二十 酔いどれ馬鹿(1)
怨詛浄化の任務を受け続けて三週間後。宁麗文は終えた任務の報告書を無名でまとめていた。
最初は慣れずに何回も書き損じていた書類だったが、今となっては難なく筆を動かす。宁麗文の頭の中で予め情報をまとめられるようになったので滞りもなく最後まで書き終える。筆を置いて小さく唸りながら伸びをして息を吐いた。
「やっと終わった……」
今回の怨詛浄化は低級の邪祟でも一人では数が多く活動範囲も広かった。住民に頼み込んで一軒の借家で数日過ごしながら浄化をしていて、これがまあ骨が折れるものだった。点々とした場所に様々な魔が潜んでいて祓邪を持ちながら浄化をしていったものの、最後に浄化した魔は栗鼠を模したもので木々の影に隠れていて、器用なものだったのだ。それを探すのにいろんな場所を駆けずりまわって、やっと見つけた頃には疲れに疲れを重ねていて相当頭にきていたのだろう、祓邪を使わずに左手でその魔を綺麗に殴って浄化したのだ。
宁麗文は卓の上に肘を置いてそのまま拳で額を押さえる。
(数が多すぎて私の方が倒れそうだったよ、全く……兄上を呼べばよかった……)
頭を振って卓に手をついて立ち上がる。書いたものを全てまとめてから腕に抱えて無名から出た。今日は報告書を提出し終えたら青天郷に遊びに行くと決めていたのだ。宁麗文は鼻歌交じりに廊下を歩いて書室へ向かう。
曲がり角を過ぎていくつかの部屋を通り過ぎたところだった。宁麗文はふと歩みを止めて目の先で瞬きをする。
(あの人は……)
彼の目の前でこちらに向かってきているのは、久しぶりの客だった。宁麗文よりも体躯がよく艶のある長い黒髪はすっきりと上にまとめられていて、黄金色の房の揺れる臙脂の髪紐で結ばれている。左半分を前髪で覆われてはいるが誰がどう見ても非常な端正な顔立ちをしていて太く勇ましい眉の下には切れ長の黒目が覗いており、少し冷ややかな雰囲気を持つ。一文字に結ばれている薄い唇とその黒づくめの服装により一層その雰囲気を重ねていた。
その男は肖子涵だった。
宁麗文は顔を輝かせて足を再び動かして彼の元へ走る。肖子涵は向こうから走ってくる彼に気付いてそれまで歩いていた足を止めた。
「肖寧! 肖寧じゃないか。なんだ、開関してたなら連絡の一つぐらいしてくれよ」
報告書をまとめている腕を片腕でもう一つ重ねて興奮する宁麗文に肖子涵は見下ろす。
「いつからだ? いつ開関したんだ? ああもう、ずっと会いたかったんだ。色々と君に話したいことがありすぎて──」
「すまないが、あなたに用はない」
久しぶりに聞いた声に宁麗文は思わず固まる。石のように固まってしまった彼を肖子涵は一瞥もせずにそのまま脇を通って去っていった。曲がり角を過ぎて彼が見えなくなった頃に、宁麗文は振り返りもせずに両腕で抱えていた報告書を全て落としてしまった。
違う道から通る家僕が彼の顔を見て瞬きをする。
「宁二の若様? どうされました? 報告書を落とされていますよ」
宁麗文は何も言わず、両手で顔を覆う。そしてそのままゆっくりとへたり込んでしまい遂にはその場で何もかも拒否をする猫のように蹲ってしまった。家僕は落ちた報告書を拾いながら彼の様子に困ってしまい、どう声を掛けようか考えあぐねていた。
「本当にどうされたのですか……?」
「……」
「若様……?」
「……」
宁麗文はあまりの衝撃に廊下のど真ん中で蹲るしかなかった。
宁麗文は家僕に支えられながら起こしてもらい、書室に向かう気力もなかったのでそのまま彼に報告書を提出するように言った。よろよろと急に老人のような面持ちで壁にもたれながら歩いて門を抜けて、これまた猫背になったまま青天郷へ向かう。その間でも肖子涵から言われた言葉に心をずっと殴られている感覚を受けていた。
(何も……久しぶりに会ったのに……あの言い方はないだろ……)
