま二人は茶楼に入って飯を食べ、その後も玥の身の上話を聞く。
「それで、玥さんは琳玩から出たことはあるんですか?」
宁麗文は箸で高級そうな点心を摘んで口の中に入れる。江陵や膳無で食べたような食事ではなく、全く食べたことのない味に衝撃を受けながら食べ進める。玥は彼の食べる速度に笑いながらよく蒸したかぼちゃの餅を指で摘んで食べる。
「ないよ。一度もない。出てみたい気はするけどね。でも一生このままいるつもりだよ。……あっでも、昔、一緒に出ようって言ってた子供がいたな」
「子供?」
目線を斜め上に向けて思い出す玥に宁麗文は小籠包の口内に広がる肉汁を噴き出さないように飲み干しながら聞く。彼女はひとつ返事をして頷いた。
「もうどれぐらい前かな。ここじゃない別の遊郭で暇してたらさ、まだ尻の青い子供がうちにやってきたの。なんで来たんだって聞いたら『あなたに会いたくて来た』って」
「はあ……」
「まだ全然子供なんだよ。あたしよりも頭何個分も低いのに会いに来たんだって。それから買うって、ここから外に出すって言われたんだ。そんな大金どこにもないのにさ……」
笑いながら言う玥は段々と声と顔を俯かせる。宁麗文はその様子に首を傾げて怪訝な顔を浮かべていた。玥は髪をかきあげながら肘を卓につける。それでも俯きながら、溜息混じりに苦笑した。
「その子、何度もあたしに会いに来たんだ。何度もあたしを買うって。父親の金を使えばいいのにって言っても自分の稼いだ金で買うって……」
宁麗文は何も言わなかった。玥は髪をまとめて片方の肩に流して箸で点心を掴む。
「でも、いつかは忘れちゃったんだけど。その子、消えたみたいにパッタリ来なくなったんだ。何があったのかも分からない。もしかしたら本当に稼いでいて、その途中で死んじゃったのかもしれない。それか、あたしのことなんて忘れてどっかに行っちゃったのかもしれない。全然分かんないんだけど、そのうちあたしも別の遊郭に引っ越しちゃってさ。全く会えなくなっちゃった」
「まあ、ひと時の癒しってことさ」と話を締めくくって点心を頬張る。彼女はこの点心が好きだからなのか、頬に手を当てて目を弧にして味わっていた。
宁麗文は瞬きをしながら瞼を伏せて言うことを探していた。あまり人の過去を探ってはいけないと分かっているしそれをどうこう言うつもりもない。ただ、彼はその過去を持つ玥になんと声を掛ければいいのか悩んでいたのだ。
「子麗? 手が止まってるよ。美味しくなかった?」
玥の言葉に宁麗文は我に返って顔を上げる。慌てて首を横に振って「美味しいです」とまた箸を進めた。
すっかり夜になって二人は遊郭に戻った。腹いっぱいに食べた玥は欠伸をしながら「明日から教えるねえ」と隣の部屋に手を振りながら入る。宁麗文は彼女が戸を閉めたのを見てから角部屋に入った。後ろ手で戸を閉めて卓の前で力が抜けたようにへたり込む。
(これから……これからどうすれば……)
宁麗文は改めて任務への不満を漏らす。しかし今更どうこう言っても龔星宇と龔飛龍はいないのだから文句も何も言えない。宁麗文は不満げに頬を膨らませながら立ち上がって寝台に腰掛けた。
(……でも、玥さんか。彼女はここで一番美しい人だから、もしかしたら次はあの人が被害に遭うかもしれない)
宁麗文は俯いたまま両手を見て握り締める。
今度こそ人を救いたい。二度と失わせたくない。
宁麗文は唇を噛み締めて左手首にある腕輪を見た。彼の後ろには薄い紙の貼られている窓がある。そこから入り込んでいる月光が腕輪の緑の宝玉を照らした。
何も言わないまま寝台に上がって膝を抱える。これからどうすればいいのだろうか。彼はこれからのことを憂うしかなかった。膝に顔を埋めて深い溜息をついて、また龔親子への不満を漏らす。その後、勝手に名前を使った肖子涵への不満を漏らして、宁麗文は仕方なく明日に備えて寝ることにした。