眉を下げながら歩いていく彼は例え猫背だろうがなんだろうが、道行く人からしてみれば『静かな雪が乾いた地面に落ちてなくなる』ような、『一日限りの淡い夜に散ってしまう花』のような儚い姿をしていると見惚れてしまうだろう。しかし、宁麗文の気持ちはそれ以上に、絶望を通り過ぎるかのようにとんでもなく落ち込んでいた。
下を向いて歩いて適当に変なものでも買って狂ってやろうかと考えていると、後ろの方で自分の名前を呼ばれていることに気付く。うるうると泣きそうな顔で振り返ると、そこには思ってもいなかった人物が立っていて、驚いて目を見開いた。
「──漢沐熙!?」
なんと、数ヶ月前に右手首を失った漢沐熙が平然と彼に手を振りながら笑っていたのだ。宁麗文は慌てて彼の元へ駆けて全身を見回す。
「漢沐熙、君、し、死んでなかったのか!? 生きてたのか!?」
「死んでないって。勝手に殺すなよ」
漢沐熙は苦笑を浮かべながら右腕を振る。宁麗文はその手の先を見た。そこにはなくなっているはずの右手──いや、黒色の手袋があった。漢沐熙は彼の目の先に気付いて「これ?」と言う。
「あの後色々とあったんだ。暇だったらでいいんだけど、飯に付き合ってくれないか?」
宁麗文は彼の言葉に頷いた。二人並んで歩き、かつて唐秀英と秦麗孝と四人で入った食事処へ向かう。漢沐熙は辺りを見回しながら何かを探しているようだった。
「どうしたんだ?」
「いや……青鈴さん、いないなって思って。宁公子にも挨拶するつもりだし、どうせなら今会って挨拶しよっかなって思ってたんだ。もしかして彼女も家にいるのか?」
宁麗文は微笑んで口を開く。
「青鈴は結婚してここを出たんだ」
その言葉に漢沐熙は驚いた。目を丸くしながら「どことだ?」と言う。
「桂城唐氏。唐公子と結婚したよ」
「そうなのか! 唐秀英と結婚したんだ。……もしかしてだけどさ、あの日唐宗主に呼ばれて家に帰ってたよな? それのことだったのかもしれないな」
「確かに……唐公子に会ったら聞いてみようかな」
片腕を支えるように腕を組み、その片腕で顎を支える。漢沐熙はにっこりと笑って宁麗文の肩に腕を回した。
「まあ、すごくおめでたいことだよ。俺も祝ってるって言っといてくれ」
「……うん……」
「どうした?」
腕を下ろして顔を俯かせる宁麗文に漢沐熙は彼の顔を覗く。宁麗文は瞼を伏せて何か言葉に迷っていた。漢沐熙は腕を離して彼の名前を呼ぶ。
「青鈴の結婚は確かにおめでたいことだよ。……でも、秦雪玲さんはそれができなかったから……」
漢沐熙は呆気に取られた顔をして、そして噴き出す。宁麗文は驚いて彼の顔を見た。
「青鈴さんと姉さんは違う人だろ? 確かに姉さんは結婚できなかった。けど、本当はしたくなかっただろうし、秦麗孝とずっと一緒にいた方が幸せだったと思うよ」
「……」
「だからそんなに気に病まなくていい。過去のことを振り返るんじゃなくて、今のことを見ればいいんだよ」
漢沐熙は彼の背中を軽く叩く。宁麗文は微苦笑をして「そうだな」と返した。
それから目的地に着いて中に入る。人はまばらであったが、宁麗文は彼のこれから言う言葉に懸念をしたのだろう、わざわざ店員に上階の個室を取ってもらってそこに入った。漢沐熙はまた苦笑して「別にそこまでしなくていいのに」と言う。それでも二人は共に卓を囲んで料理を頼み、来たものから順に手をつけていた。
「……君の手、結局は……」
宁麗文は蒸した野菜を箸で掴みながら問う。漢沐熙は右手ではなく左手で湯匙を持っていた。
「結局ダメになったよ。けど、父さんが手を作ってくれたんだ」
「作ってくれた?」
漢沐熙は頷く。
「この前言ってたけど、秋都漢氏では建築に携わっているんだ。当然怪我とかしょっちゅうでさ、大抵は指を失くしたり足を失くしたりする奴もいるんだ。で、そういう怪我をしてもいつも通りに過ごすために義手や義足を作る技術も進歩してて。……といっても今の一般の技術では動かすまでにはいかないんだ。父さんが怪我の報告を受けて直接出向いて術を掛けて動かしてるんだよ」
「術って……じゃあ、漢宗主が亡くなったらどうなるんだ?」
宁麗文は心配そうに問い続け、漢沐熙は首を横に振って汁物を飲みきってから続ける。
「大丈夫だよ。ほら、最初に言ってたこと覚えてるか?」
「えっと……確か、工具に霊力が宿ってた、だっけ」
漢沐熙は片目を閉じて右手で指を鳴らす。
「そう。初代宗主は自分自身じゃなく霊力が宿った工具を使っていた。今もその工具は大切に専用の倉庫に仕舞われていてそこから町全体の霊力を供給してる。……まあ、たまにどこか出かけるってんならそれこそ父さんの霊力をもらわないといけないし、その手続きもいるんだけど。でもそれも近いうちに工具からもらえるように今頑張ってるよ」
宁麗文は彼の左手を見た。きっと江陵へ来る数ヶ月間は使えない右手の代わりにと練習したのだろう。日常生活を送るにはまだしも、彼もまた修士の身だ。剣を扱えなければ札のみの戦闘になる。いつか皆の足手まといになってしまうだろう。だから左手でも剣を扱えるように修練してきたのだ。
宁麗文の気難しそうに彼の左手を見つめる顔に、漢沐熙はそっと笑う。
「もう大丈夫だよ。気にしないでくれ」
そのまま餃子を口に入れて咀嚼する彼に宁麗文は頷いて、また箸を持って食べ始めた。
粗方空になった器を見て漢沐熙が口を開く。
「あの後の膳無の様子、聞きたいか?」
宁麗文は勢いよく顔を上げる。彼が一番気にしていたことだ。
「あの後は姉さんの葬式が行われたよ。当然だけど、皆に慕われていたんだ。もうどれだけの人が泣いたのかも分からない。けど、秦麗孝だけは泣かなかったよ」
宁麗文は驚いたものの、しかしなんとなく気持ちは分かる。
秦麗孝は姉の秦雪玲のことが好きだった。いや、誰よりも深く愛していた。彼女の最期には泣いていたが、せめて本当の最期は泣いて引き留めることのないように泣かずにいたのだろう。
彼女の「泣かないで」という望みの言葉を確かに心に留めたのだ。
湯匙を器に入れる漢沐熙はそのまま続ける。
「それからあの草原にはいろんなところに血が残ってただろ。そこは牛や羊たちの血で、もう既に何頭かは死んでたんだ。彼らのことは……仕方なかったけど、牧舎の近くの墓地で埋葬した。これからは繁殖を中心に活動するんだってさ。あ、そうそう、葬式には龔飛龍も来てたぞ」
「龔飛龍も?」
宁麗文の驚きに頷く。
「元々結婚相手だったからな。秦麗孝と会ってから姉さんにも会ってた。姉さんのことを偲んでくれたよ」
漢沐熙は追加で頼んだ口直しの湯圓を口に含む。宁麗文は既に食べ終えた湯圓の器を卓の端に寄せて茶を飲んでいた。
「終わりは早かったけど、先は長い。いつになるかは分からないけど、今も皆、必死に生きてる。伯父さんは外部からの商人や芸達者たちに正式な許可証の手続きを強制してる。彼も自分の過ちに責任を負ってるみたいだった」
「そっか……それで、秦麗孝は今は?」
漢沐熙は宁麗文からの問いに目を弧に描く。そのまま口角を上げて口を開いた。
「あいつならピンピンしてるよ。あんた、あいつになんか言ったのか? いつもなら姉さんのことでわんわん鳴いてるのに、葬式で久しぶりに会ったときは平然としてた。珍しかったよ」
宁麗文は秦麗孝の近況に安堵の溜息をついた。彼は本当に秦雪玲の後を追わずに、そして自分の責任に押し潰されないように自身の足で生きていたのだ。
確かに選択を間違えてしまったかもしれない。真っ先に草原に向かわない、秦雪玲を巻き込まないように邸宅に押し戻す選択をしていれば、秦雪玲は亡くならず、そして漢沐熙の右手首も失くすこともなかっただろう。しかしその代わりに多くの家畜が命を落としていた。どちらにせよ、救えないものは必ず生まれてしまうのだ。
もう戻れない過去は変えられない。今更悔やんでも仕方がない。後ろを見ていてもどうしようもない。
何かを救うには、何かを捨てなければならないのだ。
だから秦麗孝は前を見る。彼は次期宗主として、そして永遠の双子の片割れとして生きていく。
宁麗文は口を綻ばせて「そっか」と返した。漢沐熙もただただ頷くだけだった。




